すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。(マルコ12・7、8)
イエスは実によく祭司らの心を見抜いている。ご自分の殺されることをこのように明らかに面前で述べておられる。しかも泰然として他人の死を語るようである。
イエスを殺した理由は種々あったであろうが、結局は『財産はこちらのものだ』という欲望に外ならない。神に返すべきものを我がものとしようという欲望が、取りも直さず『さあ、あれを殺そう』という心である。
祭司らでも私たちでも心の奥を突きつめて見れば、神中心の生活を送るか、自己中心の欲望を満足させるか、このいずれかによって、イエスを主と仰ぐか、これを十字架につけるか、が定まるのである。私たちのうち果たして祭司・パリサイ人をあざ笑い得るものがあるであろうか。
祈祷
人の心の奥を見透し給う主よ、あなたが祭司らの心を洞察し給いしことを私たちは知って畏れます。願わくは、私のうちに潜んでいる反逆を咎めなさらないで、かえってこれを洗い潔め、全き燔祭としてあなたの祭壇に献げさせてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著266頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌255https://www.youtube.com/watch?v=qmSWnd6D0BE
クレッツマン『聖書の黙想』〈187頁〉より
農夫たちは主人の最愛のひとり息子に対してさえ、敬意を示さなかったばかりか、これを殺してしまい、ぶどう園の外へ投げすて、あつかましくも、このぶどう園は我々のものだと主張した。)
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