「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」(マルコ12・10〜11)
これは詩篇118の22と23節との句である。イスラエルの国はアッシリヤ、バビロンなどに滅ぼされて全く世界から捨てられたようになっている。しかしながらこの詩の作者はなお大いなる希望を持っている。多分何かの祭礼の時に作ったのであろうが、すべてを失ってもエホバをさえ失わなければイスラエルは滅びても滅びない、捨てられてもまた興る、という信仰に燃えている。
「主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。』との有名な句もこの詩篇の第6節にある。エホバに忠実なものは世間から捨てられる場合が多い。が、この捨てられた者こそ実にこの世を腐敗から救う塩であり、崩壊から救う柱石である。今は世界に見捨てられているが、ついに世界の柱石となるとの強い信念がこの詩の精神である。而して今日の世界は実にこの信念を裏書きしている。だが、それはイスラエルの国家の再興によってではなかった。彼らさえも捨てたイエスによってであった。
祈祷
捨てられて首石(おやいし)となり給える主よ、世に捨てられことを何物よりも恐れる弱い私たちをあわれんでください。願わくは私たちがすべての人に捨てられても、あなたに捨てられることがないようにしてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著268頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 121https://www.youtube.com/watch?v=SA9xnC0SB0w
David Smithの『The Days of His Flesh』〈775頁〉より引用〈同書第42章 有司との対戦 5 家造りの捨てた石〉
イエスは振り向いて、紙背に徹し、人の肺腑をも透見する驚くべき眼光を浴びせつつ『聖書に「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」と録されしを未だ読まざるか』〈ルカ20・17、詩篇118篇22、23節〉と問われた。
これ第二追放時代のもので、礼拝者が大祭日の一つに、再建せられた神殿に詣づる途上、歌った詩篇の118篇から引照せられたものであった。彼らの神殿に入るや、その眼は門を覆う石に奪われるのであった。おそらくそれは古い神殿の楣〈まぐさ〉の石であったろう。建築工が破損した殿堂を修築するにあたりこれが全く傷を負って形を損じているので、不用品として捨てたのを祭司が、かつて神聖な場所にあったのを連想して、価値を認め、それをもとの場所に置いたのであった。
この情緒連綿たる記念を見て、詩篇の作者は、諸国民に侮蔑され、迫害せられてもなお神の選びと擁護を受けるイスラエルの象徴と感じたのである。然るにイエスはこれに新たな意義を適用された。ユダヤ人は今や迫害者と変じ、侮蔑者と転じて、イエスはすなわち家造りに捨てられてもなお神が隅の親石とされる石である〈使徒4・11参照〉これ実に悲劇的転倒である。詩篇作者がイスラエルに対する神の恩寵を喩えた言葉が、イスラエルの排斥の喩えとしてイエスの口に上った。『神の国はあなたがたから取り去られ、神のくにの実を結ぶ国民に与えられます』〈マタイ21・43〉)
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