その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。(マルコ12・6)
これはイエスご自身を指したのであることは明白で、祭司長らもそう解釈したようである。何という言明であろう。何という自信であろう。『これは、わたしの愛する子』との天よりの声を幾度も聞いたイエスだからこそ、このように大胆に言えたのである。
彼を神の子として受けなかった祭司長らがイエスを殺さねばならぬと考えたのは無理もない。今日でもイエスを神の子と信ずるか、されば善し。然らずんば、祭司長らと同じ結論に達するの外はあるまい。
モダーンな神学者が何と言っても、私たちはイエスご自身のこのような証明を捨てるわけには行かない。
祈祷
主イエスよ、私たちは、あなたを神と仰ぎ、救い主と信じ申し上げます。願わくは、私たちの期待を裏切り給うことなく、日夜私たちとともに在して、現実に私たちの生活の中に現れ給わんことを。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著265頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 531https://www.youtube.com/watch?v=-leEg6Eubcg 日々の歌189番「心に響くは喜びの調べ」)
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