まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。(マルコ11・22)
マタイ伝17章20節にもこれに類した言葉がある。それは変貌の直後であるから、『この山』とはヘルモン山であろうと思われるが、ここではオリーブ山であろう。
イエスは全く異なった山の上で、全く異なった場合において、二回も同じ言葉で同じ事を教えられたのは注意すべきである。『山』とは何を指すか、『海』とは何を指すかなどと論ずる必要はない。信仰の偉大なる力を高調したのである。神を信じて疑わなければ、神の偉大なる力が直ちに私たちの力となることを言ったのである。
重点は『心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じる』の句にある。『心の中で疑わず』ということは容易なるようであって難しい。私どもの心はいつも『信じてはいるけれども』である。この『けれども』が少しでも心に残っている間は、山は海に移らない。文字通り絶対に信じて疑わない心がほしい。
祈祷
主なるイエス様、私に信仰をお与え下さい。日々信仰を増し加えて下さい。からし種のように日々生成して、ついには山をも移すほどの力ある信仰を私にお与え下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著253頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌280https://www.youtube.com/watch?v=T6CQGR4vLIM
クレッツマン『聖書の黙想』〈181〜182頁〉より
信ずるものにとっては、何事も不可能ではないということを、彼は心をこめて説かれた。信仰は当然常に神のみこころにかなうものでなければならず、神のお約束の力を絶対に信頼するものでなければならないが、こういう信仰は山をも動かすことができるし、動かさずにはおかないのだ。
これに加えて主は、更に信仰的な祈りのもつ力を見過ごさないよう注意された。この力を私たちはあまりにも利用していない。「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」
このように明確で遠大なお約束の言葉を私たちは決して軽んじてはならない。友人を回心させる時、どうしてこれを試して見ようとしないだろうか。)
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