神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る(ローマ12・2)
遠い昔の日々において、神のみこころは厳格で決定的な力だと思われていましたが、今では生きる力を与える無比の愛であります。愛は「わたしはあわれむ」と言います。そして私たちが一度このことをほんとうに理解(ほとんど信仰によるよりは愛そのものによるのですが)するなら、神のみこころは神に受け入れられる以外にありえないのです。なぜならもはや以下のことを信頼することによる疑問はないからです。
つまり、どういうわけか、そのうちには愛の隠された要素があるのだが、それが愛であるという物わかりのよさの要素もあるということです。それは太陽光線の力がその光や暖かさと切り離されることがあり得ないのと同様に切り離され得ないものであります。そして広く認められている愛は確かに受け入れられ報いられる愛でなければならないのです。
そのように、神のみころについての想像上の厳格さは神の愛のうちに失われているので、私たちのこころの強情さはその愛のうちに溶かされ、私たちが愛を受容する中で失われるのです。
震える心、心配する思いをたずさえて
言葉はあなたの口に入って来た
冷たく静かな影のうちに
いくつかの喜びの失墜のうちに
「あなたのみこころがなりますように」
あなたの神は聞かれた
神はその信仰に裏打ちされたことばを
称賛される
あなたの祈りは実現される
しかし、どのようにしてか
主の考えはあなたの考えとは同じではない
あなたが泣くのみで頭を垂れようとするとき冷たく静かな影のうちに
いくつかの喜びの失墜のうちに
「あなたのみこころがなりますように」
あなたの神は聞かれた
神はその信仰に裏打ちされたことばを
称賛される
あなたの祈りは実現される
しかし、どのようにしてか
主の考えはあなたの考えとは同じではない
主はおっしゃる。「起きよ、光を放て」
あなたの思いはすべて悲しみと夜のそれであったが
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