2016年5月4日水曜日

永遠があっての今

バラ(水彩)小早川順子※

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩篇90・12)

 神の矢が心を射抜くという単なる短い一文章が全説教に匹敵するというのは滅多にないことである。求められた結果を招く手段であるような申し分のない会話はほとんどないが、中には考えやことばを突然変更させるものがある。それは神の力が電撃的に働くことから来る場合である。

 それ以下のことはたまにしかない。単なる一瞥(それはさらに瞬間的であるかもしれないが)が主によって要塞を引き降ろすために用いられたことがある。私たち自身が静かに神を待ち望み、瞬間瞬間に主の足もとで静かに時を過ごし、目はみことばに注がれ、あるいは暗やみを通して主を見上げるにすぎないとき、私たちは再び気がつかなかっただろうか。

 すなわち神はどんな一瞬間でも主の光で照射することができるので、光線は決して消え去るのでなく、日々、年々を通して輝き続けるのであるということである。そのような瞬間瞬間は主のために保たれて来たことは明らかであったのではないか。そしてもしある点がそうであるなら、なぜ全体がそうでないことがあろうか。

 この瞬間についての見方は二人の主人に仕えることが不可能なことをさらに明確にしているように思われる。なぜなら、一瞬にして仕えることは分離され得ないものであることははっきりしているからである。もし自我に仕えることや主なる神以外の他の主人に仕えることで心が一杯なら、それは主に自由に使ってもらうことはできない。主はすでに心が他のことに占められているものを用いることはできないからである。

待ちくたびれた時は音のない鐘でしかない
低く奏でられる前奏曲である天の鐘
主が来られる戦車の轍を歓呼として迎えるのだ
主に信頼してセラフィムと一緒に汝の声を奏でよ
主を「待ち望め」という声が「喜べ」と奔出する
主を忍耐して待ち望め

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-4-moments-for-eternity/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97289です。

※昨日は拙宅の庭のバラを載せた。それにくらべてこの絵は何という繊細さであろうか。畏友の絵である。小早川宏・順子「天と地の二人展」が下記の要領で開かれる。案内文を紹介しよう。

 主人の召天から8年がたちました。改めて主人が残した作品〈油彩、水彩、クレパス、木版〉などを見ると、絵を描く喜びにあふれているのを感じます。
 私も遅々とした歩みですが、少しずつ前に進んで行きたいと願っています。
 もう一度、主人の心に出会っていただければ幸いです。

 2016年5月19日〈木〉〜5月25日〈水〉12時〜6時まで
           最終日は5時まで
 創・リベストギャラリー 武蔵野市吉祥寺東町1ー1−19
 
お二人のことはこのブログでも何度かご紹介している。
http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2010/05/blog-post_31.html
http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/02/blog-post_26.html 
                              ) 

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