2022年9月8日木曜日

不信者の心の内

祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。(マルコ11・18)

 夕方以後に都に止まるのは危険であったほどに彼らの黒い手はイエスを狙(ねら)っていた。けれども昼の間は手を出さなかった。それは群衆を懼(おそ)れたためだとある。

 これが彼らの姿であって、また私たちの姿である。彼らは懼れなければならない良心も、神もイエスも懼れない。而して懼るるに足らない群衆を懼れている(※)。

 イエスは常に民衆を愛した。彼らと親しんだ。彼らの友となった。しかし彼らを懼れなかった。祭司らは平素彼らを見下げていた。愚民どもとして軽蔑していた。しかし彼らを懼れた。何という皮肉であろう。

 私どもも世間を懼れるにはあたらない。イエスの如く自分の信ずるところに断乎として進めばよい。しかし世間を見下げてはいけない、軽蔑してはいけない。これを愛し親しみ、友とならなければならぬ。

祈祷
神様、私に人を懼れずただあなたのみを懼れる信仰をお与え下さい。しかしあなたを知らない人を差別することなく心よりすべての人と親しみ彼らを愛することができるように導いて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著251頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌255https://www.youtube.com/watch?v=qmSWnd6D0BE 

※みことばを字義通り、読んでいただけでは、理解に困難を感じる青木氏の言い分ではある。祭司長、律法学者たちはイエスを恐れたが、それはあくまでも群衆がイエスをあがめている感情に逆らうことを是としなかったことにあるのであって、イエスご自身を心の底から懼れているのではなかった。もし、懼れているなら、イエスを殺そうと相談などしなかったであろう。その点を青木氏は言おうとされたのではないか。

クレッツマン『聖書の黙想』〈181頁より〉

 この事件〈註:宮浄めに代表される諸事件であろう、マタイの福音書に詳しく触れられている〉に憤慨した律法学者や祭司たちは、今までよりもいっそうかたい決心をもって、イエスを滅ぼそうと計画するようになったが、それをすぐ実行に移して、その場でイエスを捕らえるという機会を見つけることはできなかった。彼らは民衆を恐れていたので、イエスに手を触れる訳に行かなかった。民衆は深く、その教えの力に心を動かされていたからである。)

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