『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか(マルコ11・12)
ユダヤ人はエルサレムの神殿を主として燔祭や罪祭を献げる所としていた。祭司たちはもちろんこれをもってほとんど仕事の全部としていた。レビ記などを読んでみても全部がこの問題の中心として回転していると言ってもよい。
しかるにイエスは『祈りの家』の一語をもって『わたしの家』すなわち神殿の使命の全部を指し示したことは実に卓見である。燔祭や罪祭や酬恩祭は牛や羊や鳩を献げるのではなく、その形式の中にかくれた懺悔や悔い改めや献身や感謝が本質であることを提(ひっさ)げて彼らに迫ったので、形骸宗教に対する最後の突撃であった。
葉のみ茂って一つの果実もない無花果のそれであることを弟子たちは痛感したであろう。
祈祷
主よ、願わくは私たちを御救いください。日々形骸化せんとする私たちの信仰を枯渇から御救いください。枯れた骨のような私たちの信仰に日々生ける水を注いで新鮮なる祈りに生かしてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著247頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌327https://www.youtube.com/watch?v=XI94ng4nXxw )
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