2016年5月9日月曜日

あなたのための主の心

花々(2016.5.5フランス・ジヴェルニーにて by N.Y.

見よ。神は強い。だが、だれをもさげすまない。その理解の力は強い。(ヨブ36・5)

 この強くやさしいこころはあなたのためにある。もし主がその手を延ばし、裸状態の破壊から私たちを救いさえなさり、「私の手はあなたのためにある」と言われたら、どのように私たちは主を十分にほめあげることができたでしょうか。

 しかし、「私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。」(雅歌4・9)と言う言いようのない不思議なへりくだりについて私たちは何と言えるでしょうか。主の神聖ないのち、光、そして愛、これらの泉そのもの、その御存在のまさしく中核が、愛されている者に与えられているからです。その者は「封印のように主の心臓の上に置かれている」(雅歌8・6)だけでなく、心臓の内へと入れられているのです。その結果、私たちのいのちが主の心のうちに隠され、私たちはすべての安全と力と愛と栄光の中核そのものであるところに住まうのです。

 主イエスが「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14・20)と言われるその日の啓示とはどんな日の到来のことでしょうか。なぜなら、主は私たちがまだそのことを知らないし、私たちが主のうちにある現在の知識は主が私たちに示そうとしておられるものにくらべれば全然知識にならないことを暗示しておられるからです。

 さあ、私たちは、主が私たちのそれぞれの心のいかなるところに入っていただく用意をしましょうか。また、できることでしょうか。

我は飢え渇く
神を求め

我が宝は上にあり
地は我が望みに合いし
贈り物提供せず

我が望み
汝の愛のしるし

優しき問い
うべなるかな
優しさに満ち足り

我が心
幾度も喜びに合わせ歌うたう
神によれる永遠の愛を

汝れはいやましに今何を求めしか

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-9-his-heart-for-thee/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97294です。詩は全く無手勝流の文語体であらわした。果たして、どの程度原文に即しているだろうか。) 

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