「わたしは彼らのためにお願いします」(ヨハネ17・9)
主は私たちのために執り成しをするために今も生きておられます。だからあなたが主に対して黙っているあいだも、主はあなたのために祈っておられるのです。もし主の御手があなたの上に置かれていてそのために祈ることが出来ないのなら、なぜあなたはこのことを嘆く必要があるでしょうか。その時、あなたの恵みに満ちた信仰ある高き所の大祭司はご自身のとりなしという純粋で香り高い高価な香油を差し出しておられるのです。
しかし、もしあなたがもっと祈ろうと自らを鼓舞したいのに、あなたの心があなたをとがめ、自分は怠惰で冷たくなっていると知るなら、イエスが驚くべき長い苦しみの中で代わりに祈っておられたということを思い起こすのはあなたの心の琴線に触れずにはおかないことでしょう。主が「わたしは彼らのためにお願いします」(ヨハネ17・9)と言われた時、主は弟子たちのためにどんなに確信と力あふれた訴えを注ぎだされたことでしょうか。そして弟子のためにそのような全能の愛の息吹をわれわれが耳に入れさせていただくとは何という主の恵みでしょうか。
もし、主がこれ以上何も言われなかったら、主はつねに同じ主であるので、この祈りのいくつかの反映された祝福のかすかな分け前を私たちに与えてくださるであろうと私たちはおずおずと推測したかもしれません。しかし、主は私たちがほとんど祈るには十分な大胆さを持てないだろうということを予期して言われます。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17・20)あなたはその彼らのことばをとおして主を信じましたか。それなら、あなたは主があなたのために祈ってくださったということ、また一節一節とたくさんの祈りの中のその祈りをもとに「イエスは私のためにこのことを祈ってくださった」と言える明白で積極的な確信をもつことでしょう。
そして主がいかなるこだまも私たちのところには降りることのない天国の賞賛の中心にいらっしゃるからには、私たちの変らざる態度にもかかわらず、この同じイエスが心のうちにいてくださることを一瞥するように許されているとは何ということでしょうか。「(罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、)神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8・34)それが主があなたのために今していてくださることです。
主は祈られる
しかし誰のために
ご自身のために
主は何も必要とされない
力も
平安も
赦しも
そこには罪のしみがない
しかし主が夜通し費やされた力ある祈りは
私たちのためなのだ
主ご自身の愛される者が
戦いの中で守られ
強くされるために
彼らすべてがささげられ完全にひとつにされるように
とこしえの喜びのうちに彼らが栄光ある花嫁となるように
主が一人で山に登られたのはこのためである
主がご自分の疲れた頭を休めることを拒否なさったのは
このためである
狐でさえも穴があり
鳥でさえも巣があるというのに
主は私たちのために執り成しをするために今も生きておられます。だからあなたが主に対して黙っているあいだも、主はあなたのために祈っておられるのです。もし主の御手があなたの上に置かれていてそのために祈ることが出来ないのなら、なぜあなたはこのことを嘆く必要があるでしょうか。その時、あなたの恵みに満ちた信仰ある高き所の大祭司はご自身のとりなしという純粋で香り高い高価な香油を差し出しておられるのです。
しかし、もしあなたがもっと祈ろうと自らを鼓舞したいのに、あなたの心があなたをとがめ、自分は怠惰で冷たくなっていると知るなら、イエスが驚くべき長い苦しみの中で代わりに祈っておられたということを思い起こすのはあなたの心の琴線に触れずにはおかないことでしょう。主が「わたしは彼らのためにお願いします」(ヨハネ17・9)と言われた時、主は弟子たちのためにどんなに確信と力あふれた訴えを注ぎだされたことでしょうか。そして弟子のためにそのような全能の愛の息吹をわれわれが耳に入れさせていただくとは何という主の恵みでしょうか。
もし、主がこれ以上何も言われなかったら、主はつねに同じ主であるので、この祈りのいくつかの反映された祝福のかすかな分け前を私たちに与えてくださるであろうと私たちはおずおずと推測したかもしれません。しかし、主は私たちがほとんど祈るには十分な大胆さを持てないだろうということを予期して言われます。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17・20)あなたはその彼らのことばをとおして主を信じましたか。それなら、あなたは主があなたのために祈ってくださったということ、また一節一節とたくさんの祈りの中のその祈りをもとに「イエスは私のためにこのことを祈ってくださった」と言える明白で積極的な確信をもつことでしょう。
そして主がいかなるこだまも私たちのところには降りることのない天国の賞賛の中心にいらっしゃるからには、私たちの変らざる態度にもかかわらず、この同じイエスが心のうちにいてくださることを一瞥するように許されているとは何ということでしょうか。「(罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、)神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8・34)それが主があなたのために今していてくださることです。
主は祈られる
しかし誰のために
ご自身のために
主は何も必要とされない
力も
平安も
赦しも
そこには罪のしみがない
しかし主が夜通し費やされた力ある祈りは
私たちのためなのだ
主ご自身の愛される者が
戦いの中で守られ
強くされるために
彼らすべてがささげられ完全にひとつにされるように
とこしえの喜びのうちに彼らが栄光ある花嫁となるように
主が一人で山に登られたのはこのためである
主がご自分の疲れた頭を休めることを拒否なさったのは
このためである
狐でさえも穴があり
鳥でさえも巣があるというのに
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-31-our-great-high-priest/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97316です。今日の箇所も大変難解な個所ばかりであった。読者諸兄のご助言を引き続いていただきたいところだ。)