2022年11月30日水曜日

ゲッセマネの祈り(4)

   満面に 祝福あり バラの花(※)   
「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』(マルコ14・37〜38)

 主と共に目を覚まし祈ることが出来たならばペテロ及び他の弟子はあんな見苦しい逃走はしなかったであろう。一二時間前に『ごいっしょに死ななければならないとしても』と言ったのではなかったか。しかしこれがペテロであり、弱い人間である。
 如何に自ら恃んでも『肉体は弱く』して力の及ばないことがたくさんある。さればイエスはペテロを咎めなかった。むしろ『心は燃えて』いることを認めて、諒とし給うた。イエスはこのような時にさえも御自分の立場からでなく、ペテロの立場に入って御覧になった。
 私どもの人に対する不平や悪しき感情の多くは、その人の立場に立って見ることが出来ないで、自分の立場からのみその人を見、あるいはその人の態度や行為を、自分に対する角度からのみ考えるからである。

祈祷
主イエス様、あなたは必死の時にも弱い傍人に同情する余裕を保っておられます。願わくは私にもあなたがペテロになされたように、常に自己の立場よりしないで、隣人の立場からその人を見ることができるようにさせてください、アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著334頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 326 https://www.youtube.com/watch?v=G5thRCkXCyo
以下は、昨日に続く、クレッツマンの『黙想』の各論である。

 他の弟子たちを園の入口近くに待たせておいて、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネとを、御自身の苦難の証人としてばかりでなく、共に目を覚まして祈るようにと、ともなって行かれた。世の罪のおいめはーーそのためにイエスは今まさに、偉大な苦難を始められようとしていたのであるがーー重く、苛酷なものだったので、弟子たちのもたらすわずかばかりの人間的な同情や祈りの助けでさえも、深く身にしみるものとして受けとられたのだ。イエスの心は、「悲しみのあまり死ぬほど」だったからである。私たちが垣間見ることを許されているこの悲しみと苦痛の深さは、私たち人間の理解力をはるかに越えている。

※ 昨日は闘病中のSご夫妻をおたずねし、親しいお交わりをいただいた。玄関先にこの花があった。導かれるままに「死」を恐れる私たちは1コリント15・55〜56、ミカ7・8を互いにあじわい、限りあるいのちの中で今主イエス様の愛を身に受けて生かされている平安を思うことができた。それもこれもすでにイエス様のゲッセマネの祈りに組み込まれていることを思う。今日は今日で家内の診察をしてくださったお医者さんが「寿命」の範囲内で治療しましょうと言われた。「余命」と言おうが、「寿命」と言おうが、主ご自身は私たちのいのちを救うために「贖い」となってくださったのだから、すべて主の命〈めい〉のまま歩みたいと思った。)

2022年11月29日火曜日

ゲッセマネの祈り(3)

『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』(マルコ14・36)

 イエスのこの祈りは聴かれたのであるか、聴かれなかったのであるか、との疑問が昔から残っている。私は聴かれたのだと思う。ヘブル書5章7節に『キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』とある。

 だから前にも述べた通りこの祈りが聴かれて、天使が降り来たりイエスに力を添えなかったならば、ゲッセマネで死なれたのであろう。それでは折角過越の小羊として十字架の上に屠られる御予定が狂うのである。どこまでも旧約の預言を成就し、正式に贖罪の死を遂げ給うたのである。

 さればこの祈りは非常時に際しての非常な祈祷の良き見本である。天父の意を熟知しておるイエスですらこのような大切な場合において『わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください』と祈ったのは私どもに何を教えるだろうか。

祈祷
必ず聴かれると信じつつも『みこころのままを』と祈られた主よ、非常時に際してはたびたび天の父に命令せんとするような私たちの不遜を改めてあなたのように恭順な祈りをささげることをお教えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著333頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌293

過去三日間、David Smithの文章によりまさに『The Days of His Flesh』の一部始終を見たが、一方、クレッツマンはそのことを黙想して、マルコ14・32〜52に次のような表題をつける。

34 主は、ひとり心を尽くして神に祈られる

例によりまず総論である。

 オリーブの樹の小さな園、ゲッセマネは、まことの信仰者にとっては、永久に神聖な場所として追憶される。ここでは土そのものまでが、かつてこの地上に足跡をしるした唯一人の罪なきおかた、しかも神に呪われたあのおかたの、聖なるひたいから流された血の滴によって清められたのである。もはやパラダイスと呼ぶに値しないもう一つの園では、最初の人間が罪を犯し、そのすべての子孫に死をもたらした。一方、この園では、罪なき神の子が肉体をもった人間の姿の中に身を低めて、罪やサタンや死や冥府の力と戦い、しかもなお、聖なるおかたのままであられて、そのあがないの恵みを信ずる者の胸の中に、義と平和が支配するパラダイスをかちとってくださったのである。)

2022年11月28日月曜日

ゲッセマネの祈り(2)

ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。・・・ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコ14・32〜34)

 贖罪の大苦痛の時に当たって、イエスが弟子らの同情を求められたことは注意する価値があると思う。神が人を救い給うのに人間の同情や手伝いが要るかと冷ややかに論ずる人もあるかも知れぬ。しかしイエスの人間らしさに、私は大きな魅力を感ずる。否、神の人格の内容には人間らしさがあると知って一層神が慕わしい。

 人間の同情を受け得ないような神は人間を救う神ではない。つまらぬ弟子が『ここですわって』いるだけ、『目をさましている』だけで、幾分の慰めを感じ給うた主は、私どものあるかなしかの信仰や、役にも立たぬ小さな奉仕の中に、何か役に立つものを見出して下さることを信じてそこに救いの妙味を感ずる。

祈祷
主よ、あなたの愛は深いです。あなたが私たちを必要としなさるほどに私たちを愛して下さることを讃美申し上げます。私たちのあなたに対する同情によって慰められなさるほどに私たちを愛して下さることを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著332頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 233https://www.youtube.com/watch?v=m8lBq-RDM5E 

David Smithの『The Days of His Flesh』の昨日の続きの部分である。熟読玩味したい!

8 イエスの憂悶

 この惨憺たる時期に際してイエスは同情を要求せられ、忠誠を献ぐる三人に対して、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです』と仰せられ『ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい』と訴えられた〈詩篇42・5〜11、43・5)斯くして彼らよりも石を投ぐるほどの距離に行って、その顔を伏せ、霊魂の憂悶に高く叫びつつ祈られた。聖音は静かな夜の空に澄んで彼らの耳に聞こえて来た。曰く『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください』との祈祷であった。斯くてほとんど一時間地にひれ伏さられたが、三人は疲労と悲愁に打たれてついに眠った〈マタイ26・40、マルコ14・37〉。やがてイエスは彼らの傍に来て彼らを呼び覚まし、主のためにはその生命をも惜しまずと公言したペテロを叱って『あなたがたは、そんなに一時間でも、わたしといっしょに目をさましているlことができなかったのか。。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。と言い、さらに柔らかに彼らの弱きを宥恕〈ゆうじょ〉して『心は燃えていても、肉体は弱いのです』と励まされた。後再び行きて、この度はその救いを求めず、天父の聖旨に全く身をゆだねつつ『わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください』と祈られた。その後帰り来たって彼らの眠っているのを見られたが、彼らは容易に醒むべくも見えなかった。恥ずかしい様を見られつつも、イエスはこの度は彼らを起こさず、天父の聖旨に従うべき祈祷を繰り返された。同時にイエスは多くの人々の足音を聞き、また明滅する炬火〈たいまつ〉や、輝く冑を樹の間隠れに見られたので、急ぎ弟子たちの傍に来られて、悲調を帯びた反語をもって『では、ぐっすり眠って休んでいなさい〈欄外別訳による〉。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました』と仰せられた。)

2022年11月27日日曜日

ゲッセマネの祈り(1)

ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスが深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコ14・32〜34)

 イザヤの預言によればメシヤは『悲しみの人』(53章3節)である。イエスはメシヤとして立たれた時から人の罪を身に負うて苦しみ給うたのである。が、この時には実に全世界の罪の苦しみがイエスの霊魂に押し迫って来たのであろう。

 弟子らの見た目にも、未だかつて見たことのない『恐れ』と『もだえ』がイエスの御容貌に窺われた。あれほどに強い御方が『死ぬほど』だと仰せられるほどの御苦痛であった。ルカ伝にあるように(22章43節)『御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた』ことがなかったならば、十字架に上るを待たずしてこの時に心臓が破裂してしまったのであろうと拝察される。

 罪に慣れている私たち罪人には、罪の圧力がわからない。罪なき御方が罪を負うて下さる時に罪の恐るべき力が、火と硫黄の地獄のようにその真相を現わすのであろう。イエスはゲッセマネの園から既に陰府に降り始めたのである。ゲッセマネとは『油を搾る』との意味で、オリーブ油を搾取する場所がここにあったのである。イエスが血と脂汗とをここで絞り給うたのも奇縁である。

祈祷
主イエス様、あなたは私のためにすべての罪を担い、その刑罰の一切を受け給いましたことを思い、『感謝する』という語では甚だ不足していることを感じます。ただありがたく御礼を申し上げます。どうかこの御恵みの深さを悟らせ、覚えさせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著331頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 122https://www.youtube.com/watch?v=TuBUtl2JJXg 

さて、David Smithの『The Days of His Flesh』は第46章 ゲッセマネの就縛 と言う題名で、およそ20頁にわたりその詳細を聖書に沿って記述していると前回〈11/24[「ゲッセマネへの道〉で書いたが、今日の個所はその続きの箇所である。(邦訳880頁、原書456頁)

7 主の教訓

 時はすでに更けたので、弟子たちはしきりにその外衣にくるまって眠りたく思ったことであろう。しかしイエスは全く異なった心を抱いておられた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい』と宣いつつ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴って、別の所へ赴かれた。あたかも他の弟子の聴き得られざる所まで来られるや否や、三人に打ち明けられたが。彼らは寸刻の前までは、平和に勝利を握っておられた彼らの主が、憂悶の怒濤に襲われ給う他ことを感得した。斯くイエスを苦しめたものは果たして何であろうか。死の恐怖にあらざるはもちろんである。これすでに制服せられた所である。かつ楼上の客室において歓喜をもって向かわれた光景が、たちまち覆って、恐怖をもってイエスの聖眼が眩まれたとは思うを得ないのである。贖い主の霊魂を揺るがしたものはさらに凶暴なある事実であった。すなわち贖罪の苦悶がすでに始まったのであった。すでに十字架上のイエスを包んだ黒雲が覆い始めたのであった。『十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました』〈1ペテロ2・24〉この究極の危機に当たって、永遠の神の子が如何なる経験を有せられたかは我らの悟り難き所である。悟り難き所には唇を噤んで沈黙を守るの外はない。

Deep waters have come in, O Lord!
All darkly onThy Human Soul:
And clouds of supernatural gloom
Around Thee are allowed to roll

ああ主よ、暗澹たる数々の艱苦は
人なる汝の霊に漲り来たり
世に見るべくもなき憂悶の雲は
汝の四囲に叢り起きるに任されぬ。

And Thou hast shuddered at each act
And shrunk with an astonished fear,
As if Thou couldst not hear to see
The loathsomeness of sin so near

身近く寄する罪悪の醜状、
見るに堪えざる如く
駭然恐怖に戦き
度経る毎に汝は身震い給いぬ。

 このゲッセマネの園中において、その暴虐のつむじの第一陣は、イエスの霊魂に殺到した。聖マタイは『悲しみもだえ始められた』と言い、聖マルコは『深く恐れもだえ始められた』と言っている。

※詩文は英文を併記したが、冒頭の詩文など詩篇69篇を想起させる。それはさておき、日高善一氏が如何に苦心してその和訳を敢行しておられるか深く味わいたい。)

2022年11月26日土曜日

ゲッセマネへの道(下)

すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14・29〜31)

 悲劇である。人生の悲劇である。ペテロは一生涯この記憶に苦しめられたことであろう。私たちは自分の弱さを本当に知り得ないものである。

 つい先刻は自分たちの弱さを心配して、主を売らんとする者は「私ですか」と言い得たほどに謙遜であった人たちが急に腰が強くなって、主の言明に反対してまでも自信のある態度を示した。これがいけない。

 自信というものはある程度まで必要であるけれとも、神の前に立っては自らの弱さを知ることが大切である。パウロも『私が弱いときにこそ、私は強い』と言っている。私たちにとって自信は神を信ずることでなければならない。

 自信が主の御言葉にまで反対するようになったら、それは失敗の前兆であることを忘れてはならぬ。たといその動機はペテロのように順であっても。

祈祷
主イエス様、私たちの弱さを悟らせて下さい。常にあなたを売る者は『私ですか』と問う謙遜をお与えくださって『たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません』との傲慢に陥ることなく、ただひたすら聖旨をのみ仰ぐ者として下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著330頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 528https://www.youtube.com/watch?v=Lr6rsKrN0yU 

引き続き、クレッツマンの『聖書の黙想』より

 ここで頼りないペテロの心弱さが暴露される。彼は多少、自慢げに、他の者が主につまずくおそれのあることは十分考えられることだが、自分に関する限りは、決してそんなことにはならないと言い張ったのである。イエスはペテロがまさにその当夜、主を三度否定することになるだろうと、はっきり予告されたにもかかわらず、この弟子は愚かな自信にとらわれて、自分は主と共に死ぬ覚悟さえあるのだと、力いっぱい宣言したのである。ペテロ以外の人々も、こんな軽率な宣言をする他に、何ができただろうか。

 自負することをやめて祈ること、高ぶらず謙虚に神に信頼すること、これは試みの時に私たちを助けるものとなるだろう。

クレッツマンの祈り

主よ、
もし、私たちの心がおごりたかぶって、愚かになる時がありますなら、そして、もし、私たちが魂を悩ます危険を、軽んずるようなことがありますなら、お赦しください。
 その上、さらに大切なことですが、こんな裏切りや偽りも、私たちをあなたの救いの愛から引き離すことがありませんようにお助けください。そして、何よりも、あなたの変わらぬまことの心の啓示であるみことばと礼典の中に、常に新しい慰めと力づけとを見出すことができますようにお導きください。 アーメン 

※クレッツマンの文章は11/21『最後の晩餐』から飛び飛びに載せさせていただいたが、彼はマルコ14・17〜31までを一区切りにして33「ユダの裏切り、イエスの誠の心、ペテロの不実の心」と題していたことを、彼の祈りの言葉を転写するにつけて思い出した。)

2022年11月25日金曜日

ゲッセマネへの道(中)

イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。・・・しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」(マルコ14・27〜28)

 次第に逆境に陥りつつあるイエスに見切りをつけ、彼を売って三年間の損失を少しでも取り返そうと考えたのはユダ一人であったけれども、彼の十字架につまずいたのは一人ではなかった。主の懐にあって特別に愛されたヨハネまでもつまずいた者の一人であったことを思うと、人間の弱さをつくづくと感ずる。

 主の恩寵と聖霊の御働きによらなければ一人として再起する者はなかったであろう。つまづかんとする彼ら、つまづいた後の彼ら、それは眼前に迫る御自身の死よりも大きな御心配であった。だからガリラヤでの再会をはっきりと約束し給うたのである。

 イエスのよみがえりはある意味では御弟子らに再会して彼らのつまづきを癒したいという御熱心の現れとも見られる。御復活は死の征服であると同時に、霊の勝利である。『あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます』の語にはイエスが復活後の再会をどんなに望んでおられたかを示す熱情がこもっているではないか。

祈祷
私たちがつまづくとき、私たちに先だちで往き、私たちに会わんと為し給う主よ、あなたの絶えることのない愛を感謝申し上げます。願わくは、私たちをもガリラヤに往ってあなたにまみゆることを切に求める者となして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著329頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌131https://www.youtube.com/watch?v=sPLHPrZIBYw 

引き続いて、クレッツマンの『聖書の黙想』より

 主は、この夜、彼らみんなが、ご自身につまずくことになるだろうと、悲しげに予告された。羊飼いは打たれ、羊はちらされるだろう。しかし、主はよみがえられた後彼らとガリラヤで再会するという、慰めにみちた約束も加えてくださった。)

2022年11月24日木曜日

ゲッセマネへの道(上)

そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。(マルコ14・26)

 過越節の食事の時には詩篇の113篇から118篇までを二回に分けチャント(聖歌)のようにして、唱う例になっている。だからこれは第二回の分すなわち115篇から118篇までであったであろう。あるいは現今のユダヤ人と同じく136篇を用いたかも知れない。いづれも感謝に満ちた歌である。

 イエスは弟子らと共にこれを唱ったのである。すぐに『オリーブ山へ出かけ』この夜の中に囚われるのであるから、感謝の歌など唱えないのが普通の人の気分であるが、イエスは心から深い感謝を献げたのである(※)。

 彼は決して自分を偽り得るお方ではない。おそらくはこの世にお降りになった大目的がまさに成就せられんとするので一面から言えば苦痛であるが、他面から言えば感謝の賛美を献げるにふさわしい心を持たれたのであろう。私はこの時にイエスが唱われたのを聞きたかった。

祈祷
死に直面してなお感謝の賛美を歌われた私の主イエス様、願わくは、私にも苦しみの中に賛美を唱い得る心をお与え下さい。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著328頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌271https://www.youtube.com/watch?v=3UTIU5d9NOY  

クレッツマンの『聖書の黙想』より11/22『最後の晩餐』中に掲載した文章に続く個所である。

 イエスは天国での婚宴の席で、再び相会うしあわせを約して、この聖なる晩餐を終られる。この小さな一行は、最後に讃美歌を歌って、祝宴の幕を閉じ、二階の部屋を立ってオリーブ山へと向かう。

※短い文章だが、使徒の働き16章でパウロとシラスが獄に捕らえられている中で夜中賛美したとある。主イエス様の歩みにすべて原点がある!

さて、David Smithの『The Days of His Flesh』は第46章 ゲッセマネの就縛 と言う題名で、およそ20頁にわたりその詳細を聖書に沿って記述しているが、その中から以下抜粋する。

5 ゲッセマネへ向かわれる

 弟子と神とに対話を終えられてより、イエスは都を出られた。寂寞な街路に弟子を従えつつやがて城門を過ぎてケデロンの谷を渡り、オリーブ山の坂道の行き慣れた隠れ家へと赴かれた。聖ヨハネがケデロンの谷を渡られたことを記したのは神秘的な意義がなければならない。この小川は決して愉快な所ではなかった。神殿の祭壇で流した犠牲の血が、そのうちに注ぎ込むのであって、『神の小羊』がこの小川を越されるときには過越の祝いの小羊の血で流れは紅に染まっていた。イエスは途上では一言も仰せられなかった。警告と奨励の最後の教訓を与えられたのに、異常の恐怖が弟子たちの間に起こったからであった。城壁の園の中には少しの空き地もなかった。かつ聖都の中では律法の上から肥料を用いるのが許されないので、富裕な市民は、城門外ことにオリーブの西の坂に畑や遊園地を作っていたのであった。そのうちにイエスの弟子、恐らくヨハネ・マルコの母マリヤの所有にかかわるものがあったが、ここにイエスは過越の祝いの間夜毎に宿られたのであった。そこはオリーブの列樹があったので『ゲッセマネ〈すなわち油搾り〉の森』または『ゲッセマネの園』と称せられた。11人を伴ってイエスは今そこに来られた。)

2022年11月23日水曜日

最後の晩餐(下)

『まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません』(マルコ14・25)

 イエスの死は敗北ではない。勝利である。だから今や弟子らと永別するにあたっても、その永別には期限があることを言明しておられる。永遠の別れではなくて、再会の希望が湧いている。『神の国で新しく飲む』とはそれが何を指すとしても再会の信仰であるには相違ない。それはぶどう酒を飲むが如く楽しいものであるには相違ない。このお約束あるがために聖餐式は暗いものにならないで輝いたものになる。

 イエスの死を記念することは追悼の意味ではなくて、罪を贖われた者が贖ってくれた者と楽しく相会する約束の記号となる。さればイエスは『まことに、あなたがたに告げます』と冒頭してこの希望の大切なことを注意し給うた。

祈祷
主イエスよ、私たちは十字架によりて大いなる希望を与えられたことを感謝申し上げます。あなたは私たちのために苦しみを負われましたが、これを味わい尽くした後、再び私たちとともに楽しく神の国にて『新しく飲み』給うことを信じ、今の苦難を喜んで忍ぶことができるようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著327頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌468https://www.youtube.com/watch?v=YkppHxCljcg 

以下は、A.B.ブルースの『十二使徒の訓練』下巻所収の「わたしを覚えて」の最終部分の文章である。

四、晩餐の聖礼典は、罪のためのいけにえとしてほふられる小羊としてのキリストを示すだけでなく、霊的な養いとして食される過越の小羊としてのキリストをも示す。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」こう言って、イエスは十二弟子に、また彼らを通してすべてのキリスト者に、十字架につけられたご自分の慈愛を彼らの魂のいのちを養う神のパンと見なすように教えられた。私たちが口でパンを食べ、ぶどう酒を飲む時、信仰によって霊的には人の子の肉を食べ、血を飲むのでなければならない。

 キリストをいのちのパンと見なすことにより、私たちは、この祝宴の制定に際してキリストが言われた一つの祝福ーー罪の赦しーーに限るべきでなく、私たちの霊的養いと恵みにおける成長に役立つキリストの祝福のすべてを視野に入れるべきである。キリストはそのすべての職務においていのちのパンであられる。預言者として、キリストは、私たちの精神を養う神の真理のパンを備えてくださる。祭司として、キリストは、私たちの不安な良心を満足させる義のパンを用意してくださる。王として、キリストは、私たちの心を満たし、私たちが偶像礼拝に陥る心配なく礼拝できる献身の対象として、ご自分を提示しておられる。

 主の晩餐が祝われるたびに、私たちは、この包括的な意味における、私たちの魂の糧として、キリストを思うように勧められている。パンを食べ、杯を飲むたびに、私たちは、キリストがそのすべての職務において私たちの魂の糧であられ、今もそうであられることを宣する。この聖晩餐に真心をもってあずかるたびに、私たちは、私たちの霊の糧として、ますます豊かにキリストを自分のものとして味わうようにされていく。

 象徴または絵画ーー神秘主義または魔術とは違ったーーとしても、聖晩餐は私たちの信仰を助けてくれる。詩や音楽が耳を通して心に感動を与えるように、それは目を通して、心に感動を与える。時代を経過する中で、この聖礼典を巡って生まれた神秘主義や迷信こそは、聖礼典が想像以上に大きな影響を及ぼしていることの証人である。人々の思いや感情は激しく動揺していたので、彼らは単なるシンボルのうちにそのような力が秘められているとは信じられなかった。興奮した想像力につきものの混乱した考えから、彼らはそのしるしには意味のある美徳があるとした。このようにして、信仰は贖い主キリストまた聖め主聖霊から、バプテスマの儀式またミサの礼拝に移っていった。

 このような結末は、想像を抑制し、空想に幻惑されて理解力がくらむことがないようにするために、知識と霊的識別力が必要であることを示す。ある人々は、聖礼典の恵みの理論によっていかに理解力が曇らされてきたかを考慮して、聖礼典が恵みの手段であることさえ否定し、それほど恐ろしく誤用されてきた聖礼典の制度は廃止させるべきであるとまで考えるようになった。これは当然の反動であるが、極論であろう。この問題についての穏当で真実な見解は次のようであるーー聖礼典は、それ自体あるいはそれを執行する聖職者のうちにある魔術的力によるものでなく、感性、それにもまして、キリストの祝福とキリストの御霊の働きによって信仰の働きを助けるための、また、知的に、誠実に、信仰心をもってそれを守ることに対する報酬としての恵みの手段である。

 以上が、この記念碑〔聖餐式〕から私たちが学び得たことである。主の晩餐は主のを記念し、その死が卓越した重要性を持つことを指摘し、まさに、その死が罪の赦しを与える私たちの希望の根拠であることを明示している。さらに、主の晩餐は、私たちの霊の健康と救いに必要なものーー神秘的なパンとぶどう酒ーーとして、十字架につけられて死んだ主キリストを示している。イエスが渡される夜に制定されたこの儀式は、使徒たちによってだけでなく、イエスが再び来られるまで、あらゆる時代のイエうを信じる民によって、繰り返し守られるべきものであった。そのように私たちはパウロから教えられている。そういったはっきりした情報を別にしても、私たちはそのように推論できたであろう。そのような独創的・印象的で、深い意味に満ちた、信仰を助ける行為は、ひとたび執行されたなら、実質的には一つの法規であった。その執行に際し、イエスはこう言われたも同然であったーー「これをわが名によって呼ばれる共同体〔教会〕において、常に遵守される大切な制度としなさい」。

 このように制定された儀式の意味は、それが守られるべき精神を決定する。キリスト者は、謙遜と感謝と兄弟愛の精神をもって聖餐のテーブルに着くべきである。罪を告白し、恵みの契約およびキリストにおいて彼らに示されたあわれみのゆえに真心からの感謝を神にささげ、彼らを愛して、ご自身の血をもって彼らの罪を洗い去り、天からの食物で日ごとに彼らの魂を養ってくださるキリストを愛し、すべての栄光と支配をキリストに与えるべきである。そして互いに愛し合うべきであるーー贖われたすべての人とキリストにある信者たちを兄弟として愛し、家族の食事のように共に聖晩餐を守るべきである。さらに、一人でも多くの人々がキリストの死による救いの効力を体験できるように祈るべきである。このようなやり方で、イエスが栄光の天に昇られた後、使徒たちと使徒的教会はペンテコステの日に聖晩餐を祝った。毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にした。彼らが守ったように、私たちが今この祝宴を守ることができたらと願う。

 しかし、それが可能となる前に、どれほど多くのことが行われなければならないことだろう!そこに刻まれた碑文がもう一度はっきり読めるようになるために、その記念の石から時代の苔を取り除かなければならない。聖礼典についての千数百年にわたる神学論争の累積した屑を、視界と思考の外に運び去らなければならない。真理は、それがイエスのうちにあるように、人間的誤謬の混合物から分離されなければならない。家庭的な聖晩餐の儀式は、息が詰まりそうな儀式ばった礼服を脱がされ、心の通じ合う素朴な状態に返ることを認められなければならない。心から願われているこれらのことは、早晩実現しようーー地上で実現されなくとも、主イエスが天の父の御国でその民と新しいぶどう酒をお飲みになるその日には。

 なお彼は、この文章を閉じるにあたって、欄外でイエスが弟子たちに与えた四つの教えに示されている十字架の教理を次のようにまとめている。併せて表示する。
一、第一の教えーーキリストは義のために苦しみを受けられた。ここにはキリストに従う者たちすべての模範がある〈マタイ16・24〜28と並行個所、本ブログ5/21「十字架を負う理由」〉。
二、第二の教えーーキリストは正しくない人々のために苦しみを受け、罪人のためにあがないの代価としてご自分のいのちを与えてくださった。ここにはキリストが屈辱を忍んで勝利を得られた点に私たちの模範がある〈マタイ20・28、本ブログ8/8「弟子たちの頼み事と主の御思い」〉。
三、第三の教えーーキリストはベタニヤのマリヤによって例示された自己犠牲的愛の精神をもって苦しみを受けられた〈マタイ26・6〜13と並行個所、本ブログ11/17「イエスに香油を注ぐ」〉。
四、第四の教えーーキリストは新しい恵みの契約を結び、罪人に罪の赦しを得させるために苦しみを受けられた〈マタイ26・26〜29と並行個所、本ブログ11/21「最後の晩餐」〉。)

2022年11月22日火曜日

最後の晩餐(中)

輝ける 真紅のバラよ すぐれもの さらにあるぞと ルター教える※

『みなが食事をしているとき、イエスは・・・杯を取り・・・言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」』(マルコ14・22〜24)

 『食事をしているとき』とは過越を食し居る時であるのは論を待たない。イエスはいろいろと工夫して過越の時に死ぬように境遇を導いておられる。而してこの過越の食事の時に聖晩餐の式を立てられた。しかも明らかに『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』と言って居る。

 疑いもなく主はご自身の死をもって過越の小羊の如く、贖罪のためであることを表明されたのである。イエスの死は決して単なる殉教者の死ではない。使徒らの殉教の死とは全く種類を異にして、『多くの人』すなわち私たちの罪のために御血を流し給うたのである。

 ある学者の言う如くパウロが十字架の死を祭り上げて贖罪の死としたのではないことはこの御言葉によっても明らかである。主はみづから私たちの罪を負い給うたのである。

祈祷
神よ、私たちをして世の異端に惑わされることなく、ただ一筋に十字架の御血しおによる赦しと潔めとを信じさせて下さい。私たちはこれによってのみ生きることができるからです。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著326頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌529https://www.youtube.com/watch?v=hHt-xTeR5rs

クレッツマンの『聖書の黙想』より、昨日の続きの文章である。

 晩餐は終わった。旧約の時の中にある最後の過越の祭りの祝いも終わった。御言葉の成就する時が訪れている。世の罪のあがないをするイエスの死は間近に迫って来ている。このあがないの死が結ぶ果実を、彼を信ずる子らのもとにもたらすために、彼は御自身のまことのからだと血による新約の礼典を定められた。彼はパンをとり、祝福してこれをさき、彼らに与えて言われた。

 「取りなさい。これはわたしのからだです」。

 イエスはぶどう酒の杯をとり、感謝の言葉をのべて、みんなにその杯から飲むように命じて言われた。

 「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです」。

 ここで主が望まれたのは、御自身の血がすべての者のために流されるものであること、そして、その死がその時同席した弟子たちのような少数の限られた者のためばかりではなく、時の終わりまで、多くの信ずる人々のために、恵みをもたらすものであるということだった。その御言葉は明瞭であり、いかなる理屈をもってしても、この事実をくつがえすことはできない。つまり、それは、私たちの全知全能の神の子は、私たちの贖いに対する神のご契約として、御自身のからだと血を本当に捧げられることを、パンとぶどう酒をもって、ここで約束しているという事実なのだ。

A.B.ブルースの「わたしを覚えて」の昨日の続きの文章である。

三、幸いにも、主イエスは、どんな面においてご自分の死が記念の祝典の目的となるように願っているか、特にはっきりと説明してくださった。聖餐のパンを弟子たちに配りながら、イエスは「これは、あなたがたのために与える〈裂かれた〉、わたしのからだです。」と言われた。それによって、イエスの死は、聖餐を受ける人に与えられる恩恵のゆえに記念されるべきであることが示されている。聖餐の杯を弟子たちに渡しながら、イエスは「みな、この杯から飲みなさい。これは、罪を赦すために多くの人のために〈あなたがたのために〉流されるわたしの血による新しい契約です」と言われた。これによって、そのことのために覚えられるにふさわしい、イエスの死によってもたらされる恩恵の性質が示されている。

 この新しい経綸の創造的なことばにおいて、イエスはご自分の死を、罪を贖い道徳的負債の赦しを得させる罪のためのいけにえとして説明しておられる。イエスの血は、罪の赦しのために流されるものであった。この役割から見て、イエスの血は、明らかにエレミヤの預言を引用して、新しい契約の血と呼ばれる。その預言は、神がイスラエルの家と結ばれる新しい契約ーー咎の赦しを主要な祝福とする契約、また、古い契約とは異なり、純粋な恵みの契約であり、律法的諸規定によって妨げられない契約であるゆえに、新しいと呼ばれる契約ーーを伝えている。

 ご自分の血と新しい契約とを合わせて述べることにより、イエスは次のことを教えておられる。すなわち、古い契約を無効にする一方、イエスは同時に、新しい契約を導き入れることによって、古い契約を成就しておられる。新しい契約は、シナイにおける古い契約がそうであったように、いけにえによって批准される。そして、血が流された後に罪の赦しが与えられる。しかし、杯から飲むように弟子たちに命じることにより、主はご自分の死後、もはやいけにえの必要がないことをほのめかしておられる。血による罪のためのいけにえは、ぶどう酒による感謝のいけにえに変えられる。それは救いの杯であって、イエスの犠牲を信じる信仰を通して罪の赦しを受けた者すべてによって、感謝と喜びのうちに飲まれるものである。終わりに、イエスは、新しい契約は少しの人ではなく多くの人にーーイスラエルだけでなく、すべての国民にーーかかわるものである、ということを示しておられる。それは、イエスが罪人である人類に遺贈される福音である。

 それで、私たちはこの杯を感謝と喜びをもって飲んでもよい。なぜなら、それがそのしるしである「新しい契約」〈新しいが、古い契約よりもずっと古い〉は、あらゆる点で充分に整えられ、確固としたものだからである。充分に整えられているのは、それが確かに神から与えられたものにふさわしい制定であるからである。それは、赦しの祝福と、彼を通して私たちにもたらされるイエスの犠牲的死を結びつける。それは義のためにも有益である。なぜなら、それは、罪人の友〔イエス〕の犠牲によって充分に償われるまで罪が赦されることはない、ということを規定しているからである。そして、正しい方の血が流されることなしに正しくない者たちに対する罪の赦しはない、ということはまさに真実だからである。しかも、この制度は、その愛が身をもって示しているように、神の愛を現すのに大いに役立っている。また、悲惨な罪人やあわれな人々の重荷を担うことにより、その愛の大きさを示す自由な機会を与えることにも貢献している。

 なお、もう一つ、新しい契約の制定は、贖いの計画が意図していた偉大な実際目的ーーすなわち、堕落した人類を腐敗した状態から聖化された状態に高めることーーに驚くほどかなっている。キリストの死による赦しの福音は、それを信じるなら、この世の利己主義・敵意・卑劣から、献身・自己犠牲・忍耐・謙遜の天的生活へ引き上げる神の力である。もし、キリストを信じる信仰によって、代償的死の成し遂げた働きopus oper atum〉を信じることしか理解されないなら、そのような精神を高揚させる信仰の力は非常に疑わしいものである。しかし、信仰がその聖書的意味にーー一人の人が他の人々のために死を耐え忍んだことを信じるだけでなく、さらに、とりわけ、その行為と行為者の精神を心から認めることを意味するーー受け取られる時、その純化し気高くする力は全く疑いの余地のないものとなる。「キリストの愛が私を取り囲んでいます」「私はキリストとともに十字架につけられました」ーーこれらの告白はそのような信仰の結果にほかならない。

 ソッツィーニ主義者の救いの体系は、新しい契約のそれと比較すると、何と貧弱なことであろう。その体系においては、罪の赦しは現実に何らイエスの血に依存しない。それによると、イエスが死んだのは、罪人のための贖罪者としてではなく、義のための殉教者としてであった。私たちは、神の単純なことばによって悔い改めることにより赦される。赦すことによって赦しを与える方が苦しんだり犠牲になったりすることはない。ただ一言、あるいは、一筆、文書に「このように主は言われる」と記すだけで足りる。何というそっけなさ! 神とその被造物〔人間〕の間の、何と冷たい関係を示しているのだろう。

 代わってご自身を与えることを意味し、赦しを与える方の悲しみ・汗・痛み・血・傷を要する癒しは、何と望ましいものだろう。その赦しは、次のように言われる神から来るものであるーー「わたしは罪人を救おうとして、罪をその刑罰である死と結びつける律法を無効にしようとするのではありません。わたしはその目的を果たすために、わたし自身、進んで律法の犠牲となります」。このような赦しは、義のわざでもあり、驚くべき愛のわざでもある。代償のない赦しは、最初は物がわかって気前よく見えるが、神の義を示すものでも神の愛を示すものでもない。贖罪なしに赦すソッツィーニ主義の神は、罪に対する激しい嫌悪にも罪人に対する燃えるような愛にも等しく欠けている。

 かつてイエスは、「多く赦された者は多く愛する」と言われた。これは深い心理であるが、そえと並べられるべき、勝るとも劣らない別の深い真理がある。すなわち、私たちは、私たちが赦しを与えてくださる方を多く愛するようになるために、その方は私たちを赦すのに多くの犠牲を払われた、ということを痛感しなければならない。公同の信仰の真の告白者たちが、理新論者が彼の神に示す冷たい知的な尊敬と著しい対照を成す、キリストへの熱烈な献身を表すのは、彼らがこのことを痛感しているからである。公同の信仰に立つキリスト者が、贖い主の耐え抜かれた涙・苦悩・血の汗・恥・苦痛を思い、その砕かれた幻、傷ついた心、槍で突き刺されたわき腹、釘で引き裂かれた手と足を思う時、彼の胸は献身的な愛で燃える。受難の物語は、あらゆる感情の元を開く。イエスがその民の心の王座に着かれるのに、ヴィア・ドロローサ〔苦しみの道・十字架への道〕以外の道はあり得ない。

 キリストの死によって結ばれた新しい契約は、よく整えられていると共に確かなものである。それは契約者〔遺言者〕の血によって確実に保証されている。というのも、第一に、私たちは神の善意の保証よりも確かな保証をもちうるだろうか。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに〔神の〕愛が分かったのです。」

 さらに、義の光に照らしてこのことを見ても、この契約は同様に確かなものである。神は、御子の愛の労苦を忘れるほど不当な方ではない。神が真実であられるなら、キリストは神の魂の苦悩を見るであろう。主の道徳的管理の下では、これ以外の道はあり得ない。真理の神がそのことばを破ることがおできになろうか。全地の審判者〔神〕が、ある人ーー特にご自分の御子ーーに、彼が望み、また彼に約束されていた報酬ーー多くの魂、多くのいのち、救われた多くの罪人ーーを彼が受けることなしに、その兄弟たちのために純粋な愛から彼自身を悲しみと苦痛と恥辱に渡すことを許すことがおできになろうか。

 考えてみよ。義のために苦しみを受けるが、不義を滅ぼすようなことを行うことで慰められることなく、不従順な者たちを義人の従順へと転じる聖を。その本性の衝動により、また契約の義務により、失われた者のために労さなければならなくなって負わされ、しかも天地万物の統治者の片意地・冷淡・不誠実によって何の報いも与えられない運命に定められた愛を。愛の労苦は忘れられ、誰もそのために良くならず、以前のままの状態にある。罪を赦され、地獄から救い出され、聖へと回復させられる罪人はいない。暗闇から驚くべき光へと移される選民は起こらない。このような事態は、神の支配においてはあり得べからざることである。

 神の統治は聖なる愛のためになされる。それは、愛が思いのままに他の人々の重荷を負うことを得させる。すなわち、もし愛がそうすることを欲するなら、愛は自ら負う重荷の全部の重さを感じるようになる。しかし、また、真理と公正の永遠の契約により、その重荷が負われた時、重荷を負われる方は、その方が望む最善の形で報酬ーー贖われた彼の兄弟あるいは子供たちとして、彼ご自身によって洗われ、赦され、聖化され、永遠の栄光へと導かれた魂ーーを受けるようになる。

 キリストが私たちの罪のために死んでくださったので私たちの罪は赦されるという教理に含まれる代償的報酬の原理は、偏見のない眼をもって見る時、心と同時に理性に対しても好ましい印象を与える。実際に、それは義と愛を育てるために差し出されたプレミアムのような役割を果たす。この与えられたプレミアムによって、イエスは激しい働きをやり通せた。イエスが十字架を忍ばれたのは、彼が御父の約束に信頼して、多くの人が救われる喜びをご自分の前に見られたからである。その限定された適用として、主の苦難の後に残されたものを満たそうとする思いをキリスト者たちのうちに起こされるのも、同じ原理である。彼らは知っているーーもし彼らが忠実であるなら、彼ら自身のために生きるのではなく、キリストの神秘な体である教会のために、さらに広くこの世のために生きるべきであることを。

 もし事実が違っていたなら、この世に忠誠も愛もほとんど見られなくなってしまったであろう。もし全世界の道徳的統治が、人が祈りや愛の労苦によって他者のために生きることを不可能にさせ、ソドムの盾となる十人の正しい人、地の塩として選ばれた人々がそうすることを不可能にさせたなら、人々はそうする努力もやめてしまっただろう。公共の福祉に対する関心もなくなり、人々に共通の利己主義がもてはやされることになってしまったことだろう。あるいは、もしこの事態〔代償的報酬〕が起こらなかったら、私たちはさらに悪い形で暗黒に置かれるしかなかったであろう。それは、生ける被造物〔人間〕に何ら益することなく十字架につけられた不可解な謎の義ーー神の支配と本性にとっての醜聞、恥辱ーーである。

 それゆえ、もし私たちが神の聖と義と善と真理を信じる信仰に堅く立つとしたら、イエスの血が私たちに罪の赦しをまさしく確実にもたらすことを信じなければならない。また、同じように、たといそれが神の法廷の前で罪人たちに赦しの祝福をもたらすのに役立つものでも必要なものでもないとしてもーーキリストの血だけがその奉仕を私たちに行うことができ、それを効果的に一度限り果たしたーー、キリストの聖徒たちの血は、それでもなお神の御前に尊いものであり、血を流した人々を尊いものとすることを信じなければならない。また、それは神の定めにより、いろいろな点で、この世に対する祝福の源泉となることを信じなければならない。この世は、その聖徒たちをほふられた小羊として用いる以外に他の用い方を知らず、彼らを自分たちの住民とは見なしてはいないのであるが。

※ルターの紋章というものがある。その紋章は真ん中に真紅の心臓〈ハート〉があり、その中に真っ黒な十字架が置かれ、背景は青で、その周囲は、白バラで飾られ、一番外側は、金色で縁取られている。以下のYouTubeはそのことをわかりやすく解説している。https://www.youtube.com/watch?v=V8-oAryT15M)  

2022年11月21日月曜日

最後の晩餐(上)

主イエス わたしを覚えて と言われた※
確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。(マルコ14・21)

  ユダといえども最初からイエスを売るつもりで弟子になったのではあるまい。三年間共に弟子であったヨハネのいうところによればユダは財布をあづかってその中から窃に『盗んでいた』(ヨハネ伝12章6節)ところから次第にイエスから遠ざかって行ったらしい。ついに『生まれなかったほうがよかった』と主が嘆息し給うところまで堕ちてしまった。

 金銭をあまりに愛する者は恐ろしい誘惑に陥りやすい。『生まれなかったほうがよかった』とは実に強い言葉であるが、それは来世にまで延長する苦痛の生存を意味するものと見てよかろう。しかし主はユダを呪うためにこのように言ったのではない。彼を惜しんで言ったのである。

 ご自分の死については神のご計画により、聖書に預言されたとおりに『逝く』のだと言って、天の父の許しなくば一羽の雀も地に落ちない(マタイ10章29節)と言う信仰をご自分の場合にも動かし給わなかった。

祈祷
主よ、願わくは私を救ってユダの滅びより私を遠ざからせて下さい。『生まれなかったほうがよかった』との声を聞かない前に、すべての誘惑の第一歩から先ず私をお救い下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著325頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。

クレッツマンは『聖書の黙想』の中で、マルコ14・17〜31を一区切りにして33「ユダの裏切りの心、イエスの誠の心、ペテロの不実の心」と題して以下のように述べる。〈同書217頁以下〉例によって総論の部分から

 今一度、私たちはユダに注意を向けなければならない。裏切りの心に導かれるままに、彼はサタンの張りめぐらした罪の網目の中へ、深く、深く、引き入られて行った。しかし、それだけにいっそう、私たちはイエスの心の真実をたたえるのである。彼はあらゆるやさしさを尽くして、身を誤ったこの弟子を訓戒し続けられた。私たちもまたーーユダ同様にーーキリストの真心のご配慮を受けなければならないものである。私たちを思いやられて、主は罪の赦しのために、ご自身のからだと血の礼典を定めらた。いつわりに満ちた心によって、致命的な危険へと追いやられたあのペテロの心弱さも、私たちのために記されているのを見る。

以下は各論にあたる。

 まことの信仰心を抱くすべての人にとって、意味深い一夜となったあの運命の宵は訪れた。その夕べの美しさは、今しも、あることによって、だいなしにされようとしていた、裏切り者がその場にいたのだ。

 主は彼の同席を責めることなく、道を誤ったこのさまよえる仔羊に、深く心を注がれた。そして、今ご自身の手から受けるパンを食べている親しい友の中の一人が、ご自身を売ろうとしていることを、弟子たちすべての前で、非常に熱をこめてあらわに語られた。これを聞いた人々が皆、驚きあわてたことはいうまでもない。誰もかもが自分ではないかと思い、心をかき見出され、悩みながら、ひとりひとり、尋ねた。

 「まさか、わたしではないでしょう」。

 この問いに対する主の答えはユダにとって、まだ手遅れにならないうちの、最後の警告となるべきものだった。十二人の弟子の一人、主とともに皿にものを浸している者、料理の一つであるにが味の汁に浸したパンを主から渡された者、その者こそは主が、すでにその欺瞞と罪をご承知であられることを悟るべきなのだ。しかし、これは非常に巧みな方法でなされたので、主が誰のことを指して言われたのか、わかった者は、おそらく、ペテロとヨハネ意外にはいなかったと思う。

 とは言え、ユダは、今日の裏切り者と同様に、サタンがまさに自分を捕らえようとしていることは知っていた。主の死は前もって定められ、久しく以前から預言されたことだった。単にユダの罪ばかりでなく、私たちの罪がこれを必然的なものにしてしまったのである。

 しかし、そうかといってこのことは、裏切り者の罪を軽くするものではない。彼にとっては失われた魂が永遠の苦悶を忍ぶよりも、生まれて来なかった方がよかったであろう。耳の中に響き渡るこの最後の警告を聞きながら、ユダは闇の中へ消えて行った。イエスの誠の心はすべての失われた子らの上に注がれる。弟子たちとともに過ごしたあの最後の夜も、イエスはご自身のありとあらゆる子らに思いを寄せられ、彼らの信仰を強めて、最後までーー御自身が再び来たりたもうその日までーー彼らを信仰の中に保つ必要があることを心にとめられていたのだ。(以下は明日に続く)

一方、A.B.ブルースはその『十二使徒の訓練』下巻の第22章で わたしを覚えてーー十字架についての第四の教えーーと題して『最後の晩餐』について20頁ほどの文章を表している。今日から三回に分けて以下に書き写す。

 主の晩餐は、イエス・キリストにささげられた記念碑である。「わたしを覚えてこれを行いなさい。」ベタニヤで、イエスは、福音が語られるとき、マリヤが覚えられることを願うかのように語られた。晩餐の間で、イエスは、ご自分が覚えられるようにという願いを表明された。イエスは、マリヤの物語を繰り返し語らせることによって、彼女の愛の行為を祈念させた。そして、世の終わりまで全時代を通じて繰り返される象徴的行為によって、ご自身の愛の行為を祈念させた。

 晩餐の儀式は、記念することのほかに、主の死を解釈することにおいても役立つ。 それは、この厳粛な出来事〔主の死〕の意味に重要な光を投じている。事実、この象徴的祝宴の制定は、ご自分の犠牲による贖罪の教理に対して、その伝道の生涯を通じてイエスが果たされた最も重要な貢献であった。そこから、これまでイエスが行ったどのわざ、語ったどのことばよりも明らかに、十二弟子は、彼らの主の死が贖罪的性格を持っていると考えるようになったであろう。いわば、それによってイエスは、弟子たちにこう言われたのであるーー「近づくわたしの受難は、神の計画やわたしの期待に反して起こった、単なる災難とか暗い不幸と見るべきではありません。わたしやあなたがたの上に、また、わたしたち全部にとって大切な主張に対して、不敬虔な人々によって加えられた致命的な一撃と見るべきでもありません。また、善のために打たれる悪とも見るべきではありません。それは、わたしの受難の目的をだめにするどころか、それを成就して、世界に祝福の実を豊かにもたらす出来事と見るべきです。人々が悪と呼ぶことを、神は多くの民を救いに導く手段として善とされます。わたしの血が流されることは、一面では邪悪なユダヤ人たちの犯罪ですが、別の面ではわたし自身の自発的行為です。わたしが自分の血を注ぎ出すのは、罪の赦しを与えるという恵みに満ちた目的のためです。わたしの死は新しい時代を開き、新しい契約を定めるでしょう。それは目的を果たし、その結果、モーセ律法の儀式における多くのいけにえ、わけても、いま食べようとしている過越の小羊にとって代るでしょう。これからは、わたしが神のイスラエルの過越の小羊となり、彼らを死から守ると同時に、永遠のいのちのパンとして、十字架につけられたわたしの慈愛によって彼らの魂を養うでしょう」。

 これらの真理は、どれほど弟子たちにとって聞き慣れない、物珍しいものだったとしても、私たちには非常に親しみ深いものである。私たちは、聖晩餐によってイエスの死を説明することよりも、イエスの死によって聖晩餐を説明することに慣らされている。しかしながら、ここでは説明の過程を逆にするのが有益であろう。そして、新しい宗教的シンボルの制定の証人として、私たち自身を十二弟子の立場に置き、それによって想起される出来事の意味と、その犠牲が予表しようとしている意味とを再発見することに努めよう。それから、この古い記念碑の傍らに立ち、その風雪を経た表面に刻まれた古代文字を読み取ろう。

一、第一に、私たちは即座に、この記念碑が指しているのはイエスの死であることを知る。それは単にイエスのことを全般的に覚えるためだけではなく、特にイエスの死を覚えるために設けられている。すべてのことは、カルバリで起ころうとしていたことに向けられている。パンを裂き、ぶどう酒をつぐ聖餐式の行為は、明らかにそのように思われる。聖晩餐の制定においてイエスが語られたことばも、すべてご自分の死に言及しておられるものである。「これはわたしのからだです」「これはわたしの血です」と、イエスがご自分の体と血との間に設けておられる区別から、イエスの死の事実も方法も暗示されている。体と血は生においては一つであり、死によってーーあらゆる種類の死によってではなく、犠牲のいけにえの場合のように流血を伴う死によってーーのみ両者は分離される。その体と死とに付された形容語句は、死をいっそう明らかに示している。イエスはご自分の体を、「あなたがたのために与える、わたしのからだ」ーーあたかも殺害され、いけにえとなって「裂かれる」かのようにーーと言われ、ご自分の血を、「あなたがたのために流されるわたしの血」と言われる。それから、最後に、新しい契約の血としてまさに流されようとしている血について述べることにより、救い主は自分が言及していることをはっきりと示しておられる。遺言が発効するには、遺言者の死を必要とする。普通の遺言者は普通に死ぬかもしれないが、新しい契約〔遺言〕の遺言者は犠牲的な死に方をしなければならない。というのは、新しいという形容詞は古いユダヤの契約との関連を示しているからである。古いユダヤの契約は、雄牛の全焼のいけにえと和解のいけにえーーその血は祭壇の上と民の上とに注ぎかけられ、モーセによって「契約の血」と呼ばれたーーによって批准されたのである。

二、主の晩餐が特に主のを記念するものであるという事実は、その死が非常に重要性を帯びた出来事だったことを意味する。そのように重要な目的で象徴的儀式を制定するにあたり、イエスは、いわば弟子たちと私たちとにこう言われたーー「カルバリに目を注ぎ、そこで何が起こるかをしっかり見なさい。そこで起こることは、わたしの地上生涯における重大事です。ほかの人々は、自分たちが覚えられるに値する生を生きたゆえに、彼らの記念碑を建ててもらいます。わたしは、わたしが死んだゆえにーーわたしの生を忘れないためではなく、特にわたしの死を心に留めるためにーー、わたしの記念碑をあなたがたが建てるようにと願っています。それはわたしの死そのもののために祝われるのであって、終わりある生のために祝われるものではありません。ほかの人々の思い出は、彼らの生誕記念日を祝うことによってはぐくまれます。だが、わたしの場合、記念祝典には、わたしの誕生の日よりも、わたしの死の日の方がふさわしいのです。わたしがこの世に誕生したことは、驚くべき重大事でした。だが、わたしが十字架につけられて世を去ることは、さらに驚くべき重大事です。わたしの誕生については、祝祭的記念は必要でありません。しかし、わたしの死については、わたしが再び来るまで、聖晩餐によっていつも覚えられていなければなりません。わたしの死を充分に思い起こすことにより、わたしの地上生涯のすべてを思い起こすのです。なぜなら、それは、わたしの地上生涯のすべての秘訣であり、完成であり、冠なのですから」。

 それにしても、これほど注目すべき全生涯を通じて、なぜ、このように死が記念のために選び出されたのだろうか。それが抜擢されたのは、その悲劇性にあったのだろうか。十字架につけられた方〔イエス〕は、彼の死の悲しみの記憶を新たにすることによって、私たちを興奮させ、同情の涙を誘うために、彼の名で知られた晩餐を単にその受難の劇的な再現となさるつもりだったのだろうか。そう考えることは、キリスト教の祝祭をアドニス〔ギリシヤ神話で美の女神ヴィーナスに愛された美少年〕の異教的祝祭の水準に引き下げてしまうことであった。

 年ごとに覚えるアドニスの
 レバノンにおける傷は、夏の日の一日中、
 甘い恋の唄の中で、彼の運命を嘆くように
 シリヤの娘たちは誘った

 それとも、イエスが永久に覚えられるように願ったことは、彼を十字架につけた悪者たちが神の御子に行った卑劣な悪事と恥ずべき侮辱だったのだろうか。聖晩餐は、聖なる方を木に打ちつけることしか知らず、彼よりも犯罪人を思いやった世に、永遠の汚名を着せるために制定されたのだろうか。確かに、この世はそうした非難を受けるに値した。だが、人の子は罪人をさばくためではなく、救うために来られた。ご自分の遺恨のために、あるいは、ご自分を殺した者たちの不名誉のために永遠の記念碑を建てることは、彼の愛の本性に反することであった。イエスの血はアベルの血よりもはるかにすぐれたことを語っている。

 それとも、この新しい象徴的儀式を行うことによって、イエスがご自分に従う者たちの思いにご自分の死をいつも刻みつけておくように教えられたのは、十字架上の彼の死が、その侮辱と恥辱にもかかわらず、真理と義のために彼が誠実を尽くしたことのあかしとして栄光に輝くものであったからであろうか。晩餐の祝宴は、初代教会が殉教者の死を記念した祝宴と同じように厳粛なものであったと見なされるべきだろうか。主の晩餐〈Corena Domini〉は偉大な最初の殉教者の誕生祝賀会〈natalitia〉にすぎないのだろうか。ソッツィーニ主義者はそのように私たちを信じさせようとした。なぜ主は、ご自分の十字架を覚えることが特別に教会で祝われるように願われたのか、という問いに対して、ラコウ教理問答はこう答える。「キリストのすべての行為のゆえに、その自発的に耐え抜かれた死は、彼にとって最も偉大な、最もふさわしい行為であった。キリストの復活と高挙はさらに偉大なものであったが、それはキリストの行為というよりも父なる神の行為であったからである」言い換えると、キリストの死は、ご自身が進んで真理のためにあかしをした最も顕著で崇高な行為であり、気高く危険な預言者の働きに自己犠牲的な献身をもって答えた高尚な生涯の輝かしい仕上げであったゆえに、まず第一に覚えられてしかるべきである。

 キリストの死がまさにこれであったことは、もとより真理である。その死が一つの殉教の行為として覚えられるにふさわしいものであることも、等しく真理である。だが、イエスが聖晩餐を制定したのは専ら殉教としてのご自分の死を記念するためであったのかどうか、という点は別の問題である。この点については、キリストご自身のことばから真理を学ばなければならない。では、この問題についてのキリストのみこころを知るために、聖晩餐制定の物語に戻ろう。

※「最後の晩餐」の絵を12年前に本ブログに掲載していた。と同時にそれにまつわる話もすっかり忘れてしまっていた。以下は、その記事である。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/02/blog-post_26.html )

2022年11月20日日曜日

過越の祭りの準備

そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。するとその主人が自分で席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」(マルコ14・13〜15)

 これはイエスの奇蹟的な前知を示すものか、あるいは前もってこの無名の人と打ち合わせて置いたのであるかが不明であるが、主がその場所を秘密になし給うたことは明らかである。とにかく叛逆者ユダに知られぬ用意であった。弟子らと最後の晩餐を静かにゆっくりと不安なしに食したいご希望からであったのであろう。

 この二人の弟子すなわちペテロとヨハネ(ルカ伝22章8節)さえも知らなかった隠れたお弟子は誰であったろう。祭司らが血眼になってイエスの所在を知らんとしているとき、エルサレムの真ん中で安心して過越の食を為し得るほどにイエスが信用し給うたこの弟子は誰であろう。『二階の広間』を所有する相当の資産家であっただけしか分からない。ああ懐かしい無名のお弟子よ。

祈祷
主よ、あなたは隠れたる無名の弟子、おそらくはニコデモのように世間をはばかる小さな信仰の弟子の家において晩餐を守られたことを感謝申し上げます。私のように隠れたる小さい者をもあなたは何かのご用にお用いになることをありがたく感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著315頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 470https://www.youtube.com/shorts/7TQDEC_e7uE

以下、クレッツマンの32「暗い企ても、救い主をその愛と従順の道からそらすことはできない」の最後に位置する文章である。〈『聖書の黙想』215頁より引用〉

 かくして、木曜日は明ける。その日は夕方、祭りの席をもうけるために、過越の羊を買って、ほふらなければならない日だったので、弟子たちはこれを主に告げた。おそらく、彼らは過越の食事をする場所を、どこで見つけたらよいのか心配していたのだろう。そういう場所は限られていて、手に入りにくかったからだ。しかし、こんなことは主の知恵と力にとっては些細なことだった。

 主はそのような場所をどうして見つけるかを教えて、二人の弟子を使いに出した。まず、彼らは水がめを持った一人の男に出会うだろう。これは女の仕事にきまっているから、実に珍しい姿に見えるが、とにかく、この男について行くと、ある家に来る。その家の主人は、もちろん、キリストの弟子であるが、席を整えて用意が出来ている二階の大広間を、喜んで彼らの望みのままに提供してくれるだろうーーこれが彼らに指示されたところであるが、結果は主の言葉通りとなった。

 弟子たちは過越の祭りに必要なものをすべて買い整えることができたが、この部屋でどんなに記念すべき夕べを過ごすことになるかは、少しも気づいていなかった。

一方、David Smithの『The Days of His Flesh』は冒頭のみことばの場面について、次のように語る。〈邦訳845頁、原著438頁〉

5 準備についての主の命令

 次の日は『準備の日』であった。而して弟子たちはイエスが予ての例に従いて、その夜過越の晩餐を守られるべきを信じつつ、どこにその準備を整うべきかをイエスに尋ねた。イエスはすでに市内の一信徒とこの問題を協議しておられた。次に起こってくる事件より推してこの信徒とは後に福音書を著したマルコのヨハネであったと自ずから憶断せられるのである。マルコは富裕な信者でバルナバの従弟にあたり〈コロサイ4・10〉、後年使徒たちのために好意をもってその門戸を開放したマリヤはその母であって、この寡婦なる母とともにエルサレムに住まっていた〈使徒12・12〉。彼の家の籠城には大きな客室があった。而して彼は食卓と寝台とを設備して、イエスがその弟子とともに晩餐を守られるためにこの室を献げたのであった。イエスはその弟子の名を指摘せられることができたはずであるけれども、謀反人の胸中をすでに看破して、彼をしてその場所を知らしめれば、これを有司に内通し、晩餐の半ばに彼らをここに伴い来るべきを知ってこれを避けられたのであろう。なおイエスはその苦難を受けられるに先立ちて、その弟子とともに過越節を守り、心静かに物語らんと欲せられた。ゆえにその家の主人にこの計画を示して置かれたのであった〈ルカ22・15〉。この使者としてペテロとヨハネとを選び〈ルカ22・8〉『町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家にまでついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる』と言いなさい」と命ぜられた。由来水を汲むのは婦人の務めであって水瓶を携えた男は明らかに注意を引くべきである。而してこれは確かに主人の奴隷の一人であって、弟子たちとは相知った間であったろう。この命令にはユダは何の手がかりも得られなかったので、その使者に鼻腔することは出来なかった。

6 楼上の論争

 彼らの役目は神殿に小羊を運び、これを祭壇に献げ、またその肉を焼くほか、なおぶどう酒、種入れぬパン、苦き菜及びイスラエル人がエジプトにおいて煉瓦を造るに用いた泥土を象徴する押しつぶした果実を酢で和えたカロセスと称する糊の準備を為すにあった。万事の用意が整って彼らはイエスのところへ帰って来た。而して夕暮れに一団はエルサレムに赴いて、その室に着したのであった。家の主人は大胆にこの客間を提供したのであった。イエスと十二使徒と斯くの如き宴筵を張られたことは稀であって、この厳粛な危機に際しても、この平生見慣れざる堂々たる光景に接して弟子たちの間に議論が起こった。彼らは特に与えられんとする褒賞と栄誉とを望んで、他に優れるを互いに示すに汲々とし食卓の座を競って争い合ったのであった〈ルカ14・7〜11〉。)

2022年11月19日土曜日

イエスに香油を注ぐ(下)

この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のしたことも語られて、この人の記念となるでしょう。』(マルコ14・8〜9)

 大変な賞詞(ほめことば)である。イエスはそれほどにこの心を喜ばれた。これは純信と純愛との讃美である。イエスを純真に信ずる者でなければ、死の予告など耳にも入らなかった。イエスに純愛を献げる者でなければかかる時のお気持ちを推測することが出来なかった。

 『埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。』とは十二弟子の信じ得なかった十字架の予告をそのままに信じ、イエスのお淋しい心にも響いてきた心持ちを示している。

 ヨハネ伝には『わたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです』とある。咄嗟の感激で為したのではなく、よほど前からかくあるべきを察知して『取っておき』この日に至ったのである。幾日も前から黙々として、恩師のために恩師の死の近きを知って、取っておいたマリアの心、涙ぐましい心地がする。

祈祷
ああ主よ、私に御心を察知する愛を与え、みことばを信ずるの信を与え、あなたの心の動きに同じく動く心臓を与え、時の来らざる前より、あなたのために『取っておく』用意あるまでにあなたを愛し、あなたの愛を味わうことを得させ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著315頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌360 https://www.youtube.com/watch?v=5JMifnKuQFk

以下、引き続いて、クレッツマンの『聖書の黙想』よりの抜粋である。

 事実、彼らがイエスの体を墓に納める時は近づいていた。そこで、イエスはマリヤのこの行いをご自身の埋葬に備えて、あらかじめ油を注いでくれたものとして受けとったのである。彼はマリヤの信仰と愛によるこの行為を非常に高く評価し、これはおよそ福音のみことばが宣べ伝えられるところでは、どこでも、語り伝えられることになるだろうと預言された。このような愛の行いによって、主をたたえることは、教会の礼拝を美しくすることと同様に、直接必要を満たすものではないとしても、やはり、救い主をたたえる行いであって、これを主は、なんと力強く励ましてくださったことだろう。

 ユダは次第に心を奪って行く悪霊に駆られて、祭司長を訪れ、かなりの金と引き換えに主を売り渡そうと申し出た。むさぼりの欲情が今や彼の心内で王座を占めるのだ。予期しなかった方面からこんな援助を受けることができたユダヤ人がどんなに喜んだことか、それは想像に難くない。良心の声をもみ消しつつ裏切り者は、主を彼らの手に引き渡す機会をうかがった。

 罪を自分の主人とするとは、なんと恐ろしいことだろうか!

以下は、A.B.ブルースの『十二使徒の訓練』中の18「十字架についての第三の教えーベタニヤでの香油注ぎー」の最終回に該当する個所である〈同書109頁〜112頁より写す〉。

 ベタニヤでの忘れがたい出来事の省察を終える前に、四つの意見を添えておこう。

一、これまで数え上げられた性格のすべての属性において、マリヤは正真正銘、福音的敬虔の模範であった。福音的精神は、気高い愛と、恐れを知らない自由の精神である。過去や伝統の奴隷となり、宗教上の慣習や形式に固執することは、見せかけの福音主義である。このような気質や傾向にふさわしい名は律法主義である。

二、キリストのマリヤ弁護から、非難を受けることは、それが誤りであることの確実な証拠ではないということを学ぶ。多くの非難された人は、非難を受けた理由だけで何か間違いをしたと見なされるのが普通である。しかし、本当は、何か並外れたことをしただけかもしれない。すべての並外れたことはーー並外れた悪と同じく、いやそれ以上に並外れた善もーー非難の対象となるからである。それゆえ、パウロは、愛とそれに関連する恵みを禁ずる律法はない、という不必要とも見られる発言をしている〈ガラテヤ5・23〉。実際上、これらの徳は、貴金属が世に発見される場合のように制限された範囲を越える時には、あたかも不法で犯罪であるかのように扱われる。あらゆる天来の恵みを完全に体現しておられた方〔イエス〕は、寛大に扱われてはならない人物として、この世から抹殺されたのではなかったか。幸いなことに、世は最後には正しい意見に同意するーーもっとも、虐待を受けた人々に仕えるようになるには、しばしば時間がかかるものであるが。マルタ島の未開人たちは、パウロの手に毒蛇が取りついたのを見て、パウロはきっと人殺しに違いないと思ったが、彼が何の害も受けずに蛇を振り落とすと、その考えを変えて「この人は神さまだ」と叫んだ。そういうわけで、もし私たちが洞察と一貫性で評判を得たいと思うなら、批判することに急ぎすぎてはならないという、この慎重についての処世訓を学ぶべきである。

 しかし、私たちは、もっと高い考慮から。裁くことに遅くあるように自らを訓練すべきである。賢くて信頼できるすべての人の人格と個性に対して尊敬の念を抱くべきであり、誤りを犯し、善を悪と呼び、悪を善と呼ぶのではないかという恐れを絶えず持つべきである。古代の哲学者のことばを借りるなら、「私たちはいつも、人をほめたりけなしたりする時、正しくないことを語らないように、特に慎重であるべきである。このために、善人と悪人を区別することを学ぶ必要がある。神は誰かがご自分のような人を非難したり、またご自分に似ていない人をほめたりする時、喜ばれないからだ。石や棒、鳥や蛇がきよく、人間はきよくない、などと考えるな。すべてのものの中で最もきよいものは善人であり、最も憎むべきは悪人だからである」

三、もし私たちがマリヤのようなキリスト者になれないなら、ともかく、ユダのような弟子にならないようにしよう。すべての人がベタニヤの女のようになるのは望ましいことではない、と考える人々がいる。彼らはもっともらしく、人間性の弱点を考慮するなら、非現実的で衝動的・神秘的なキリスト者の一派は、もっと現実的で保守的な、いわば庶民的な性格の別の一派によって抑制される必要があると主張する。とはいえ、多分、その主張も、教会にいるマリヤのような少数のキリスト者が、信仰を粗野、低俗、形式主義に堕することから守る働きをしているという事実を認めている。いずれにせよ、教会がユダのような人々を必要としていないことは確かである。ユダとマリヤ! この二人は人間の性格の両極端を表している。一方は、プラトンが言う○○〈すべてのものの中で最も憎むべきもの〉であり、もう一方は○○〈すべてのものの中で最もきよいもの〉である。そのように異なった性格は、私たちにいやおうなく天国と地獄を信じさせてくれる。両者は、それぞれにふさわしい場所へ行く。マリヤは「忠実な人々の国」〔天国〕へ、ユダは、彼らの良心と神を富のために売り渡した不忠実な人々の国〔地獄〕へ。

四、マリヤの気前のいい、心の広い行為に対するイエスの寛大な弁護において、イエスがさりげなく、また適切に、預言者的な先見の明を発揮して、福音が全世界に伝播されることを予期しておられることは、特に注目に値する。イエスは「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら」と言われた。そのような福音は、世界に訴えるものにほかならない。福音とその創始者を理解する者は、全世界に出て行って、すべての造られた者にそれを宣べ伝えたいという燃えるような願いを持たずにはおられない。この時のキリストの発言に見られるこの普遍主義的な感触は、私たちを驚かすどころか、むしろ当然のことと思われる。自然主義の学派の批評家すら、その真正性を認めている。この学派に属する福音史の最も有能な学者の一人はこう言う。「ベタニヤでのこのことばは、イエスが御自身とその主張に対してそれが始まりつつあるのを見た世界的進展に関する、キリストの生涯の最後の時期の、唯一の、充分に信頼し得ることばである。」それゆえ、もし十二弟子が最後まで偏狭なユダヤ主義者にとどまっていたとするなら、それは主の教えの中に普遍主義的要素が欠けていたからではなく、彼らがこの時そうであったように、いつまでもマリヤの行為と、それが象徴している福音とを正しく評価できなかったことによる。しかしながら、彼らがいつまでもそうであったとは信じられない。その何よりも証拠は、このベタニヤのマリヤの物語が福音書の中に記録されていることである。

※途中○○で示したのはいずれもギリシヤ語であり、引用者は写せぬのでそうした。諒とせられたし。)

2022年11月18日金曜日

イエスに香油を注ぐ(中)

すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をむだにしたのか。この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。(マルコ14・4〜5)

 この語はユダが率先して発したのである(ヨハネ伝12章)。三十デナリでイエスを売るユダとしては大変な浪費と見えたであろう。一デナリは大工の一日の賃金であったのだから、高級な労働者の一ヵ年分の労銀を一瞬間に浪費したのである。今でもユダと同じ批評を加える人はたくさんある。しかし実際を言えばこういう批評をする人はかえって貧しき者を顧みない人である。イエスのために心から浪費し得る人こそ孤児院を建てる人である(※)。教会が堕落したとは言え、歴史を見ると功利論者よりも教会及び教会人の興した慈善事業の方がはるかに多い。

祈祷
主イエスよ、私たちに先ずあなたを愛する心を与え給え。あなたのために命をも浪費して惜しまぬ心を与え給え。而してこの心をもって貧しき者をみ、私に仇する者を見、私の隣人を見ることを得させ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著315頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌328https://www.youtube.com/watch?v=Wep8fvahzwc 

さて、クレッツマンの『聖書の黙想』は昨日に続いて次のように述べる〈同書214頁より〉。 

 ヨハネの記録によると、こんな行いは大仰で罪深い浪費であり、この油を金に換え、それを貧しい人々に施した方がよかったのだという考えを弟子たちに吹きこんだのは、ユダだったと説く〈ヨハネ12・4〜5〉。ユダは会計をあずかるものとして、自分自身がまず、その金を握りたかったのである。彼は盗人だったからだ。しかし、イエスは力強くマリヤの味方をされた。イエスは彼女の行ないを信仰による善きわざとしてお認めになり、こう口に出される。

 ーー貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありませんーー

※これは明らかにジョージ・ミュラーのことだと思い、そう言えば、ジョージ・ミュラーについてこのブログでも何か書いているぞと思い出し、我がブログを検索してみた。ある、ある、しかも英文原書から翻訳したものまでもあるではないか。もう一度振り返って見たい記事群である。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/search/label/George%20M%C3%BCller

A.B.ブルースの『十二使徒の訓練』下巻〈99頁より〉から昨日の続きを載せる。

 愛を試験し、卓越性を計ることにおいて、イエスとパウロと他の使徒たち〈彼らも皆、ついに主の思いにあずかった〉は、宗教界また非宗教界と大いに異なっている。パリサイ人やサドカイ人、用心深い宗教家、それに不謹慎な無宗教の人々は、どんなに高尚な動機によっても、熱狂的な、勇気のある献身を好まない点で一致する。彼らは賢く、抜け目がない。彼らの哲学はこのような処世訓に要約されるかもしれない。「寛大な心を持ちすぎるな。同情しすぎるな。責任感を持ちすぎるな。心が頭に打ち勝つことを許すな。損をするほど主義を振り回すな。」

 熱心になること、特に善についてそうなることを好まない傾向は広く行き渡っているので、どの国にも熱心を戒める格言がある。ギリシヤ人は○○と言い、ラテン人はNe quid nimis と言う。格言の作者も引用者も、何かに熱心になることが賢いかどうかについて疑いを表している。世間の人々の気性は散文的であって詩的ではないーー用心深く、衝動的ではない。善においても悪においても極端に走るのを嫌悪する。むしろ、平凡、穏健、冷静といった死んだような水準を好む。その理想像は、愚行や悪行で評判を落とすことがあっても、評判が上がることがあっても、決して我を忘れない人、そして、高尚なことに没頭することによって、決して卑劣、高慢、利己主義、臆病、虚栄を除かない人である。

 香油注ぎの時の十二弟子の気性は世的なものであった。彼らはマリヤを、夢を追うような、騎士気取りの、気の狂った女と考え、その行為を弁護の余地がないほどばかげたものと考えていたようである。もちろん、彼らはマリヤがイエスを愛したことに反対したわけではない。ただその表現の方法が愚かに思われたのである。香油に費やされたお金はもっと良い目的ーー例えば貧しい人々の救済ーーに充てられたであろう。また、すべての博愛的行為はイエスご自身に対する親切な行為であると言うイエスの教えに従って見ても、やはり彼はそうすることを望んでおられるように思われた。ちょっと考えると、マリヤよりイエスを熱愛していないというわけでもないかぎり、彼らの方が理にかなっており、彼らの方がずっと賢かった、と言いたくなるような気もする。

 しかし、主が十字架につけられた日の彼らの行動を見て、彼らとマリヤの違いを学ぶがよい。マリヤは結果も費用も眼中にないぐらい、熱烈に愛した。弟子たちの愛し方は冷たかったので、彼らの心には恐れの余地があった。それゆえ、マリヤが彼女の香油を使い果たしたのに対し、弟子たちはみな主を見捨てて、彼ら自身のいのちを救うために逃げ出した。そこでわかることは、見せかけにせよ本物にせよ、時として行き過ぎがあっても、私たちに一切の打算を不可能にさせ、そこから生じる誘惑に耐え抜かせてくれる精神ほど賢明で、優れたものはないということである。せっかちでしくじりも多いが、一人の英雄的ルターは、実に賢いが、冷淡で、熱情に欠け、臆病で、日和見主義的な、千人のエラスムス型人間に値する。学問は偉大であるが、行動はさらに偉大である。高貴な行動を実践する力は、愛から来るのである。

 冷淡な弟子たちと比べて、献身的なマリヤは何と偉大であろう! マリヤは気高い行為をなし、彼らはそれを批判している。批判、わけても、あら捜しに満ちた批判ほど人間にとってくだらない仕事はない。愛は、そのような働きには関心がない。彼女の広い心にとって、それは余りに取るに足りないものだった。もしほめる余地があれば、彼女は惜しみなくそうするであろう。しかし、あら捜しや非難をするくらいなら、沈黙する方を取るであろう。

 それから、マリヤにおいて、愛が如何に先見の明があるかということにも注意せよ。彼女は、イエスが死に臨もうとしていることを知らなかったが、まるでそのことを知っていたかのように振る舞っている。マリヤのような人々は、人の心を言い当てることができる。愛の本能、愛の神の霊感は、彼らが正しい時に正しいことを行うように教える。それこそ、この上ない真の知恵である。

 一方、冷たい心がいかに知識を干からびたものにし、人々を愚かにするかを、弟子たちの場合に見る。彼らは将来起こることについて、マリヤよりはるかに多くの情報を得ていた。もし彼らが、イエスが私に渡されようとしていたことを知らなかったとすれば、彼らは多くのヒントから、また彼らに与えられていた明白な告知からしるべきであった。しかし、悲しいかな! 彼らはすべてこれらを忘れてしまっていた。なぜか? 誰もが隣人にかかわることを忘れてしまうのと同じ理由によってである。十二弟子は、余りにも自分のことにとらわれてしまっていた。彼らの頭は世的な野心のむなしい夢でいっぱいだった。そのため主のことばは、語られるそばからほとんど忘れられてしまった。そんな状況が主に、切々と、しかも責めるように「あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです」と語らせたのである。この時の十二弟子のような心の人々は、イスラエルがなすべきことを知り、それを知っている人々の行為を是認するようには、決してその時代を理解しない。

 マリヤの性格に見られる第二の素晴らしい特徴は、その精神の自由さであった。彼女は、善行の形式や規則に縛られていなかった。弟子たちは、彼らの言い方から判断して、ある型にはまった行動を頑なに固守する、大の形式主義者だったように思われる。彼らは「この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに」と言った。彼らは貧しい人たちへの愛〔慈善〕が大変重要な務めであることを知っている。主がそのことにしばしば言及されたことも知っている。そして、彼らはそれを何よりも大切なものとしている。施しという意味での「慈善」〈Charity〉は彼らの趣味である。ユダが主を裏切るために出て行った時、彼らは、彼が知っている貧しい人々に夕食の残りを配りに行ったのだと思った。彼らの善行についての考えは形式に支配されているように見える。彼らに伴う良いわざは、あらゆる種類の気高い行為と同一の範疇に属しているようには思われない。その言い回しは専門的で、その適用ははっきり宗教的・慈善的性質の行動の狭苦しい範囲に限定されている。

 マリヤの場合はそうではない。彼女は善を行う方法が一つ以上あることを知っている。しかも、彼女独自の方法を考え出すことができる。独創的・創造的であって、奴隷のように模倣的ではない。また彼女は、独創的であるというに劣らず、恐いもの知らずでもある。尋常の方法からしか善行を思いつけないのではなく、彼女は自分が考え出したことを実行する勇気を持っている、世間を少しも恐れていない。「十二弟子はことのことをどう考えるだろうか」と、前もって尋ねることなどしない。思いのままに、彼女は自分の計画を作り、素早く、自由自在に、時を移さず実行にかかる。

 この自由を、彼女はその大きな心に受けていた。愛は、その思いと行いとにおいて彼女を独創的にした。真心のない人々は、マリヤのように独創的でない。彼らは一つの動機、もしくは別の動機から善行に熱中するかもしれない。しかし、非常に奴隷的・機械的な方法でそれらに精を出している。彼らは信頼している幾人かの人から指示を仰がなければならない。あるいは、もっと一般的には、習慣や風潮によって、なすべきことの指示を受けることになる。それで、彼らはもてはやされない善行を決してすることがない。しかし、マリヤは相談相手を必要としなかった。彼女は自分の心に相談した。愛が、その時なすべきことは何かを誤りなく告げた。すなわち、彼女が現在しなければならないのは施しではなく、偉大な大祭司である方〔イエス〕に香油を注ぐことである、と。

 マリヤの例から、愛は必要に勝る発明の母であるということがわかる。偉大な心は、利口な頭に劣らず、霊的独創性と大きなかかわりを持っている。独創的説教者、独創的施与者、キリスト教の働きのあらゆる部門での独創家で教会が満ちあふれるために必要なのは、より多くの頭脳でも、より多くの訓練でも、より多くの機会でもなく、何物にも勝って、より豊かな心である。キリスト者の共同体〔教会〕のうちに愛が欠乏することは、乾期の川に似ている。川は両岸内にとどまっているものの、その川底の全部を占めてはいない。水の流れの両側には乾燥して高く盛り上がった砂利や砂の大きな河床ができている。しかし、神の愛が教会員の心に注ぎわたると、教会は雨期の川と同じようになる。水位が高くなり始め、砂利の河床はすべて水面下に消え、ついに増水した川は水路を満たすばかりか、両岸からあふれ出て牧草地を潤すまでになる。こうして新しい善行の形式が試みられ、新しい善行の基準が得られる。新しい歌が作られて歌われる。古い真理の新しい表現法が考え出される。それは目新しさのためではなく、新しい霊的生命の創造力によるのである。

 マリヤを機械的習慣の束縛から解放するとともに、恐れから解放したのは愛であった。愛の力をよく知った人は、「愛は恐れを締め出します」と言う。愛は、内気で傷つきやすい女性を大胆にーー男性よりも大胆にーーすることができる。愛は、万人が戦々恐々となる世評と呼ばれるものを無視することを教えてくれる。ペテロとヨハネがサンヘドリン〔ユダヤ人議会〕に引出された時、彼らをあれほど大胆にさせたのは愛であった。彼らは、自分たちのいのち以上にイエスを愛するほど長くイエスとともにいたので、有力者たちを前にしてもひるむことがなかった。イエスご自身が非難を気にかけず、その働きの遂行に際して因習的制約を無視されたのは、愛のゆえであった。イエスの心は博愛的使命にささげ尽くされていたので、イエスは世の不賛成を無視された。いや、ご自分の目につくように口ばしを入れてくるのでなければ、恐らく、それを考えることすらされなかったであろう。愛がマリヤに果たしたこと、イエスに果たしたこと、そして後に、使徒たちに果たしたことは、すべての人にも果たされる。愛が豊かに存在するところでは、気遅れやはにかみ、これらを伴う愚かな行いが消え、力ある品性と健全な精神が生まれる。

 賛辞の最後を飾るために、次のことを付言したい。愛は私たちを大胆にさせるが、恥知らずにさせることはない。ある人々は、ほかの人々の気持ちを考えるには余りに自分本位であるために大胆になる。愛によって大胆になった人々は、非難されるようなこともあえて行う。しかし彼らは、できるかぎり隣人を喜ばせようと、また怒らせまいといつも心を配っている。

 この項目で、もう一つのことを述べよう。愛から生じる自由は、決して危険なものではない。今日、多くの人は、広教会派の神学の進歩を非常に気遣っている。キリスト教会の公同の真理に対する懐疑的無関心に存する広さには、厳重な警戒を払うべきである。しかし他方、キリストと、キリストの御国の大いなる権益に対する、焼き尽くすような愛による広さと自由については、幾らあっても構わない。愛の精神は、厳格な人々がこれこそ重要だと考えることを比較的軽い問題として扱う。また、自由よりも秩序や慣習を愛する人々が気紛れな新しいものと見なすようなことを行おうとする。しかし、その害は、現実よりも想像上のものであろう。もしそうでなかったら、衝動的なマリヤたちは、その行為を多めに見られないため、教会の中にそれほど多くは存在しない。いつも教会には、ドン・キホーテ的な兄弟たちを厳重に監視している、平凡な、秩序を尊ぶ弟子たちがたくさんいる。

 終わりに、マリヤの精神の気高さが、その自由さに劣らず目立っていた。彼女の性格には、低俗な功利主義の汚れが全く見られなかった。彼女は平素から考えているように考えたが、それは直接に、明瞭に、また物質的に役立つ考えではなく、尊敬すべき、愛すべき、道徳的に美しい考えであった。抜け目のない実際家たちは、彼女を非現実的で感傷的な、夢見る神秘主義者と言ったかもしれない。だが、もっと根拠のある正しい評価は、彼女を営利的というよりも英雄的・騎士的徳を備えた女として描くものであろう。イエスは、彼女の行為を述べるのに用いた形容詞によって、マリヤの性格における特徴を際立たせられた。イエスはマリヤの行為を、有益な行為とは呼ばず、立派な、もっと適切に言えば、気高い行為と呼ばれた。

 しかし、マリヤの行為は気高さにおいて際立ってはいたが、有益でなかったのではない。あらゆる良い行いは、何らかの点で有益であり、また、いつの時にか有益になる。あらゆる気高い、美しいものーー思想、ことば、行為ーーは、究極的には世のためになる。ただ、マリヤの行為のように最高に気高い行いは、いつも明白で、感知できるとは限らない。もし私たちが直接の、明瞭な、通俗的な有益さを何が正しいかの標準とするなら、ベタニヤでの香油注ぎだけでなく、あらゆる美しい詩や芸術作品、真理と任務のために物質的なものを犠牲にするすべてのことも除くべきである。事実、直接に物質的な富や慰めの増大に資するのではなく、ただこの世を俗悪から救い出すもののみーーそれは、私たちが時折かすかに夢見る、はるか遠くの善と美の国を垣間見させてくれるーーが、私たちを神的で永遠的なものに触れさせ、この地上を由緒あるーーかつて英雄たちが戦い、彼らの骨が埋められ、こけむした石碑が彼らの武勇を記念して立っている地ーーとしたのである。

 この精神の気高さにおいて、マリヤは優れてキリスト者であった。というのは、キリスト教の精髄は、紛れもなく功利主義ではないからである。それはこう勧告する。「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、これらのことに心を留めなさい。」〈ピリピ4・8〉

 これらのものはすべて、極めて有益なものである。だが、私たちが心に留めるように求められているのは、それらの功利性ではなく、そのもの自体である。そして、それは大変道理にかなったことである。的確に有益であるためには、有益であること以上の高いものを目指さなければならない。ちょうど、幸福であるためには、幸福であること以上の高いものを目指さなければならないように。私たちは、啓発された良心と愛する清い心によって示された道理を、私たちの常の義務としなければならない。その時、あらゆる種類の有益性は、それを私たちが予見しているといないにかかわらず、私たちの行為によって間違いなく行かされるであろう。

 であるがゆえに、もし功利的打算を私たちの行為の指針とするなら、概してそのようなものの有益さは最もはっきりせず、その現れに最も時間がかかるために、私たちは最も良い、最も気高いものを放置することになろう。この世にとってこのうえなく有益なものは、殉教者の英雄的献身である。しかし、殉教の恩恵が世に現れるには幾世紀もかかる。もしすべての人が功利主義の哲学の処世訓に従い、功利性を彼らの動機づけとしたなら、一人の殉教者もでなかったであろう。

 功利主義は日和見主義に傾く。それは英雄的行為と自己犠牲の死である。それは見るところによって歩み、信仰によって歩まない。それは現在を見るだけで、将来を忘れている。それは思慮分別を良心の王座に着かせる。それは大きな人物を生まず、せいぜい狭量なでしゃばりを生むだけである。それらのことを考え合わせると、現代の宗教用語にしばしば繰り返し出てくる「有効性」〈usefulness〉という語が新約聖書には存在しないことを知っても、少しも驚くには当たらない。・・・ 明日に続く)

2022年11月17日木曜日

イエスに香油を注ぐ(上)

手折りては 椿の花の 色香愛づ
イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。(マルコ14・3)

 これは昨日の日課より四日前すなわち前週の土曜日の出来事です。『らい病人シモン』とは誰であったか不明である。多分イエスにらい病を癒された人であろう。マルタ一家の親戚らしい。例によってマルタは給仕をなしラザロは食卓についていた。

 油を注いだのはマリアである(ヨハネ伝12章)。『石膏の壺』の頸のところを折らなければ香油が出ないように大切に出来ている。『イエスの頭』に注いだのは賓客に対する最敬礼であるが、ヨハネ伝には『御足に』も注いだとある。これはお葬式の準備という意味で為されたのであった。愛の直感である。

 幾度も予告されながら弟子らはイエスの死をまだ信じ得なかったときに、マリアはこれを直感し、最後のご奉仕としてこの『非常に高価なナルド油』を全部イエスに注いでしまった。

祈祷
イエス様、私はあなたに対して鈍感であります。これは頭の鈍いばかりでなく、愛が足りないのであります。どうか今少し御心を直感するような愛を増し加えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著321頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 307https://www.youtube.com/shorts/M8K6y3uE5cA 

引き続いて、クレッツマンの『聖書の黙想』から

 ここで聖マルコは、前週の土曜日の夕方にすでに起こっていた出来事の挿話を加え、ユダが主に対して、いまだ捨てきれずにいた忠信の情を、どうしてことごとく捨ててしまい、キリストの敵と運命を共にするに至ったかを明らかにしている。

 場所はベタニヤ、ここでイエスはシモンという者の家へ客として招かれた。この男は恐ろしい癩病からーーもちろん、主みずからの手によってーー癒された者である。

 この時、ベタニヤのマリヤという女が非常に高稀で高価な香油の入れてあるつぼを持って来て、最愛の救い主にその油を注いだ。彼女は主が約束された王として、祭司として、気高い務めを果たされることを深く理解し、主の身に迫り来る死を予感して、このことを行ったのである。

一方、A.B.ブルースはその著『十二使徒の訓練』の中で、マタイ26・6〜13、マルコ14・3〜9、ヨハネ12・1〜8を聖書箇所として、第18章 十字架についての第三の教えーーベタニヤでの香油注ぎーーを展開している〈同書下巻83頁〉。長文だが三回に分けて今日から掲載する。

 ベタニヤのマリヤがイエスに香油を注いだ感動的な物語は、共感福音書に記録されているように、受難史の一部を成している。その序文は、マタイが完全に近いものを記しているが、四つの事柄を含んでいる。第一は、ご自分が裏切られることを、過越の祭りの二日前にイエスが弟子たちに語ったこと。第二は、エルサレムで祭司たちが集まり、イエスをいつ、どのように殺そうかと相談したこと。第三は、マリヤによる香油注ぎ。第四は、イスカリオテ・ユダと祭司たちの間に秘密の取引が行われたこと、マルコの序文では、これら四つの事柄の第一が省かれている。ルカの序文では第一と第三が省かれている。

 第一福音書記者〔マタイ〕が語っている四つの事実は、共通してそれらがこれまでしばしば予告されてきた終わりがついに近づいたことのしるしであったことを示している。ここでイエスは、「人の子は引き渡されるでしょう」ではなく、「人の子は十字架につけられるために引き渡されます」と言われている。イスラエルの宗教指導者たちは、彼らが嫌っている人物を如何に取り扱うべきかを論じ合うためではなくーーそのことはすでに決定済みであるーーその暗闇の行為をどうしたら人に知られず一番安全な方法で実行できるかを協議するために、秘密会議を開いている。犠牲者〔イエス〕は目前に迫った犠牲行為のために愛をこめた手によって香油を注がれた。それから、ついに、祭司たちの手間を省かせる、全く予想外の方法で彼らの邪悪な目的に道を開く手先が見つかった。

 十字架の悲劇〔受難史〕の序論に四つの出来事が集められていることは、驚くほど劇的な効果をあげている。最初に、正しい方〔イエス〕の生命をねらう陰謀を企てるエルサレムのサンヘドリン〔ユダヤ人議会〕が登場する。次に、石膏のつぼを割り、香油を愛する主の頭と足に注いで、言いようもない愛を示したベタニヤのマリヤが登場する。最後に、マリヤが無用な愛の行為に使い果たしたよりも少ない金額で主を売り渡すと申し出たユダが登場する。両側に憎悪と卑劣があり、真ん中に真実の愛がある。

 石膏のつぼに対するこのマリヤの忘れ難い扱いは受難史に属しており、そしてそれは、イエスが付している解説により、カルバリで演じられる重大な悲劇への叙情詩的序曲の性格を備えている。またそれは、弟子たちのなした、それに対する好意のない解釈のために、十二弟子の歴史にも属している。弟子たちは皆、マリヤの行為に賛成しなかったようである。ただ、ユダと他の弟子たちとの間には一つの違いがあった。ユダは偽善的な理由で賛成しなかったが、他の仲間の弟子たちは判断においても動機においても正直であった。そのとがめだてによって、十二弟子はマリヤの引き立て役になった。彼らはマリヤのためにイエスを当面の弁護者とさせ、後には彼ら自身、彼女の称賛者となった。彼らの非難は、主から「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」という驚くべき言明を引き出した。

 とがめだてている弟子たちは、やがて彼らが使徒となった時、この預言の成就を助けることになった。彼らは、彼ら自身の心の反作用的寛大さによるとともに、彼らの主の事実上の命令によって、先には悪し様に言ったマリヤに対する態度を改めなければならないと感じた。そこで彼らは、人々に対して示されたイエスの真実の愛の物語を語った所ではどこででも、イエスに対して示されたこの彼女の真実の愛の物語を語り伝えた。彼らの口から出たこの感動的な物語は、やがて福音書に収められ、終わりの時まで真のキリスト者たちに血を沸き立たせるような喜びをもって読まれるようになった。まことに、イエスのとられた勇気ある擁護と、使徒たちのとった度量ある撤回に免じて、しばらくの間悪し様に言われることに甘んじようではないか。

 マリヤの弁護が誰から発しているかを考えると、その弁護は単に寛大なものだったというだけでなく正当なものであったと確信してよい。しかも確かに、非常に驚異的な性格の弁護である。まことに、それはあたかも、弟子たちが非難する側で極端に走った一方、主は称賛する側でもう一つの極端に走られたように思われる。そのようにベタニヤの婦人をほめそやすことで、あたかも主は、彼女の突飛な行為を別の形で繰り返しているだけのように思われる。あなたは次のように質問したくなるだろう。果たして、彼女の行為は、すべての時代を通じて福音とともに覚えられるほど抜群の価値を有するものであろうかと。さらにイエスが示したその行為についての説明に関して、別の質問が自然に浮かんでくる。マリヤが香油を注いでいた時、イエスの死と葬りとのことが本当に彼女の念頭にあったのだろうか。むしろ、イエスがご自身の感情を彼女に移入し、彼女の行為に、ご自分の思いの中にだけあった観念的な詩的意味を付与されたのではないだろうか。もしそうなら、私たちは彼の下した評価を承認できるだろうか。さもなければ、マリヤの行為の本当の価値についての問題に対して、私たちは主に反対して十二弟子の側に票を投じるべきではないだろうか。

 私たちとしては、この問題に対して、心からキリストの側に立つ。そうする時、二つのことを認めることができる。第一に、文字通りの意味で、マリヤはイエスの死体に香油を塗って防腐処置を施すことなど考えていなかったし、それに多分、彼女は高価な香油を注いだ時、イエスの死を全く考えていなかったことを認めよう。彼女の行為は、言いようもなく愛していた方に喜びのあまり表された敬意にほかならず、他の機会にそうしてもよいことであった。さらに私たちは、その彼女の行為が彼女のためばかりでなく、それにも増して福音のために語られるのに適当でなければ、すなわち、それが福音の性質を説明するのに役立たなければ、マリヤの行為が如何に気高いものであったとしても、すべての場所、すべての時代を通じて福音とともに覚えられる資格があると言われるのは、確かに突飛なことであったと認めよう。換言するなら、彼女が石膏のつぼを割ったことは、十字架の死において示されるイエスの愛の行為の典型として用いられるだけの価値があるに違いないのである。

 本当にそのとおりであると、私たちは信じる。福音が真に宣べ伝えられる所ではどこででも、この香油注ぎの物語は、イエスの心を動かしてそのいのちを捨てさせた精神の最も良い例として、また誠実な信者の生活に現れるキリスト教精神の最も良い例として、間違いなく重んじられている。石膏のつぼを割ることは、私たちに対するキリストの愛の美しい象徴であると同時に、私たちがキリストに対して示すべき愛の美しい象徴でもある。マリヤが香油のつぼを割って、その高価な中味を注ぎ出したように、キリストはご自身の体を裂き、尊い血を流された。また、キリスト者たちは主の前に彼らの心を注ぎ出し、キリストのためにその生命をも惜しまない。キリストの死は、私たちのために石膏のつぼを割ることであった。ならば、私たちの人生はキリストのために石膏のつぼを割ることであるべきである。

 このマリヤの行為とキリストご自身の死との間に見られる霊的な類似関係が、マリヤの行為について語ったイエスのことばにおける謎めいたものを解く真の鍵である。例えば、それは、イエスがそれに関連して福音に言及した注目すべき方法を説明する。イエスは、まるですでに福音が語られてきたかのように、いや、香油注ぎの行為が福音であるかのように、「この福音」と言われた。そんなわけで、それは比喩においてであった。すでにマリヤによってなされた一つの行為は、イエスの思いの中に、ご自分がまさにしようとしている別の行為を自然と示唆したのである。イエスは心の中でこう思われた。「その割れたつぼと注がれた油には、わたしの死が予表されています。その行為を促した隠れた動機には、わたしが自分自身を犠牲としてささげることによって明らかにされる永遠の精神が宿っています。」「この福音」ということばを用いた時、イエスはこのような考えを表明しようとしておられた。マリヤの行為にそのような解釈を加えることによって、イエスは事実上、弟子たちに十字架についての第三の教えを示されたのである。

 この同じ霊的類似関係の光に照らすと、イエスがマリヤの行為について、「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです」〈マタイ26・12〉と言われたことの真意がはっきりわかる。それは非常に詩的な行為に対する、神秘で詩的な解説であり、また、そのようなものとして美しいだけでなく、真実なものであった。ベタニヤでの香油注ぎは救い主の死の真意を保護する、いわば防腐保存に役立つものだったからである。それは救い主の死を理解するための象徴的行為となってきた。それは十字架の周りに無私の愛という朽ちることのない芳香を放ってきた。それは、救い主の墓を枯れることのない花で飾り、マリヤのためばかりでなくイエスのために、代々限りなく残る記念碑を立ててきた。そのような行為を、「彼女は、わたしの埋葬の用意をしてくれた」と言うのは適切ではないだろうか。それほど有力に福音に貢献し得る行為を、むだな浪費だったと言うのははなはだ不適切ではないだろうか。

 これらの質問に、先に指摘した霊的類似性が本当に存在すると確信する人は皆、そのとおりだと答えるだろう。そこで、私たちがこれからしなければならないことは、少し詳細にわたって、私たちの主張には充分な根拠があるということを示すことである。

 イエスに香油を注いだマリヤの良いわざ〈新改訳「りっぱなこと」〉と、イエスご自身が十字架の死によってなした良いわざとの間には、三つの顕著な類似点がある。

 まず、動機において類似性があった。マリヤが良いわざをしたのは純粋な愛からだった。彼女は、イエスご自身のゆえに、イエスが彼女の家族のためにしてくださったことのゆえに、またイエスが彼らの家を訪ねた時、その口から聞いた教えのゆえに、心からイエスを愛した。友であり恩人である方に対して心に抱いた彼女の愛は、言い表そうとしても、到底ことばに表せないものであった。彼女は、こらえていた感情を晴らすために何かしないではいられなかった。それで石膏のつぼを取り、それを割って、香油をイエスに注いだのである。そうしなければ、彼女の心は引き裂かれてしまったであろう。

 ここに見られるマリヤの行為は、死ぬためにこの世に来られ、十字架にかかって死なれたイエスのそれとよく似ている。私たちのために自らを犠牲としてささげるようにイエスを動かしたのも、マリヤが示したのとまさに同じ愛ーーただ、もっと深く、もっと強かったがーーであったからである。人となって、ご自身について記録されていることを経験されたイエスの全行動を一言に要約するならば、彼は罪人を愛されたということになる。贖罪思想の研究に疲れ切った篤学の神学者たちは、最も満足すべき説明が与えられている個所として、ここに帰ってくる。

 イエスはそのいのちを捨てるほどに罪人を愛された。いや、彼らのためにどうしても来て死ななければならないというほどに彼らを愛された、と言っても良い。ペルシヤ王の宮廷に仕えていたユダヤ人の愛国者ネヘミヤのように、イエスは、はるか遠く地上にいる同胞が炎の中にあるのに天の宮廷にとどまっていることができず、彼らを助けるために天から下ることを求め、遂行しないではおられなかった。あるいはマリヤのように、人間の魂の精粋で満たされた石膏のつぼーー人間の体ーーを手に入れ、私たちの救いのために十字架の死に至るまでご自分の魂を注ぎ出さずにはおられなかった。イエスの精神、しかり、永遠の神の精神は、マリヤおよびネヘミヤの精神であり、また、彼らと同様の心を持ったすべての人の精神である。恐れ多くも、むしろ、そのような精神こそがイエスそして神の精神であるというべきである。

 それでも、時には物事を逆に考えてみることが必要である。なぜなら、どうも私たちは、愛は神に対するリアリティ〔現実〕であるということを信じるのに時間がかかるからである。私たちは、そうすることがまるで不敬虔であるかのように、人間性において最も高貴で英雄的であると認められる属性を、神に帰することにたいてい躊躇する。そうだとすると、ベタニヤでの香油注ぎをカルバリの十字架と結び付けることにイエスが同意されたことには、実際的な価値がある。要するに、イエスはそれによって次のように言われるーーわたしの死をマリヤの行為、すなわち純粋な献身の行為と同じ種類の行為と見なすことを恐れるな。彼女の香油の芳香をわたしの十字架の周りにくまなく放ち、わたしの犠牲の甘美な香りをかぎ分けることができるようにせよ。贖罪という大きな主題について思索にふけるあまり、わたしの死のうちに、わたしの愛の心、そしてわたしの父の愛の心が現れていることを見失わぬよう注意せよ。

 マリヤの良いわざは、さらに、その自己犠牲的性格においてキリストのそれと類似していた。犠牲を惜しみなく払うことなしに、その献身的な婦人は彼女の名高い忠順の行為を成し遂げることはなかった。すべての福音書記者が、その香油が高価だったことを特筆している。マルコとヨハネは、その香油を三百デナリ以上、すなわち、一デナリを当時の労働者一日分の賃金とする一年分の全収入に相当する額に値積って、不平を漏らす弟子たちを描いている。それは、それ自体かなりの金額であった。だが、特筆されなければならないのは、マリヤにとって、それが莫大な金額であったということである。そのことは、第二福音書記者〔マルコ〕が記録しているキリストご自身のことばからわかる。キリストは「この女は、自分にできることをしたのです」と思いやりをもって彼女を評し、弟子たちの厳しい非難に対して彼女の行為を弁護された。それは、翌日か翌々日にエルサレムで、貧しいやもめが神殿の献金箱にレプタ銅貨二枚を投げ入れるのをご覧になった時、イエスがそのやもめについて言われたのと同種の批評であった。すなわち、そのイエスのことばが意味したのは、彼女が心から愛した主への尊敬をこめたその奇妙なささげ物によってマリヤが全財産を使い果たしてしまったということである。彼女の所得のすべて、彼女のわずかの貯えのすべてが、その石膏のつぼと引替にささげられた。そのつぼの高価な中味を、マリヤは救い主の体に惜しみなく注いだ。彼女の愛は平凡な愛ではなかった。それこそ、彼女が愛する者のために全力を尽くした、気高い、けなげな、自己犠牲的な献身であった。

 こういうわけで、そのベタニヤの女は人の子〔イエス〕に似ていた。イエスもまた、ご自分にできることをされた。屈辱、誘惑、悲哀、苦難について、いや「罪」や「のろい」となることについても、聖なる方の耐え得ることは何でも、イエスは進んで受けられた。地上生涯を通じて、イエスは、苦しみの杯を完全に飲みほすことをさせないようにしがちな行動を慎重に控えられた。イエスは、神の力と特権を振るうことを差し控えられた。ご自分を無にし、貧しくなられた。彼は、神に属する事柄において、同胞へのあわれみ深い忠実な大祭司となる資格を得るために、なし得るかぎり多くの点で、罪の中にある彼らと同じようになられた。

 愛があれば、どんな犠牲も容易となる。辛苦に耐え、愛する者のために重荷を負うことは、愛の定めであるばかりでなく、愛の喜びでもある。出費や労苦や苦痛を伴う奉仕においてそれが具体化される機会を見出すまで、愛は満たされることがない。利己主義がしりごみするような物事を、愛は切望する。確かに、これらはマリヤに当てはまる。イエスに対する愛によって彼女ができることをするのは、マリヤにとって、それを止めるよりも容易なことだった。

 しかし、彼女に犠牲を払わせた愛の自発性と熱心は、イエスご自身の場合に非常に顕著に例証されている。まことに、イエスは私たちの贖いのために進んで苦しみを受けられた。十字架を前にしてしりごみするどころか、それを切に待ち望まれた。受難の時が近づくと、それはご自分が栄光を受ける時であると言われた。イエスは、ご自分の払う犠牲を最小限にして私たちの救いを達成しようなどとは考えておられなかった。その気持ちは、むしろこのようであった。「わたしが苦しめば苦しむほど良いのです。わたしがわたしの兄弟たちと一体であることを深く悟れば悟るほど、思いやりのある、重荷を負った、助けの手を伸べるわたしの愛の本姓と熱望が充分に満足せられるのです。」しかり。イエスには、贖いの代価として認められる小さな代価で罪人たちを買い取る以上になすべきことがあった。イエスはご自分の心を充分に重んじ、その深いいつくしみを充分に表わさなければならなかった。有限な、計算された次元のいかなる行為も、その次元が測れない行為の内容を汲み尽くすことはできない。限定された苦難は、特にそれがやんごとなきお方によって忍ばれる時、神の義を満足させるかもしれない。しかし、神の愛を満足させることはできない。

 救い主のそれの典型とされる、マリヤの良いわざの第三の特徴は、その惜しみなさであった。これは、香油注ぎの行為に関係した費用においても明白であった。その費用は資産家の婦人にとってもかなりの犠牲を意味したばかりでなく、当面の目的に関しても充分すぎるものだった。この奉仕に用いられた香油の量は、ヨハネによると、三百グラム以上であった。これは必要量をはるかに越えるものであった。そのこと自体は正しい立派なことと認められても、注ぎ方には浪費と行き過ぎがあるように思われた。どうなされたにしろ、弟子たちがその儀式に反対したかどうかははっきりしない。しかし、弟子たちを不快にさせた顕著な対象が、途方もない量の香油が使われた点にあったことは歴然としている。彼らが実際に言いたかったのは、次のようではなかったろうか。「もっと少量で事足りたはずだ。この香油全部とは言わなくとも、大部分はほかの用途に残しておくべきだったろう。これは全く愚かな、むだ遣いである。」

 心の狭い弟子たちにとって浪費と思われたことは、気高い、壮麗な愛にほかならなかった。それは、異教の哲学者さえも語ることができたように、なされることの多少を考慮するものではなく、いかに優雅に、見事になされるかを考慮に入れるものである。弟子たちにとって無益な浪費と思われたことは、少なくとも一つの良い目的にかなっていた。それは、罪人の救い主としてのキリストの良いわざと類似の特色を象徴的に示していた。キリストは、ご自分のわざを決してけちけちした方法によってでなく、壮麗に行われた。キリストは、すべての人を贖うに充分な富をもって「多くの人」の贖いを達成された。「主には豊かな贖いがある。」彼は、救われる者の数に応じてご自分の血を量り与えたり、選ばれた者にだけ罪人の友としての同情を制限したりされなかった。彼は滅びに定められた魂のために涙を流された。その数を顧慮することなく、限りなくご自身の血を流し、全世界の罪のために充分な贖いを提供された。

 この贖罪のわざに付随する、全世界の必要を満たす属性に、神は無関心であられることはなかった。それどころか、マリヤの愛の行為と福音との関連を公認することばを口にした瞬間には、そのことがイエスのお考えの中にあったと見られる。なぜなら、罪人のために死ぬことによってイエスの愛の行為を宣言することに存するその福音を、イエスは全世界のための福音として語っておられるからである。彼は明らかに、マリヤの香油の芳香が客室をいっぱいにしたように、ご自身の犠牲の芳香がすべての国民の間に救いに導く生き生きとした空気として拡散されることを願っておられる。

 それゆえ、イエスは浪費を非難されたマリヤを弁護しながら、同時にご自分のことを弁明し、次のような幾つかの質問を見越して答えておられた、と言ってよかろう。いかなる目的で、滅びに定められたエルサレムのために泣かれるのか。結局は滅びる魂のために、なぜそのように悲しまれるのか。救いに選ばれていない人々のことで、なぜそんなに心を砕かれるのか。限られた数の人しか信じないと知りながら、すべての人が救われることを願うと言っているように思われる強調によって、なぜ、福音がすべての造られた者に宣べ伝えられるように命じられるのか。なぜ、ご自分の同情と心遣いを実際にその恩恵に浴する人々に限定されないのか。なぜ、ご自分の愛を契約の経路に制限されないのか。なぜ、洪水に見舞われた川のように、ご自分の愛が堤防をあふれ出るままにさせておかれるのか。

 これらの質問は、選ばれた者が救われるための条件についての無知をさらけ出している。すべての人を救おうと進んで心を注ぎ出さなかったら、キリストは誰をも救うことがおできにならなかっただろ。なぜなら、そのように進んで行うことは、キリストが成就すべき完全な義の一部を成しているからである。その義務は、「何よりも神を愛しなさい」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とから成る。「隣人」とは、私たちにとって同じようにキリストにとって、助けを求めているすべての人、キリストが助けてあげることのできるすべての人のことである。

 しかし、この点を長々と論じることはやめ、そのような質問が愛の本性の無知を示していることに注意したい。けちんぼうによって誤って浪費とか行き過ぎと呼ばれた壮麗さは、すべての真の愛が持つ不変の属性である。ダビデが、アロンの大祭司職任命の際に聖別の油がアロンに豊かに注がれたことを、兄弟愛の適切な典型として選んだ時、彼はこの真理を認めていた。ベタニヤにおける香油注ぎの場合と同じく、この油注ぎにも「浪費」が見られた。なぜなら、油はアロンの頭の上にパラパラふりかけられたのではなかった。単なる任職の儀式のためなら、それで充分だった。油の容器は大祭司となる人物〔アロン〕の上でからにされ、そのため、その中味〔油〕は頭からひげに流れて、さらに衣のえりにまで流れしたたった。ダビデにとって、類似点はまさにその浪費にあった。それこそ、彼の心を打った特徴にほかならない。というのは、彼も彼なりに浪費家だったからである。彼は、行き過ぎであると非難を受けるような仕方で神を愛した。例えば、主の箱がオベデ・エドムの家からエルサレムに運ばれた時、彼は王としての威厳を忘れ、羽目を外して主の前で踊った。弁解の余地はないように思われるが、そのような熱烈な感情の表明がもっと穏やかであれば、宗教的な厳粛さをぶち壊さずに済んだかもしれなかった。

 ダビデ、マリヤ、イエス、すべての主を愛する者、預言者、使徒、殉教者、篤信者は一つの仲間に属し、全員が一つの非難を受けている。彼らは皆、愛、悲しみ、労苦、涙の浪費についてとがめを受けなければならない。彼らは皆、自ら行き過ぎの非難を受けるほどの生き方をしている。その行き過ぎは彼らが大いに称賛される点でもあるのだが、ダビデは踊り、ミカルは冷笑する。預言者たちは民の罪と不幸のために悲嘆に暮れ、民は預言者たちの嘆きをばかにする。マリヤは石膏のつぼを割るが、冷淡な弟子たちはその浪費に反対する。神の人はその宗教的確信のために彼らのすべてを犠牲にするが、世は彼らの苦労に対して彼らを愚か者と呼び、哲学者たちは誤って殉教者にならぬよう気をつけよと彼らに言う。イエスはご自分のもとに救いを求めて来ようとしない人々のために涙を流されるが、恩知らずな人々は「滅びに定められた怒りの器のために、なぜ涙を流すのか」と言う。

 すでに学んだように、マリヤの良い行いは、十字架につけられて死ぬイエス・キリストの良い行いにふさわしい、価値のある典型であった。さらにここで、マリヤは幾つかの重要な点で、一人の模範的キリスト者と言われるにふさわしいということを示しておきたい。彼女の性格に見られる三つの特徴が、この名誉ある名を彼女に与えている。

 三つの特徴の第一は、キリストという方への熱烈な傾倒である。マリヤの性格に見られる最も顕著な特徴は、その愛する力、自己献身の能力であった。彼女の行動に明らかなように、イエスの称賛の的となったのはこの美徳であった。イエスはその勇気ある愛の行為を心から喜び、いわば、王が立派な武勲を立てた兵士に戦場で騎士の爵位を授けるように、その場でマリヤをほめたたえた。要するに彼はこう言われたのである。「見なさい。罪からの救い主であり、真理と義の王国の主権者であるわたしへの、無欲な、打算のない献身ーーここに、わたしが理解しているキリスト教があります。だから、福音が宣べ伝えられる所ではどこでも、この女のしたことが、ただ彼女の記念としてだけでなく、わたしを信じるすべての人にわたしが何を期待しているかを知らせるために語られるようにしなさい。」

 そのようにマリヤを称賛することにより、イエスは私たちに、実際、献身こそキリスト者の最高の美徳であるということを理解させておられる。イエスは、最後の使徒であったがキリストのみこころを知る点で使徒の第一人者となった者ーー使徒パウローーによって後に教えられたのと同じ教えを告げておられる。パウロの手紙の読者には周知の、あの燃えるような愛の賛歌ーーその中で、パウロは、雄弁も、知識も、信仰も、異言や預言の賜物も、最も優れた徳である愛に服するものとさせているーーは、ベタニヤの女について言われた称賛のことばの忠実な解釈にほかならない。香油注ぎの物語とコリント人への手紙第一、十三章は共に読まれると有益であろう。・・・明日に続く)

2022年11月16日水曜日

イエスを殺す陰謀

きらきらと 光映しては 流れ来る 古利根川に 主の愛見し
さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。彼らは「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。(マルコ14・1)

 彼らは民の乱を恐れて、神の御手を恐れなかった。イエスは神の御手をのみ見つめて、人を恐れなかった。イエスもし人の力で事を為そうと思ったならば『民衆の騒ぎ』を起こして祭司らに反抗するのは容易であったことは誰よりも祭司らがよく知っていた。

 ただイエスは神の御旨に従ってこの祭りの時に十字架にかかる用意をされていた。そのことはマタイ伝26章2節に『弟子たちに言われた。「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」』と言明しておる、これは面白いではないか。

 祭司らとイエスは同日に正反対のことを考えていた。祭司は祭りの中だけはイエスに手を下すまいと、イエスは祭りの中に真実の過越としてご自身の血を流そうと、而して神のご摂理の手はイエスのご決心通りに動いていた。

祈祷
天の父よ、あなたは常にあなたを信ずる者のために御手を動かし給う。あなたの御手は常にあなたを待ち望む者のために動きつつあるを感謝申し上げます。願わくは私たちをして主イエスのように堅くあなたを信じ常にあなたを見上げる者とならせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著320頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 61https://www.youtube.com/watch?v=bpaCSLneHwg 

 クレッツマンはその『聖書の黙想』でマルコ14・1〜16を32「暗い企ても、救い主をその愛と従順の道からそらすことはできない」と題して述べている〈同書211頁〉。
先ず総論である。

 私たちは今、なんという好対照を目の前にしていることだろう。

 以前にもまして、イエスを滅ぼそうと固く心を決めたユダヤ人は、ユダがその貪欲さと、師に対して次第につのってきた憎しみの情に負けて、彼らのために一役買ったのを知って驚喜した。一方、イエスはそのような裏切りをよく承知しておられながら、ご自身の果たすべき道から退こうとはなさらなかったのだ。

 イエスは最後の過越の祭りの準備をするように、弟子たちにすすめられる。これは彼が初代教会に、偉大な儀式を祝し起こす機会となるものだった。

そして、各論である。今日の場面

 イエスの敵たちには単刀直入な手順で真理にさからう勇気がなかった。良心のために手を出しかねていたのである。パリサイ人たちに目を留めて見よう。彼らは過越の祭りーーこれは彼らが種なしパンの祭りとともに、敬虔と聖なる真心を尽くして守ろうとしていたものであるがーーに備えながらも、一方ではその汚れなき姿を認めない訳にはゆかないお方を殺そうとたくらんでいたのだ。ただ、彼らは臆病で民衆がおそろしかったので、祭りが過ぎるまで待つことにしていた。

David Smithの『The Days of His Flesh』は第45章「楼上の客室」と題して次のような記述を載せている。〈邦訳840頁、原書435頁〉

1 準備の夜

 主が斯くの如くオリーブ山の中腹に座し十二使徒に対して未来についての教訓を授けておらるる間に終局は近づいて来た。ユダヤ人の認めるところに従えばその夜はニサンの月の十四日の前日で翌日は、エジプトの奴隷の境遇よりイスラエルの数われたことを記念〈出エジプト12章〉する神聖な宴筵〈えんえん〉たる贖いの晩餐の用意を遺憾なく整え、十五日の始めたる夜中にこれを守るべき準備の日に当たっていた。次の日の夜半にイエスは十二使徒とともに過越節〈すぎこしのいわい〉の晩餐を守られ、これを終わられるや、ゲッセマネの園における反逆をもって開かれ、カルバリ山上の十字架に終わるべき受難の悲劇が行われんとするのであった。)

2 主の行動

 終局は近づいて来た。次の日の夜中にイエスは凶暴なる敵の手に陥られんとして、現にこれを知っておられた。この境遇に立ってイエスは如何に御心を持せられたであろうか。聖ヨハネはその愛し奉る主の行動、御言葉、御姿をいちいち残りなく思い浮かべつつ、この惨憺たる危機にイエス自ら如何に持せられたかを明快に悟りうべき記事を遺している。イエスは畏縮せず、また逡巡せられなかった。世はただその末路を見たが、ここにイエスは勝利を認められた。『今こそ人の子は栄光を受けました。また神は人の子によって栄光をお受けになりました』〈ヨハネ13・31〉と。斯くしてその末路の近づくに及んで弟子たちはイエスの行動のいよいよ深く彼らに対して温情の加わるるを覚えた。『さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された』とある。これ危機切迫せる訣別の愛情である〈ルカ22・28〉。しかもあらゆる方面に弱くしてイエスの苦難と辛酸との間にそれを傍観せる人々の忠義の揺らいだときもそれを寛大に忍容せられたのであった。

3 有司の商議

 暴風は今まさに迫らんとしておった。イエスとの論争において失敗に失敗を重ね、群衆の面前においては峻烈な宣告を浴びせられて、有司たちはすでに忍耐するを得ず、慕わしきの邸宅に集まって、イエスを死刑に処する道もがなと協議を凝した。彼らはなおイエスが人望の中心人物であって、これを捕縛せんか暴動の生ずる危険あるを恐れて手を下すことは出来なかった。熟議の結果二つの決定を見た。すなわち先ずイエスを捕縛するには秘密を要すること、而して節〈いわい〉が終わって礼拝者の大群、特に過激なガリラヤ人が都を去る後まで待つべきことであった。

4 ユダと彼らの提携

 彼らがやむなく手をしばらく控えるはこの上もなき不本意としたところであったが、期せずして事件に急速の手段を講じ得べき機会が転じてきたので彼らは少なからず喜んだ。祭司長の邸に一人の男が現われ、会見を懇請した。これすなわちカリオテの人ユダで、悪名を千載に馳すべき職分を帯びて来たのであった。彼は失望の子であった。彼はイエスをメシヤなりと考え、メシヤ王国の報賞と栄誉とを受けんがためにこれに従ったのであった。しかるに漸次真相が明らかとなって、その待望せるところの空しきを発見するに至った。イエスを待つものは王冠にあらずして十字架なるをさとるに至って彼の絶望はいよいよその極に達した。彼はイエスを陥れる計画を助けて、その好機を逸せず、身を退くをもって斎場の策とその俗眼をもって看取した。また、己を愚とせりと称せられる主に対して復讐せんと欲してこの行動をとったとも推せらるる。而してその計画は同時に利益と復讐とを兼ね収め得るものであった。イエスがギリシヤ人と会見せらるる間にユダは祭司長の許に赴いて、彼らにしてもし相当の報酬を与えるにおいては、彼らの敵をその手に売るべきを申し込んだ。彼らはその提議を喜び迎えて、銀三十シケルを与うべきを約束した。これ一人の奴隷の相場〈出エジプト21・32〉であって、彼らがことさらに斯く言ったのはユダを侮辱するよりむしろイエスを軽蔑する意味であった。この一奴隷の価格をもって彼らが買うものは謀反人の手からであった。斯くの如き悪党と売買の取引をするのは自らの恥辱であることを意識しつつもなお公然侮蔑の態度をもって交渉し、せめても自らの良心を欺いていたのであった。自尊心を失い、侮辱に甘んずるユダは彼らの提議を満足したので、彼らは一刻も早くこの取引を済まさんと欲する如く、直ちに金銭を払った。)

2022年11月15日火曜日

終わりの時はいつ来るか(下)

『気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。・・・だから目をさましていなさい。・・・いつ帰って来るか、・・・わからないからです。・・・主人が不意に帰って来た時眠っているのを見られないようにしなさい。わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。』(マルコ13・33〜37)

 『目をさましていなさい』『目をさましていなさい』と三度も繰り返し、而して『すべての人に言っているのです』と念を入れておられる。最初の句は『目をさまし祈っていなさい』とある重要な原本に書いてある。この『目をさまし』は『睡眠を廃する』という字で、後の二つは『夜番をする』と言ったような意味である。ルカ伝(21章34節)の方を見ると『あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。・・・いつも油断せずに祈っていなさい』と言っておられる。これは御受難週の火曜日の午後に語り給うたのであるから、十字架につき給う三日前である。十二使徒に対する遺言とも見られる。もちろん私どもに対しても。

祈祷
去り逝く父がその子を戒めるが如く、私たちの油断と怠慢とを戒め給う主よ、眠りやすく、ダレやすく、ズルケやすい私たちを憐み給え。願わくは私たちを憐みて私たちに覚醒と努力と勤勉との日々を与え給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著319頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌370https://www.youtube.com/watch?v=zxTIwbUBQLU 

以下は、「人の子の訪れ」と題するクレッツマンの『聖書の黙想』の引用文の締めくくりの文章である。

 このように主は、その愛する者たちに語りながらも、この人たちの弱さを知り過ぎるほど、知っておられたので、彼らや私たちを慰めるために主は、こう約束される。主の選民はたとえどこへ行こうともーー地球上、至る所に散らされようとも、あるいは、何世紀の間、忘れられて墓の中に横たわっていようともーー主の御使いが彼らを主の聖なる御前に呼び集めるだろう、と。来るべき裁きの前兆は彼らにとっては、ちょうど夏を間近に迎えるしるしのようなものだ。ユダヤの民を意味する「この時代」が、幾世紀もの間を通じて、滅びることなくとどまるという事実こそは、これらの預言が必ず成就されることを物語っている。天と地は滅びても主の御言葉は永久に真理としてとどまるからだ。

 警告の言葉が適切なものであった以上、私たちはこれを忘れることができない。

 主の訪れる日と時は、明らかに啓示されていない。御使いたちもそれを知らない。主ご自身でさえも、今は身を低めて人の姿をとっておられるので気づいておられない。それは天の父のみ知りたもう秘密である。したがって、私たちは世俗的な安心感に溺れることなく、常に目覚めて祈らなければならない。ちょっとしたたとえ話が、この点についての考えをはっきりさせてくれる。

 主人は、遠方へ旅立つにあたって、いつ帰るかは誰にも告げず、しもべたちみんながそれぞれの仕事に精を出すように望み、彼らが不実な所を見つけられないように、いつでも主人の帰宅に備えていることを望むものだ。

 すべての人が耳傾け、心すべき警告の声はいまも響いている。

 「目をさましていなさい」

2022年11月14日月曜日

終わりの時はいつ来るか(上)

魚群を 追う白鷺の 波音

『この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。』(マルコ13・31〜33)

 これは一見したところでは不思議と思われる語である。一面にはこの預言の必ず成就すべきを断言し、その天地よりも永久であることを主張して、神の子らしさを示していると同時に、他面にはその時期についての無知を告白して、人間らしき姿を見せている。

 が、神の御子が人となり給うたことを信ずる私どもにはむしろ悲痛なありがたさを感ぜせしめる。『人の子には枕するところもありません』と言われたのより以上に悲惨な気がする。主は私どもと同じ体験を味わって下さるためにその全知全能とを捨てて、神としての立場から見れば実に無知無能の人間となり給うたことを示している。

 もちろん神は彼に『御霊を無限に与えられるから(ヨハネ3・34)』とあるように私どもから見れば実に超人間であったけれども。

祈祷
神と等しくあることを捨て難きことと思わず、私たちのために貧しく成り下り給いし主よ。かほどに大いなる御仁慈が私の心に深く触れざるを悲しむ。げに親の心を知らざる不良児なる私を憐み給いて、少しにてもあなたの愛を覚える者と為し給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著318頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌149https://www.youtube.com/watch?v=LF2VXECjlvQ 

以下は、「人の子の訪れ」と題するクレッツマンの『聖書の黙想』の引用の昨日の続きの文章である。

 太陽や月や星は運行を停止し、この世界全体は破滅の渦の中に巻きこまれる。これらをその軌道や位置に保っている力が取り去られるからだ。それから、人の子が大いなる力と栄光とをもって、雲に乗って訪れる瞬間が迫る。その日は、神が全能の力ある言葉によって、天と地を造り給うた日よりも更に意味深い日となるだろう。天地創造の日には、だれもその証人となるものはいなかった。しかし、今すべての目は神を見るだろう。そしてすべての人間の永遠の運命が決まるのだ。)

2022年11月13日日曜日

いちじくの木のたとえ

鴨の群れ 時に従い 飛来せり※ 
「いちじくの木から、たとえを学びなさい。・・・そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(マルコ13・29〜30)

 『人の子が戸口まで近づいている』は『その時が戸口まで近づいている』と訳すべきであるかも知れない。いづれにしてもこれは主としてエルサレムの滅亡に関してその『時代』の人々に忠告し、来るべき患難から免れしめんとのご親切によるものである。
 ゆえに、『この時代は過ぎ去りません。』と言っておられる。しかしながら世の終末においても、何らかの兆候がいちじくの花の如くに生じてくることもふくまれている。無関心で世のことにのみ心を囚われている人にはわからないが、信仰をもって霊界に生きている人にはその前兆が示されるのである。

祈祷
人の子なる主よ、あなたが私の戸口に立たれる時、私は歓喜をもってあなたを迎えられるでしょうか。エルサレムのような終末をもってあなたが私の戸口にお立ちになる時、私たちは果たして歓呼できるでしょうか。患難と苦痛とをもってあなたが私たちに近づかれる時、喜んであなたを迎えることができる用意をさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著317頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌233https://www.youtube.com/watch?v=m8lBq-RDM5E

 以下は、昨日のクレッツマンの文章の続きの部分であるが、これは「人の子の訪れ」の各論的な論考である。以下三回に分けて転載する〈『聖書の黙想』207頁より〉

 ここで、主は、エルサレムに近づきつつある裁きの一つのしるしとして「荒らす憎むべきもの」について語られた。この点に関しては預言者ダニエルも語っているが、その時が訪れると聖なる宮は異教徒の手に落ち、犠牲を捧げることも終わりとなる。このことが起こったら、もはや、世の終わりが避け難いことを悟らねばならない。その時は、どんなことがあっても逃げ遅れたりしてはならない。所持品を取り出すひまとてないのだ。
 主は神のやさしさをもって、身重の女と乳飲み子をもつ母の、あわれな苦境に思いを寄せられた。これらの日々の悲しみと苦難は、世界の歴史上、他に比べるものもない程のもので、もし主がお選びになった子らのために、この日を縮めてくださらないとしたら耐え難いものだからである。
 ところで、にせのキリストや預言者たちが偽りの奇跡やしるしを行なって、選民をだまそうとしても、できるだけ、まどわされないように心しなければならない。時間を超越したお方の持つ預言的な洞察によって、主はここで、裁きが世界中にあまねくゆきわたる時、何が起こるかを預言された。主がこの時、語っておられる兆候は、以前に語ったある前兆ではなく、万物の終わりに関するものであった。
※古利根川にいつ鴨が来るのか心待ちにしていたら、ここ一週間の間に突如としてあらわれた。)

2022年11月12日土曜日

人の子の来臨

待ち焦がる 白鷺来たる 冬支度

「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マルコ13・24〜27)

 この世の終末に関する預言である。もちろん用語は旧約の預言者に倣って(例イザヤ13・10、エゼキエル32・7、ヨエル2・28など)劇的な修辞法を用いておられるから、これを一々文字通りに解釈するの当否は知らないが、世界には驚嘆すべき終末があることと、キリストが再臨せらるることと『選民』すなわち信者たちはことごとく彼の膝下に集められること、とを厳粛に預言し給うただけは確実である。この三つの事件の必ず起こるべきことは、『そのとき』の語が三度(※)繰り返してあるのによって明白である。

祈祷
主イエス様、願わくはそのときを速やかに来らせてください。私たちはこの世が速やかに終わらんことを願うのではありませんが、あなたがその栄光をもって速やかに来て下さることを切に願っております。仰ぎ乞い願わくば、あなたの御国が速やかに成就し、あなたの選びの民が御許に集められる時が速やかに来りますように。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著316頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌154https://www.youtube.com/watch?v=jnziXLHt5EY

※「その日には」「そのとき」「そのとき」と三度繰り返されている。いずれも時のしるしの経過を表わす。一方、いつも散歩する古利根川にもひさしぶりに鷺や鴨がやって来た。秋色深まり、いよいよ冬到来だ!

クレッツマンはその『聖書の黙想』の中でマルコ13・14〜37に31「人の子の訪れ」と題して、以下の文章を載せている。順次紹介したい。今日はその総論にあたる部分である。

 この章節を取り上げるにあたって、心にとめなければならない点が二つある。

 一つは、聖書はこれから何が起こるかということに関して、キリストご自身の言葉を載せていながら、キリストの再臨については、ただ、裁きのために訪れるという以外に、何も語っていないという点である。それから、今一つは、これらの事柄に関するキリストの言葉の中で、キリストはエルサレムの裁きと世界の裁きとを密接に関係あるものとして語っておられるという点である。事実、エルサレムとイスラエルが、最後は見捨てられるのは、世の終わりにあらゆる人々の上に訪れるべき、裁きの始まりとみなされる。

 キリストがこれ以外の機会に、これ以外の目的をもって訪れる余地があるとは考えられない。)

2022年11月11日金曜日

にせキリストとにせ預言者

「そのとき・・・にせキリスト、にせ預言者たちが現われて・・・できれば選民を惑わそうとして、不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。」(マルコ13・21〜23)

 エルサレム滅亡の前後にもユダヤ人を惑わし、暴動を起こした『にせキリスト』が起こった事実はある。しかし、大体としてはこの世が終末に近づくに従って、起こり来るものと見るのが至当であろう。

 『我はキリストなり』と自称するほどの大胆な者は今日まだ世に現われて来ない。左様な人の現われるのもあまり遠い将来ではあるまい。今のところでは、キリストの御教訓をすら改廃せんとするモダーンな神学の如きは『にせキリスト』の役割を演じ、生ぬるい教会が『にせ預言者』の役目を果たしているように思う。『だから、気をつけていなさい』と仰せられた主を仰ぎつつ、真一文字に原始福音をそのままに信じて行こう。

祈祷
主よ、私たちの周囲には『にせキリスト』『にせ預言者』が横行しております。ともすれば私たちもその流れに押し流されんと致します。どうかこれらの近代思想に動かされず、堅く福音に立たせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著315頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌5https://www.youtube.com/watch?v=fB6i4b0TMx0 )

2022年11月10日木曜日

『荒らす憎むべきもの』(下)

「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。」(マルコ13・19〜20)

 ユダヤの歴史家ヨセフスの書をひもとけば、エルサレムの滅亡は実にローマ兵の残酷と罪悪とを極度に示している。かかる暴虐の日が今少し続いたならばエルサレムは一人も生きて残らなかったであろうと言われている。しかし主イエスの預言し給うた如く『その日数を少なくしてくださった』。それは『選びの民のため』であると主は言い給う。

 ここで『選びの民』とはユダヤ人全体でなく、ユダヤ人たるキリスト者である。ソドムとゴモラの町にもし五人の正しい者があったならば神はこれを滅ぼさなかったと書いてある。少数の神を信ずる者のためにその全社会を寛大に取り扱い給う神の御恵みは尊い。私どもは少数でも我が国家のためにとりなし祈るための力が与えられている。

祈祷
天の父よ、愛する我が日の本の国を憐み給え。願わくは上にありて権を執る者、下にありてその治下に働く者、たといあなたを知らず、あなたに逆らうとも、願わくはあなたは静かに彼らの衷に働き、彼らの思想を善導し、その足を正しい道へと進ませ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著314頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌412https://www.youtube.com/watch?v=08WL-KTpd4c )

2022年11月9日水曜日

『荒らす憎むべきもの』(上)

「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。・・・ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい」(マルコ13・14〜18)

 『荒らす憎むべきもの』とは多分ローマの軍旗(※)を指したものであろう。ここにイエスが『読者はよく読み取るように』と言い給うたのは、マタイ伝によって見ると、ダニエル書9章の26、7節を読む者悟れという意味であることがわかる。

 そこにはキリストすなわち『メシヤが断たれる』ことも、エルサレムの『町と聖所を破壊する』ことも預言している。イエスは今ダニエルのこの預言は確実に成就すべきことを裏書きし給うたのである。

 かような惨事が雨と天候に悩まされる『冬』に起こっては一層みじめである。さればそのために祈るべく命じ給うた。イエスの死後エルサレムにある信者たちがこの預言を信じて、エルサレム滅亡の時に早く逃れたのは周知の事実である。

祈祷
昔エルサレムにあるあなたのしもべらを顧み給いし主よ、あなたは今も同じ慈愛をもって私を憐み、この世に来らんとする多くの危険より救い出し給えるのを感謝申し上げます。願わくはこの世の『荒らす憎むべきもの』の力より私たちを守って日々に御翼のかげに倚らせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著313頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌154https://www.youtube.com/watch?v=RP6b9jM078s  

※青木さんはこのようにローマの軍旗と言っておられる。引用者は軍隊なのかなと思ったが、「軍旗」という表現を通して「荒らす憎むべきもの」と主イエス様がおっしゃった「一者」を受け継いで敢えてそういう表現を使われたのだろう。)

2022年11月8日火曜日

迫害におけるあかし(下)

『兄弟は兄弟を死に渡し・・・また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。』(マルコ13・12、13)

 キリストを信ずる者が、親子兄弟にまで憎まれるのは昔も今も同じである。昔は文字どおりに『死に渡され』た人も多かった。今は肉体の生命を奪わるることはほとんど無いけれども、社会はキリスト者にとって便利に出来てはいない。キリストを信ずるが故に損失を被ることは多い。また何とはなしに人に憎まれ軽蔑される。

 『あなたがたはみなの者に憎まれます』との預言は真剣にキリストを信ずる者にとって、恐らく世の終わりに至るまでその成就を受け継ぐであろう。されば、いずれの時代の人でも『最後まで耐え忍ぶ』必要がある。忍耐、これは信仰を遂げんとする者に欠くべからざる学課である。

祈祷
主よ、私はすべての人に憎まれてもよろしうございます。ただあなたに愛されとうございます。自分の悪によって憎まれるのでなく、主の弟子たるが故に憎まれ軽蔑されることを喜びとする者となりとうございます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著312頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌306https://www.youtube.com/watch?v=JjwYC-DHxnI

クレッツマンは昨日の引用文に続いて、さらに次のように語る。『聖書の黙想』〈203頁〉

 〈主は苦難の中で、常に弟子たちのかたわらに立って支えてくださる〉とは言え、福音は不和を及ぼす力をももたらすだろう。私たちはそれに従うか、逆らうかいずれかに決めなければならない。かくしてしっかり結ばれた家族の絆は断ち切られ、兄は弟と、父は息子と、子供は両親と争い、死ぬ程憎み合うのは必定である。彼らは、これを主の名のゆえに耐え忍ぶことができる。主よりも、父母や息子、娘を愛そうとは、あえて望まないからだ。理由のない、不当な苦しみは忍び難い。しかし、ここに唯一、理由としてあげるべき、意味のあるものがある。それは私たちの救いということだ。

 終わりまで耐え忍ぶもののみ、救われる。来るべき日のことを心に描いたり、時をただ数えているだけでなく、終末のために備えることこそ、大切なのである。)

2022年11月7日月曜日

迫害におけるあかし(中)

『何と言おうかなどと案じるには及びません。ただそのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく聖霊です。』(マルコ13・11)

 『聖霊』の働きは主イエスが彼を信ずる者に度々約束しているところである。ことにキリストの命(めい)を奉じてキリストのために語る者には、片言隻語に至るまでも、それは聖霊の後援がある。もちろんこのお約束を盾にとって平素の研究を怠りまたは準備を否定したりする人があれば沙汰の限りである。いやしくも主を愛し主を信ずるほどの者は『主の御旨は如何にと、さとる』用意を平常に欠くはずがない。けれども、キリストの福音を伝うると称する者の中に読書のみに依頼して、祈祷の準備に怠る者がありとすれば、その人こそこのお約束を反故にする人である。聖霊は信ずる私たちの中に働く。

祈祷
昔も今も変わり給わざる主よ、あなたは昔使徒らに聖霊を与え給いし如く今も私たちに聖霊を与え給う。昔聖霊によりて彼らの中に語り給いし如く今も私たちのうちに語り給う。願わくは謙遜と祈祷とをもって常に御声を聞くことを得させ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著309頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌513https://www.youtube.com/watch?v=6BtHjtIwQpQ

クレッツマン『聖書の黙想』〈203頁〉より

 最後に、主は、この苦難の中で、常に弟子たちのかたわらに立って支えて下さることを約束された。福音の御言葉こそは最大のものであり、これは主ご自身のものにほかならない。主は弟子たちが支配者や王の前に立った時、聖霊が彼らに、時にかなった言葉を語らせてくれるように神の力によって助けてくださることを約束しているのだ。使徒たちがユダヤの最高の法廷に連れ出された時〈※〉や、あるいは、パウロがローマで最高の裁きの場に立たされた時など、いろいろの状況にあって、主の約束された言葉がいかに真実なものであったか、これは周知のことである。※使徒4章、5章参照のこと)

2022年11月6日日曜日

迫害におけるあかし(上)

『だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。』(マルコ13・9〜10 )

 この預言は先ず十二使徒の生涯において成就し、その後多くの信仰の勇者によって成就され、今は文字通り『福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられ』た。これを語り給うた当時にあっては全世界にわずか十二人しか福音を信ずる者のなかったことを思うと、イエスの予言の大胆さと、而して今日の成就の正確さに驚かざるを得ない。と同時に未だ成就されない他のみことばをも信ぜざるを得ない。エルサレム滅亡に関する部分も全く成就した。世の終末に関する部分も遠からずして成就するであろうと思われる。使徒らと同じ心をもって、彼らの事業を継続しつつ『主の時にまで及ぶ』のが私たちの任務である。

祈祷
主イエス様、あなたの選ばれたお弟子たちはあなたの道を歩んで忠実に福音の『証』を為しました。私どもは誠に不忠実であるために折角万国に伝えられた福音さえ停頓しております。どうか私どもに昔ながらの信仰と勇気とを与え、先人の跡を追わせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著309頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌322https://www.youtube.com/watch?v=BP5Huyyo-Xo 

※マルコ13章とほぼ同内容の記事がマタイ24章に記されているが、そのマタイ24章についてハーレイの聖書ハンドブックの記事〈同書396頁〉は参考になるので以下に記す。

題して「エルサレムの陥落、再臨、世の終わり」である。

 これは、宮を去られた後に、最後の説教として語られたもので、内容はエルサレムの陥落、再臨、世の終わりに関することである。ある言葉はその一つに言及し、他の言葉は他の主題に関連がある。ある箇所は非常に混同しているので、どの出来事に関するものか、見分けが困難である。イエスがそれらを混同されたのはおそらく故意にであろう。さもなければ、広範囲の講話からの抄録かもしれない。時間的に区分された二つの異なった出来事がイエスの心にあったのは明らかである。

 それは「これらのこと」〈マタイ24・34〉、「その日」〈マタイ24・36〉が示す事柄である。ある人は「この時代」〈マタイ24・34〉が民を意味し、ユダヤ民族は主が来臨なさるまで滅亡しないと言う。しかし、一般には、聖都が当時の人々の生存中に陥落することを語られたのだ、という見解をとる。一つの山の後ろに他の山があると、実際には遠く離れている二つの山頂が接近して見えるものである。このようにイエスの展望の中で二つの事件が重なっていると、一つが他を予表し、実際には長期間の隔たりがあるのに同時的なことのように扱われる。ある文章は一時代に関することであろう。また、ある場合には、次に起こる事柄の「成就が始まった」ということであろう。

 エルサレムに関するイエスの預言は四十年もたたないうちに文字どおり実現した。遠くからは「雪におおわれた山のように見えた」という大理石と黄金の建築物は、七十年にローマの大軍によって完全に破壊された。ヨセフスは、エルサレムの破壊の跡がかつてだれも住んだことがない場所のように見えた、と言う。)

2022年11月5日土曜日

終末の前兆

わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、・・・多くの人を惑わすでしょう。また戦争のことや戦争のうわさを聞いても・・・方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(マルコ13・6〜8)

 キリスト御再臨の前に三つのことが起こる。一はキリストの名を冒す者が出でて多くの人を惑わすのである。換言すれば異端の跋扈である。キリストの名を借りて、原始福音にあらざる勝手なキリスト教が横行する。

 二は戦争である。闘争である。人と人、国と国、階級と階級、相争って互いに他を倒さんとする。三は地震や飢饉である。人間の罪悪は自然界までも反応してくる。自然界と人事界とはある人の考えるように切り離されたものでない。罪悪の横行に反響して天変地異が生ずる。

 この三者が御再臨の前に頻々として起こる。けれども『これらのことは、産みの苦しみの初めです』とあるから、これらの苦痛は決して無意義なものではない。因果応報でもなく、天の刑罰でもない。何ものかを産まんとする産の苦痛である。それは新しい時代を産まんとするのか。御再臨を指すのか。黙示録にある千年王国と称せられる黄金時代の出現を意味するのか。私には解らない。とにかく新しいものが生まれてくるにちがいない。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著309頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 301https://www.youtube.com/watch?v=deZswFUgx5g 日々の歌は31番

昨日に引き続いてクレッツマン『聖書の黙想』〈203頁〉より

 福音の御言葉がすべての民の間に宣べ伝えられるまでは、終末は訪れない。主はあらゆる人々に悔い改めと救いの機会をお授けになろうと、深く心を労しておられるからだ。この点について、弟子たちが思い違いをしないように、主は、福音がどんな障害に出逢わなければならないかを説き、主の名の故に忍ばねばならない迫害を預言される。この迫害は主の敵に少しも満足を与えない者であるばかりか、ただ、彼らの良心に激しい痛みを残すに過ぎないものであるが。

David Smithの『The Days of His Flesh』〈原著424頁、邦訳820頁〉も昨日に続いて、次のように述べる。

3 再臨

 時の兆候を眼前に見てイエスはユダヤ人と征服者との間の衝突の勃発するはその来るは遅からざるを看破せられた。国民はその破滅に向かって邁進している。故にその一代をさらずしてエルサレムは滅ぶべきであった。

 しかし最も恐るべきイエスの再臨の行わるる危機の何日来るべきかは事明白ではなかった。イエスは特にその時日の己にも明らかならざるを宣言された〈ヨハネ5・20、30〉。その在世の日にはイエスはただ信仰によりて歩まれたのであって、ことごとくを感知せられたのではない、天の父が示されたことのみを悟られたに過ぎないのであった。『ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます』〈マタイ24・36、マルコ13・32〉。

 しかしこの最大成就〈great consummation〉は悠遠な未来であって、教会は長くこれを待たねばならないことを使徒たちに確証せられた。『戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません』『これらのことは、産みの苦しみの初めです』『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます』と。)

2022年11月4日金曜日

宮の破壊(下)

『「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう・・・。」そこでイエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」』(マルコ13・4〜5)

 これからエルサレムの滅亡と世界の終末に関するイエスの預言が13章の終わりまでに書いてある。不信なる批評家は口を揃えて、この預言はエルサレム滅亡後に弟子らが捏造したものに相違ないと言う。あまりによく成就したからである。

 しかし注意して読む者にとってはこの預言はあまりに漠然としている。世界の終末とエルサレムの滅亡とがゴッチャになっている。これによって捏造説は成り立たなくなっている。私は神の智と識の富は深いかなと言いたい。

 私どもが読んで不明に思われる点がかえって捏造説など不信仰の言を反駁することになっている。もちろんイエスにとって左様なことは問題でない。斯く盛んなるエルサレムの滅亡を預言して当時の人の反省を促し給うたと同時に、今日の盛なる世界の終末を預言して私たちの反省を促し給うのである。

祈祷
主イエス様、私どもは昔のエルサレム人と同じく、容易に真実な問題に目が開きません。この天と地とさえも過ぎ去る時のあることなど考えられません。どうか眼前のことにのみ目のくらむ私どもを憐んで、この世のことに『惑わされないよう』にお導き下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著308頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 330https://www.youtube.com/watch?v=6cAVECCKssE

クレッツマン『聖書の黙想』〈202頁〉は、昨日の説明に引き続いて、次のように語る。

 しばらく後、一行は都の真向かいにあるオリーブ山の上でひと休みした。そこは、沈み行く太陽の光の中に輝く宮の美観が、一望のうちにおさめられる場所だった。ここで、ペテロやヤコブ、ヨハネ、アンデレたちは「先ほど、お話しくださったことは、いったい、いつ、みんな成しとげられるのですか」とひそかに主に尋ねた。主の語られたことは彼らの想像力にあまるものだったがあえて、その言葉を疑う勇気はなかったのである。

 おごそかに、そして深い感銘をもたらす調子で主は語られたが、それは来るべき終末の日に備えて、弟子たちが知りたがっていること、というよりもむしろ、知っておかなければならないことだった。先ず第一に、最後の日の混乱と紛糾にまぎれこみ、自らキリストであると称して人を惑わす者どもに注意するよう主は警告される。戦争や戦争のうわさも、手始めに、やって来るだろう。民や国はたがいに、敵対して、立ち上がり、世は限りない争いの巷と化するだろう。あちこちに起こる飢饉や地震は、来るべき終末を象徴し、また、それを促すものである。これらは彼らの不安と苦悩のほんのいとぐちに過ぎない。

David Smithの『The Days of His Flesh』〈原著422頁、邦訳815頁〉も昨日に続いて、次のように述べる。

2 未来の事件

 これ誠に驚くべき宣言である。イエスがオリーブ山の隠れ家に達せられた時ペテロ、ヤコブ、ヨハネ及びアンデレの四人の弟子は離れて座し給うイエスに近く進んで、その説明を請うて『いずれの時このことあるや、またすべてこのこと成らん時は如何なるしるしある我らに告げ給え』と問うた。
 イエスはその要求を容れ給うた。時あたかも夕暮れのうちに神殿は都城とともに谷を隔てて彼方になお鮮やかに望まれたがイエスは二回の戦慄すべき危難を預言しつつ未来の事件を十二使徒に教訓せられた。一回は紀元七十年に来たるべきエルサレムの滅亡で、他はなおはるかに降って19世紀の後よりもさらに未来に属するイエスの再臨の時である。イエスがこれを授けらるる目的は決してその弟子の好奇心を満足せしめんがためではない、彼らに転じ来たるべき危急の準備を為さしめんがためであって、その艱難の日に信仰の揺るがざるためであった。
 〈エルサレムの滅亡〉
 いやしくも時の兆候を読み得るものにはエルサレムの惨状は明白な事実であって、この時代の人々が頭上に及ばんとする大災害に目覚めざるはイエスにとって不可思議の一事実であった。彼らは天の兆候を読むの明あって、時の兆候を悟り得ざるものであった。摂理の道徳的秩序は、イエスが未来を卜らせらるる基調であった。その審判の期の熟せるエルサレムは滅亡せざるベからざるものであった。その不徳の杯は今や縁を溢れていた。この都はすでに腐食せる屍に過ぎぬ。『死体のあるところには、はげたかが集まります』〈マタイ24・28、ルカ17・37〉とは歴史の上に明らかな法則である。
 メシヤに対する狂熱のすでに全土に弥漫せる際とて、その潜伏せる謀反は一挙にしてたちまちに勃発するはずであった。イエスはその国民の性質をよく知悉せられ、またローマ帝国は時を移さず、その鉄蹄の下に謀反に騒擾せる領土を蹴散らすべきをも洞観しておられた。この結果を予知せられたイエスは憂愁の情に耐えられなかった。イエスはエルサレムを熱愛せられた。イエスの聖眼にはここは大君主の聖都であって、その神殿は父の家と見えた。ここは実にイスラエル国民の信仰の中心であって、贖罪の愛の雄大な劇が演ぜられた舞台であった。イスラエルの歴史上数世紀にわたっておびただしき生徒はこの霊都のために祈祷し、努力し、また殉教の血を濯いだのであって、イエスの聖眼にこの都は懐かしくまた聖く見えたのであった。その市民の不信仰はイエスの悲しみの杯の最も苦い分子であって、彼らの災害を思わるるは、その聖意に措き難き重荷であった。イエスが十二使徒に対してこれを語らるるにあたり、熱情の波乱自ら聖胸に狂うものありしも決して不思議ではない。

 古の預言者の精神をもって、イエスは暴風霹靂〈へきれき〉、日食のただなかにユダヤ国民の落下し行くのを予想せられた。しかしそれは実際に起こる事件を厳密に描写したものとは言われない。戦争、戦争の風説、国民は国民と争い、国家は国家と闘い、地震、飢饉、疫病などは歴史上に実際に起こった事件でなく、ただ来たるべき災厄の戦慄すべき状を聴衆に意識せしめんがため想像的に描かれた預言であった。実に畏怖措く能わざる光景であって、イエスは弟子たちがこれに会して驚愕度を失わないようにあらかじめその惨状を想像して教えられたのであった。彼らは国民としてこの災害に会するのみならず、なお天国の使徒としてさらに特殊の苦痛を舐めねばならないことを警告せられた。彼らは迫害と殉教とに会しなければならなかった。而してイエスの聖名のために万人に憎まれ、その審問に際しては広く行わるる罪悪を証言する苦痛を免れることできず『多くの人たちの愛は冷たくなり〈マタイ24・12〉』を忍ばねばならなかった。詐欺者は起こり、偽預言者、偽救い主現われ、出来得べくば選ばれたる民をすら欺くに至るであろう。『だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました』〈マルコ13・23〉とイエスは仰せられた。)

2022年11月3日木曜日

宮の破壊(上)

イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはま、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(マルコ13・1〜2)

 人間は石を見る、建物を見る。神は人を見る、心を見る。『大きな建物』を見て『何とすばらしい』と驚くのは物質に圧倒された弱い人間の声である。ディオネゲスですら盥(たらい)を家として住まい、アレキサンデル大帝を嘲笑った。少しすぐれた人物は物質には驚かない。

 イエスがこの言葉を為してから四十年ならずしてこの『すばらしい』建物は滅ぼされたではないか。たといローマの軍隊が滅ぼさずとも石と木との殿堂はいつかは滅びる。賽の河原の子供のように私たちの一生を石を積んでは倒されることにのみ費やすのは愚の骨頂ではあるまいか。私たちは永遠の霊の国を欲する。

祈祷
イエス様、私どもの目はいつも『この石、この建物』ばかり見ております。「何とすばらしいでしょう』と驚きもし、羨みもします。ああどうかこの浅薄から救って常に永遠の住所を慕わせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著307頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌271https://www.youtube.com/watch?v=fWaNwo2F8KM 

クレッツマン『聖書の黙想』〈同書200頁〉は30「世の終わりは、確かに近づいた、心せよ」とマルコ13・1〜13を念頭に、題名をつけ、以下の文章を綴っている。

 あの忘れ難い日、受難週の火曜日は暮れようとしていた。これを限りに、イエスは旧約によって選ばれた民の代表である人々を前にして、訪れの時は終わりに来たこと、そして、敵方でさえもご自身を王として歓迎しなければならなくなる日がいずれ来ることをはっきりと告げられた。

 その日、イエスは主の名によって訪れるだろう。これに続いて演じられる大ドラマは世界歴史の舞台の上で、終局の幕を開くだろう。

 弟子たちは主がいろいろと警告や、不吉な預言などを口にされたのを聞いて、いくらか気色をそがれたに違いないが、これらのことが、すべて実際に起こるようになるとは思いおよばなかった。由緒あるイスラエルの民として、彼らはまず何よりも、その宮を誇りとしていた。これは四十年以上も前にヘロデが再建に着手したもので、古代世界の驚異の一つだったのである。彼らは宮の門から出て行こうとすると、一行の中の一人が、大きな建物とその石に目をとめて、主の注意を促した。これは歴史家ヨセファスの説によると、約40フィートに14フィートもあるものだったと言う。

 ここで主は簡潔に、しかも、はっきりと、弟子たちに教えて、これらの石の中で、来るべき大破壊の日に、他の石の上に残るものは一つとしてあるまいと語られた。

一方、David Smithの『The Days of His Flesh』〈原著422頁、邦訳815頁〉は第44章 未来についての教訓 と題して次のように述べる。

1 オリーブ山へ隠退
 夕日は沈んでイエスは十二使徒とともに都を退いてオリーブ山に赴かれた。その神殿を出でんとせらるるに当たって弟子が、建築の壮大なことを讃嘆した。実に北部の野人どもにとってこの壮麗なことは驚くべきものであったろう。ヘロデ王がその王都を再興するに当たってゼルバベルの由緒ある神殿が、周囲の市街と等しく荒廃しているのを見るや、この敏捷なエドム人は〈ヘロではエドム出身〉その臣下の甘心を買わんと欲して壮麗な様式にこの神殿を再建した。これ実に目も醒むばかりの大建築であって、技術の粋を集め、ヘロデ再建の神殿を見ざるものは美麗なる建築を見たりと言うを得ずとのラビの諺に背かないものであった。

〈神殿の壮麗〉

 材料は大理石を用い、中には一個よく45キュビトの長さと高さ5キュビト、幅6キュビトとを有するものがあって、黄金をもってこれを連ねた。而して懸崖の頂に築かれたので、遠方よりこれを望めば、雪を冠せる山岳の如く、早天の日光に映しては目も眩むばかり燦然と輝くのであった。『師よ、見給え、この石、この建物、如何に盛んならずや』と弟子のhとりは叫んだ。イエスはこれに答えて、『汝らこの大いなる建物を見るか、一つの石も石の上にに崩されずして、残らじ』と仰せられた。)

2022年11月2日水曜日

レプタ二枚(結)

この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12・44) 

 これ実に神に対する私たちの態度の好模範である。神に対する私たちはいつもこの心でなければならない。一切は神から与えられ、神によって守られ、生命すら神の御手によって保護されている。

 されば、朝起きたら、すぐに先ず一切を神に献げる。先ず自分の生命から、労力から時間から、今日一日の用事から、休息から、慰安に至るまで一切を神の献金箱に投げ入れるのである。今日の成功も今日の失敗も、一切を再び神の新たなる恩賜としてこれを受け取るのである。

 逆境よし、順境もまた可なり、私の敵も私の味方も、如何なる事件の突発もすでに献げた今日の出来事として神の御手から受け取るのである。もちろん時々刻々に感謝と祈祷との手を差し出して。

祈祷
天の父よ、願わくは、私どもにこのやもめの心を与えて下さい。彼女のようにすべてのものを献金箱に投げ入れる心を与えて下さい。而してあなたの御手よりすべてのものとすべての人とすべてのことを受け取らせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著306頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌328https://www.youtube.com/watch?v=Wep8fvahzwc 

David Smithの『The Days of His Flesh』〈原著394頁、邦訳763頁〉より

 イエスはこの日何事をしようとも思し召されず神殿に赴かれた。神苑は群衆に埋められたが、敏活な眼光をもってこの殷賑の状を眺められるるのであった。かかる間に何人にも目に留まらなかった事件が深くイエスの同情せらるるところとなった。イエスはその好んで腰を下された賽銭箱の傍にいて、喇叭の口に献金を投げ入るる礼拝者を見守っておられた。しかるに一人のやもめが些細な献金を手に持って現れた〈マルコ12・41〜44〉ーーすなわち二レプタを彼女は持って来たのであって、二レプタは半クワドランで、デナリの十六分の一アサリンの、そのまた四分の一である。これ誠に些細の額であって、ことに富裕な礼拝者が賽銭箱に投げ入れる献金と比較すれば一層僅かに見える献金であった。

 しかしイエスの聖眼にはそれが最も多額の献金と見えた。このやもめの身の上をイエスは知っておられたことは明らかである。艱難を有するものは皆イエスによって救わるるのであって、この婦人もまたイエスがすでにエルサレムに滞在せらるる間に恩寵に浴したものでこの献金はその感謝のためであったろう。世間の値踏みから言わば誠に憐れな献物である。しかし彼女にとっては容易ならざる額であって、彼女はその所有〈もちもの〉をことごとく投げ込んだのであった。イエスは『まことに、あなたがたに告げます』と恐らく嘲り顔に見える弟子を正面に見つめて『この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたのです。』と仰せられた。

ハーレイ『聖書ハンドブック』〈424頁〉より

 やもめの献金はルカ21・1〜4にもある。学者、パリサイ人へのはげしい非難の直後であった。はげしい論争に暮れた多忙な1日の、宮におけるイエスの最後の行動であⅢ。イエスは、自分の生活費全部を献げた愛すべき老いたやもめに絶賛の辞を与えるのを惜しまなかった。これを最後としてイエスは宮を去った。)

2022年11月1日火曜日

レプタ二枚(転)

「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。」(マルコ12・43)

 この献金箱に投げ入れた金は不信仰なサドカイ人の手に入る。イエスを十字架につけた祭司大祭司らはこの金で富を得て贅沢な生活をしていた。然るにイエスはこのやもめがその生命の料(しろ)※をこの箱に投入したのを推奨している。

 何ぞ貧しき者に施さざるやと言いたい人もたくさんあるであろう。礼拝や伝道よりも社会運動や慈善事業を重しと見る人たちは必ずそう批評するであろう。このやもめ自身こそ極めて救貧を必要とするドン底の人ではないか。

 ドン底生活をする人が豪奢な生活をする祭司や、宏大な殿堂を維持するためにその全生活であるレプタ二つを献げてしまったことにイエスは矛盾だと感ぜずして、かえってその志を称賛されたのである。ここにイエスの宗教を見ることが出来る。イエスはやはり社会第一の人ではなく、神第一の人であった。

祈祷
天の父よ、私どもは社会の困窮をアモスの言ったように『パンの飢饉ではない、実に、主のことばを聞くことの飢饉である』と信じます。願わくは私どもを、また社会全体を『まず神の国を求める』者として下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著305頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌80https://www.youtube.com/watch?v=ENxrarFRrbM 

※文語訳聖書の言葉で、生活費のこと。爪に火を点〈とも〉す生活、ロシアのミサイル攻撃で、次々インフラ設備が破壊され、寒い冬に向かうウクライナの人たちの台所、生活の困難さを思うとやりきれない。しかし、一方で、預言者アモスは大変な困難の中にある人々に向かって『主のことばを聞くことの飢饉』を訴えた。『山上の垂訓』を語られたイエスはこの貧しいやもめが生活のすべてを主にゆだねた『満ち足りる心に伴う敬虔』〈1テモテ6・4〉にこそ目を留められたのではなかったか。)