そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」(マルコ11・29〜30)
これはイエスが巧みに言い逃れたのではない。単刀直入彼らの良心に迫ったのである。彼らの良心はバプテスマのヨハネは神より遣わされた人であると知っていた。しかし彼を承認すればイエスの権威も承認せねばならぬ結論に達することを恐れた。
今日でも同じであって、私たちは自分に都合のよい真理、または自分にあまり利害を感ぜしめない事実らは容易に承認する。しかし同一の論理が自分の好まぬ結論に達しようとする時は、苦情をつけてこれを避けたがるものである。注意してかような心を防がねばならない。
祈祷
天の父よ、願わくは、私どもを自分勝手の理屈から救って下さい。どうか一切の真理を公平な目で見ることのできるように、自分に不便な時も当然の帰結を喜んで受け入れる従順さを与えて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著260頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌144
クレッツマン『聖書の黙想』〈182頁〉より
そんなに以前のことではないが、彼らはバプテスマのヨハネの権威について、問題にしたことがある。この時彼らはヨハネの持つ権威を無視してしまい、民衆にかくも愛されたこの偉大に人物が、イエスをさしてキリストーーこの世の罪を取り去り給う小羊ーーと呼んだ事実をかえりみようとしなかったのである。
ところで、今、彼らは、ヨハネのバプテスマが天からか人からか、という問題をイエスと民衆に対して答えなければならなかった。これは彼らをジレンマに陥れた。)
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