2016年5月11日水曜日

あなたがたは決して忘れられてはいません


そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。(ルカ12・6)

 あまりにもしばしば日ごとの読書から軽く見過ごされ、除外される聖書のこのような個所に来ると、たとえすぐにはわからないベールに覆われていても、神様はご自身を啓示されているのです。たとえば、歴代誌の系図に来ると、神独得の配慮がキリストとの関連ゆえに神様の御本である聖書に記されている異なった未知の名前によってどのように表現されているかをよく考えることです。

 どんなに遠く離れていても遠い世代と傍系の親族を通して、その結びつきが様々な人間の考えの道のように見えるかもしれません。しかし、このようにして彼らの個々人の名前をキリストのために刻んだ「この神」がキリストのためのいのちの書に私たちの個々人の名前を刻まれた「私たちの神」であることを覚えましょう。なぜなら私たちはキリストにあって選ばれているからです。

 そして私たちが神の親愛な御子のいのちを読み、その愛する御子が、御子を決して惜しまれなかった父にとって無限に愛らしきもの、神の美質の完成であったに違いないことを知る時、そしてとりわけ神の手が右の座におられる人の子の上に置かれたことを読む時、さらに私たちすべての者の咎をキリストに負わせ、私たち人間のために救いのために死にまで苦しまされたその時、

 父なる神様に向きを変え、「世を非常に愛されたこの神が私たちの神です」と言いましょう。私たちにとって、この私たちの「神」としての個人的な関係が神様が特別喜ばれるものであり、神様が私たちを絶えず心の中に覚えて置こうとされたかのように言うのです。 

信頼するに余りにもすばらしいもの
それはあなたのみことばだけです
私は見ることを求めません
あなたのご目的が明らかにされ
未来の光が輝き
不思議なもつれがほどかれています
あなたの御約束の巻物はすべて私のものです
あなたのみことばは私にとり十分です

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