浅間サンラインから八ヶ岳を遠望する※ |
私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。(1ヨハネ1・4)
主のみことばには、この大事で、繰り返しなされるお約束に矛盾したり言い逃れするようなことばは決して語られていません。明らかに単に恒久的な喜びの希望が指し示されるだけでなく、喜びが増し加わっていくことが指摘されています。「へりくだる者は主によっていよいよ喜び(ただ単に喜びが保たれるだけでなく)」(イザヤ29・19)とあるとおりです。
恵み、知恵、愛、力、平安が成長し増進することに関しては約束と命令が混在しております。だからこういうものが増し加わることが、喜びを与え、保障することにならないでしょうか。私たちがつねに喜んでいられない存在であることは暗示されていますが、みことばは「いつも(時々でなく)主にあって喜びなさい。」(ピリピ4・4)「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり」(2コリント6・10)と書かれています。
私たちにとって良くないと言われるとき、「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8・10)と書かれていることを思い出しましょう。恐らく、そのことばのうちにある「主を」に喜びが持続するすべての秘訣があるのでしょう。なぜなら主にある喜び以上にそれはまさっているからです。
それは、主ご自身の喜びがただひとり私たちのうちにとどまるのであって、主にある私たちの喜びでさえなく、主ご自身と結ばれている魂にしてはじめて流れ込んで来るという主ご自身の喜びです。 「彼らの中でわたしの喜びが全うされるために」(ヨハネ17・13)ですから、泉以外の流れを求めないようにしましょう。喜びが第一義的なのでなく、主の喜びがイエス様との生ける真実な結びつきにより私たちのものとなるということです。
汝の愛
汝の喜び
汝の平安
絶えず
我がこころのうちに
流れ込みし
生ける泉
尽きることなく
増し加わりたり
※週末から久しぶりに御代田に出かけた。このブログを読んでくださっている方から暖かい励ましをいただいた。ハヴァガルの英文は難しい時もあり、そうでない時もあるんですね。意味がわからない時もありますからね、と。全く我流の訳であり、赤面の至りである。
その上、この訳業を始めるきっかけになった、1月初めに貸与していた『ひそかな所の隠された宝』ヒルダ・秤共訳がほぼ4ヵ月ぶりに私の手許に戻って来た。以前にも書いたが、この邦訳はハヴァガルの霊想の100日分である。残念ながらそれ以降のものは訳されていない。そのところから訳し始めようと思ったが、手許に不在であったため、1月10日の分から訳し始めた。訳せない時があまりにも多かったのだが、その時この邦訳なら、どのように訳しているのだろうかと何度も思った。しかし、今こうして手許にその本が返って来ると見るのが恐ろしい。出版物が百点満点とするなら、拙訳は赤点はもちろんのこととんでもないミスを犯しているのではないかと思うからである。
今後のこともあるので、これから恐る恐るその邦訳とブログ訳を比較しできれば改良していきたいと考えている。引き続いて読者諸兄姉の寛容と祈りをお願いしたい。)
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