クリスマスカードその3 M.Goto |
主の命令は同時に主がその力を授けてくださることです。主は決して決して不可能なことをお命じになりません。「見よ、わたしだ」と言われる方はもちろん万物の創造主であり、何でも出来るお方です。 父なる神の本質の完全なあらわれそのものであり、主なる神の右の座に座しておられすべての力を与えられた大能者である。将来のさばきをもゆだねられている方です。目に見えるものから目を離し、ただイエス様だけを見上げることは考えられないほど大切です。
われわれの喜びの源はただただ主の中にのみあります。本当の喜びの源は決して理解、感情、愛する人、家族、預金、健康、成功などにあるのではありません。ただイエス様の中にだけあります。この事実をはっきりさせるために、ゼカリヤは「見よ、わたしは」と言ったのです。
同じようなことばをクリスマスの夜、天の御使いが言いましたね。ルカ伝2章10節ですね。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」救い主があなたのために生まれ、あなたのために生きておられるということこそ喜びの源です。イエス様は天の栄光を捨て人間となられ、悪魔の奴隷、どうしようもない人間と一緒に生活するようになりました。そしてご自分のいのちを捨てる備えをしていたのです。父なる神はイエス様をとおしてこの世に来られ、人々を顧み、救いの道を開いてくださいました。「わたしはあなたのただ中に住みたい」とありますね。
昔から主なる神のご目的は人とともに住むことでした。旧約聖書において神が民を顧みてくださった期間はある程度制限されていたんです。主のご栄光があらわれた所として、先ず第一にいわゆる幕屋、会見の幕屋でした。出エジプト記の40章の35節を見ると次のように書かれていました。「モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」あとでソロモンの宮の上にも同じような現象が起こったのです。列王紀上の8章542頁ですが、8章11節を見ると次のように書かれています。「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」
同じような体験をベツレヘムの羊飼いたちもしました。今読みましたルカ伝2章9節「主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。」とあります。この野原の上では、主は限られた期間イスラエルの民を顧みられたのではなく、人とともに住むために来られたのです。これこそ御使いのお告げでした。弟子たちもこの栄光をともに体験することが許されました。ヨハネ伝1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
聖書の中で私たちは「わたしはただ中に住む」とか「わたしは捨てない」と言ったようなことばを非常に多く見出すことができます。わたしは「あなたとともに」と言うことこそ主の願いです。私たちが召し出されているというのは、わたしたちが主の宮、主の住まいとなったのです。「主の宮」、「主の住まい」としてのみ、私たちはほんとうの証人(あかしびと)、またしもべとなることができます。「わたしは来る、そしてあなたとともに住むことを望む。」このことばはわれわれ一人一人に向けられていることばです。私たち一人一人をとおして大いなる奇跡をあらわさんと主は切に願っておられます。私たち一人一人をとおして主はご自身のご栄光をおあらわしになりたい。
けれども遠い将来にではなく、まさに今日、それをなさんと主は願っておられます。「わたしは来る、そしてあなたとともに住むことを望む。」と。考えられない、素晴らしい約束なのではないでしょうか。イエス様は来られた。イエス様は生きておられる。聖書の中でイエス様はよく救い主と呼ばれました。数えてみると26回。イエス様は唯一の救い主であるとあります。けれどもイエス様は救い主(だけ)ではなく、「主」とも呼ばれたのです。何回かと言いますと、670回。もう比べられない。私たちはただ単にイエス様がこの世にお出でになったことを振り返ることだけでなく、すべてのことの支配者としてイエス様はまたお出でになるということ、すなわちイエス様が近いうちに再びお出でになることを深く思わなければならないなのではないでしょうか。
イエス様が来られます。今日かもしれない。毎日待ち望むことこそが主の切なる願いそのものであります。