『反って大ならんと思う者は汝らの僕(しもべ)となり、頭たらんと思う者は、凡ての者の奴隷となるべし』(マルコ10・44私訳)
改訳には『役者』となり『僕』となるべしとあるが、『僕』となり『奴隷』となるべしと訳した方が原文に近い。そうだ、私どもは喜んで凡ての人の愛の奴隷となるのである。愛する者のために、人は識らずして『僕』となり、『奴隷』となるものである。
親は識らずして子の僕となり、愛人は識らずして愛人の奴隷となる。我らもし神を愛するならば識らずして神の奴隷となっているはずである。我らもし隣人を愛するならば識らずして隣人の僕となっているはずである。神のために隣人のためにこれだけ尽くした、あれだけ働いた、と計算している間はまだ僕になり切ってはいない。まだ奴隷になり得ないのである。
忘れよう、忘れよう、人のために尽くしたことは忘れようではないか。我らはキリストの愛によって贖われた奴隷ではないか。奴隷が主人のために働くのは当たり前である。
祈祷
神様、どうか忘れさせて下さい。この人あの人に自分が尽くしたことがありとすれば、それを計算することを忘れさせて下さい。ただあなたから、隣人から受けた恵みを忘れないようにして下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著223頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 なお、今日の聖句は青木さんの私訳をそのまま載せた。新改訳聖書第2版の訳は「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべとなりなさい。」である。 引き続いてA.B.ブルースの『十二使徒の訓練』下巻73頁から引用させていただく。
支配したいと思う者はまず仕える者にならねばならない、という霊的国家の大原則を対照によって説明してから、イエスは次に、ご自身を模範として示すことでその教えを強調していかれた。イエスは十二弟子に、「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい」と言われて、それから忘れがたいことばを加えられた。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
このことばが、王であることを主張し、偉大な力ある御国で第一の位に着くことを望まれた、イエスによって語られたのである。この節の最後に、「そうするのは、御国を獲得するためです」という一句を心の中で補わなければならないーーそれは前後関係から明らかなために言われていないまでである。主は、ここで、謙遜の模範としてだけでなく、霊的世界において力を得る道は奉仕であるという真理を例証する方として述べられる。自分が来たのは仕えられるためではなく、かえって仕えるためであると言う時、主は全くの真実としてではなく、現在の事実のみを表現しておられるのである。全き真実は、主は最初は仕えるために来られたが、やがて彼を喜んで主と認める敬虔な人々によって仕えられるようになる、ということであった。
イエスが弟子たちの注意を向けさせたいと思われた点は、ご自分が栄冠を手にされる特別な方法についてである。イエスが実際に言われることはこうである「わたしは王であり、御国を得たいと思っています。ヤコブとヨハネが、その点では間違っていませんでした。しかし、わたしが御国を獲得するのは、世俗の君主たちが国を手に入れるのとは別の方法によるのです。彼らは世襲で王座に着くが、わたしは個人の功績で王座に着きます。彼らは生得の権利によって自分の国を確保するが、わたしは奉仕の権利によってわたしの国を確保したいと思っています。彼らはその国民を相続するが、わたしは自分のいのちを贖いの代価として与えてわたしの民を買い取ります。
支配権や国を手に入れることについてのこの新奇な計画を十二弟子がどう考えたか、そして特に、この主の決定的なことばが語られた時、どんな考えが彼らに思い浮かんだか、私たちは知るよしもない。しかしながら、彼らがそのことばを理解していなかったということは確かである。イエスの思想は余りにも深かったので、それは驚くに足りない。今日でさえ、誰がそれを完全に理解できようか。この点で、私たちはあくまで、謎に包まれてガラス越しに見ているのである。)
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