彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、やはり群衆を恐れた。(マルコ12・12)
これは実に私たちの姿ではないか。イエスの忠言がまっすぐに彼らの心臓を射たのである。今にても彼らが悔い改めてイエスの足下に跪いたならば、エルサレムは40年後の滅亡を免れたであろうし、彼らの霊魂も永遠に救われたであろうに、彼らは忠言を受け入れる代わりに、イエスを捕らえて殺さんとしたのである。
キリスト教が精神修養や社会改良を説いていれば反対する者はないであろう。けれども無遠慮に罪の悔い改めを説く時に人気がよくない。殊に『あなたがその男です』※と単刀直入に指示される時に、すでに信者である者でも、これを受け入れるのは容易でない。私はむしろイエスの時代に生まれなかったことを喜ぶ。おそらくはイエスの直言に耐えかねて彼を十字架につけて、鬱憤を晴らす者の一人となったであろう。
祈祷
神よ、私を赦してください。願わくは、私を赦して祭司長らに等しい罪を犯さないようにしてください。私は直言を厭い、苦言を嫌います。私は『悔い改めよ』との声を聞くことを好まず、自らを義とすることを求め、人々よりラビラビと呼ばれることを好みます。神よ、願わくは私をあわれんで私の心臓を砕くまで私に鞭打ってください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著269頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌228https://www.youtube.com/watch?v=iVzRH2XUs8Y
※これは言うまでもなく、預言者ナタンがダビデに言った言葉であろう。2サムエル12・7参照。)
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