祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。(マルコ11・18)
彼らとイエスとの対立は不可避となった。もはや主義や信仰の問題でなくして、彼らの生活と地位とが脅かされることになって来た。イエスにして是ならば彼らは有利なこの職におることが出来なくなる。しかもイエスが非であると証明することは出来ない。二つの方法が彼らの前に残されておる。
悔い改めるか、イエスを無き者にするか。今日新聞紙上に見る殺人にもこれと同じ経路をとっている場合をたくさんに見受ける。利害問題の前に全く良心を失ってしまうのである。善悪の判断がつかなくなる。否、事の可否などを考えているひまがなくなるのである。これは実に恐ろしいことである。
一心に自分の利害ばかり見つめると結局誰かを『殺そうかと相談』しなければならないことになってくる。人から自分の罪を指摘されて首を項垂(うなだ)れて悔い改める人は実に少ない。莫大な利益を捨ててイエスの声に従う人はさらに少ない。
祈祷
神様、罪人である私をあわれんで下さい。願わくは、私に反省と謙遜と悔い改めとを与えて、あなたの声と良心の声とに耳を傾ける生活を送る者とさせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著250頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌542 https://www.youtube.com/watch?v=h0HIFzmIRgY
クレッツマン『聖書の黙想』〈178頁〉より
クレッツマンはマルコ11・15〜33を念頭に「信仰と不信仰」という題名をつけ、その総論として、昨日の各論にあたる文章に先行して次のように書いていた。
この福音書の記者はここで私たちに受難週の月曜日に起こった出来事について、一つの記事を伝えている。それはイエスの生涯で最も多忙をきわめた日とよく言われる。あの忘れ難い火曜日の出来事の簡単な記述から始まる。
この日、イエスは早朝から夜ふけまで、群衆や弟子たちに教えを説かれた。聖マルコが記しているこの物語は要するに、いちじくの木が枯れたことにたとえて説かれた、信仰に関する一つの教訓であり、真理に対して心をかたくなにしないようにとユダヤの指導者たちへの警告を与えたものだと言ってよいだろう。
彼らは真理を認めない訳にはゆかなかったが、それでも、すすんで受けいれようとはしなかったのである。)
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