朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。(マルコ11・20)
イエスは最後の日の近づくに従って、弟子らの信仰を確実にするために、ご自身の権威をお示しになることが多かったようである。イエスを完全な人の子と信ずるのみでは救われない。彼を神の子と信ずる者でなければならない。
この信仰を打ち込んで置く必要が愈々大きくなって来たので、御受難週はエルサレムの入城において、神殿の浄めにおいて、さらに無花果樹の審判において、神の権威を示しておられる。
無花果樹の審判とは奇矯な語のようであるが、これによってイエスは天地の主にして万物の支配者であることを示されたのである。万物をして各々その使命を果たさせるためにこれを支配されるお方であって、その使命を果さないものは草一本でもこれを審きなさるお方であることをお示しになったのである。
祈祷
天地の主である神様、あなたは万物を植え、育て、養い、毀ち、滅しなさいます。あなたは絶対の権威者なることを讃美し、御名を崇め申し上げます。願わくは、私たちをしてその結ぶべき実を結び、果たすべき使命を果たしてあなたの喜びに預かる者とならせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著252頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌61https://www.youtube.com/watch?v=mv78JCjUef4
David Smithの『The Days of His Flesh』〈邦訳768頁〉より
翌日エルサレムに赴かれる途上イエスは果実のない無花果樹の傍を過ぎられたが、弟子たちはそれが根から枯れているのを観て驚いた。『先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。』とペテロは叫んだ。何故に彼らは驚いたのであろうか。彼らは主の聖語〈ことば〉は最早何の価値もなしと考えたのではあるまいか。
クレッツマン『聖書の黙想』〈181頁〉より
夕暮れは迫り、イエスはベタニヤに向かわれる。火曜日の朝、イエスと弟子たちがもどって来て見ると、イエスが前日呪われたいちじくの木は、根も枝も枯れてしまっていた。ペテロはこの不思議な現象に一行の注意を促さないではいられない。この時、彼や弟子たちの心を打ったのは、イエスとそのみことばの持つ力である。そこで、主はこの機をとらえて信仰について一つの教訓を語られた。)
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