また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父もあなたがたの罪を赦してくださいます。(マルコ11・25)
私たちが真剣に祈るとき、自分の心に疑いが生ずる。それは神を疑う心ではない。自分を疑う心である。神は全能であり至愛である。それは疑わない。けれども自分のような大なる罪人の祈りが聞かれるのであろうかという疑いである。
だから主イエスは祈らんとするときに先ず悔い改めて自分の罪の赦されたことを信ずべきことを教え給うたのである。自分の罪の赦されるためには、隣人の自分に対する罪を赦す心を持たねばならぬことはもちろんである。
ここに祈祷と愛との親密な関係を見出す。信仰の祈りから愛の実行が生まれて来る。私たちは互いに赦し合い、そして神の赦しを完全に信じつつ、神と交わるのである。人と人と、人と神と、赦しによって一つになるところには、願って聞かれないということがない祈りが生ずる。信仰と愛と祈りの美わしき融合、それが日々の生活でありたい。
祈祷
天の父なる神様、私たちはみなあなたの家の中に住んでいます。願わくは互いに赦し、互いに愛し、互いに信じ、お互いのために祈る美わしいホームをつくり出す一人とならせてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著256頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌526https://www.youtube.com/watch?v=rTNfAOIogqY
アンドリュー・マーレー著『キリストともに』より、昨日の続き
「すでに受けたと信じなさい。」私たちが信じなければならないのは、自分が求めたものが与えられるということであるのは明らかです。御父は最善のものを知っておられるので、別のものをお与えになるかもしれないなどと、救い主はおっしゃらなかったのです。信仰が移れと命ずる山、その山が海に移るのです。祈りと願いによって何もかも神に申し上げることの報いは、心と思いとを守る神よりのうるわしい平安です。これは信頼の祈りです。この場合、私たちが求めたものを、神がかなえてくださるかどうか判断できません。私たちは、子としての日常生活のあらゆる事柄を神に知っていただきます。与えてくださるかどうかは神におゆだねするのです。しかし、イエスがここで言われている信仰の祈りは、これと違って、はるかに高度の祈りです。神のみわざに対する関心であろうと、私たちの日常生活における心配事であろうと、求めるものを何でも与えてくださると確信し、御霊によって約束のうちに堅く立つほど、御父に栄光を帰することはありません。こう考えてくる時、自分が求めたものそのものが与えられることを、はっきりと知ることができます。23節で、イエスがこのことを明確に述べておられるのを見てみましょう。「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」これこそ、イエスがお語りになった信仰の祈りの祝福です。
「すでに受けたと信じなさい。」これは最も重要なことばですが、その意味は、しばしば誤解されています。今祈っているうちに、求めたものをすでに受けたと信じなさい!自分の経験としてそれを受け、自分の目でそれを見るのは、少しあとになるかもしれません。しかし、今見なくても、あなたは天において御父からすでにそれを与えられたと信ずべきなのです。祈りの答を与えられること、あるいは受けることは、イエスを受け入れることや罪の赦しを受けることと同じで霊的なことであり、感情とは別の、信仰による行為なのです。赦しを求めてみもとに行く時、イエスが私のために天におられることを信じ、イエスを受け入れます。神のみことばに従って何か霊的な賜物を求めてみもとに行く時、求めたものはすでに与えられたと信じます。それがすでに与えられていると信じ、信仰によってそれを握りしめるのです。そして、それが自分のものになったことを神に感謝します。「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」
「そうすれば、そのとおりになります。」これは、初め信仰によって天において私たちに与えられたものが、個人の経験の中で自分のものとなることです。自分の祈りが聞かれ、求めたものをすでに与えられて、なお祈る必要があるのでしょうか。祈りが必要でなくなる場合があります。この場合、経験上まだ与えられていなくても、祝福はすぐにでももたらせようとしているので、ただ確信を持ち続け、信仰のあかしとして、すでに与えられたもののゆえに神を賛美すればよいのです。もう一つ、与えられた信仰が忍耐強い祈りを続けることによって更に試され、強められなければならない場合があります。私たちのうちと周囲にあるすべてのものが、すでに十分に熟し、信仰によって与えられた祝福を現せるまでになっているかどうかは、神だけがご存知です。エリヤは、雨が降ることを確かに知っていました。神はそれを約束されています。それでもエリヤは七回祈らなければなりませんでした。しかもその祈りは、見せ物でも遊びでもありません。求め続ける者の心の中と、祈りが実際に働く天においては、一つの強烈な霊的現実なのです。「約束のものを受けるのに必要なのは、信仰と忍耐です。」信仰は、確信に満ちて、すでに与えられていますと言います。忍耐は、天においてすでに与えられた賜物をこの地で見るまで辛抱して祈ります。「すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」「すでに受けた」と「そのとおりになります」との間に、信じるということがあるのです。信じることによって、賛美と祈りが結ばれるのです。
さて、もう一つだけ覚えてほしいことがあります。それは、これを言われたのがイエスだということです。私たちは、天が私たちに対して開かれるのを見、御座にいます御父が、信仰によって求めたものを与えてくださるのを見ました。私たちの心は、自分がその特権にふさわしくないという恥ずかしさと、明らかに自分の手に届く所に置かれているものさえつかみそこねるのではないかという、あまりにも弱い自分の信仰への恐れでいっぱいになります。しかし、私たちを強め、希望を与えてくれることが一つあります。それは、このメッセージを御父からもたらしてくださったのは、イエスであるということです。イエス御自身この世におられる時、信仰と祈りの生活を送られました。イエスがいちじくの木になさったことを見て弟子たちが驚いた時、イエスは彼らに自分と同じ生き方ができることを教え、いちじくの木だけでなく、山に命じても、山はその命令に従うと言われたのです。イエスは私たちのいのちです。この地におられた時のイエスが、今私たちのうちにおられます。その教えられたものをすべてお与えくださるのです。イエス御自身、私たちの信仰の創始者であり、完成者です。イエスは信仰の霊を与えてくださいます。そのような信仰は自分にふさわしくないなどと恐れる必要はありません。この信仰は、御父の子らすべてにふさわしいものなのです。御父の御心と愛に自分自身をゆだね、御父のみことばと力を信頼する者ならば、だれにでも手の届く信仰です。愛するクリスチャンの皆さん! このみことばが、御子であり、私たちの長兄であるイエスが語られた事実によって勇気づけられましょう。そして、こう答えましょう。恵み深い主よ、私たちはあなたのみことばを信じます。すでに与えられたことを信じます。
祈り
恵み深い主よ。あなたは、御父の愛と、御父の愛がもたらすあらゆる祝福の宝を私たちに示そうとして、御父のみもとからおいでになられました。主よ。あなたはこの日、ふたたび門を広く開き、私たちの祈りの自由に関する、あのようにたくさんの約束をお与えくださいました。私たちの貧しい心が、その約束をほとんど受け入れてこなかったことを恥ずかしく思わないわけにはまいりません。私たちにはあまりにも大きすぎて、信じ切れませんでした。
主よ。今こそ、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」というあなたの尊いみことばを受け入れ、保ち、用いることをお教えください。恵み深いイエスよ。私たちの信仰が強くなるためには、あなた御自身に根を下さなければなりません。あなたのみわざは、私たちを罪の力から全く解放し、御父への道を開いてくださいました。あなたの愛は、私たちを、あなたの栄光と力とに完全にあずからせたいと願っておいでになります。あなたの御霊は、完全な信仰と確信の生活へと私たちを近づけようとなさいます。私たちは、あなたの御教えによって、信仰の祈りをささげることを学べると確信します。あなたは、すでに与えられたと信じることができるように私たちを訓練して祈るようにさせ、また、自分の求めたものは必ず与えられると信じるようにさせてくださいます。主よ、あなたを知り、信頼し、愛する者とならせてください。あなたのうちに生き、とどまる者とならせてください。そうすれば、私のすべての祈りがあなたにあって神の御前にささげられ、私のたましいは、あなたにあって、自分は聞かれるという確信を持つことができるからです。アーメン)
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