「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」(マルコ11・9〜10 )
これは詩篇百十八の二十五節から取ったもので、仮庵の祭りの時祭壇の周囲を行進しつつ叫ぶことになっている。その他の祭のときにもこの語をもって祈祷を始める習慣がある。『ホサナ』とは『今救い給え、我ら祈り奉る』との意味である。
愈々イエスが王として入城されるのを喜んだガリラヤの民衆は『今こそ』と思って斯く叫んだのである。このことは四福音書が筆を揃えて記録していることから考えるとよほど重大な意義があるに相違ない。然り実に重大である。
イエスはガリラヤの貧しき者に静かに道を説いた、十二の弟子にのみ天国の奥義を語った、片田舎の目立たぬところで奇蹟を行った。けれども十字架にかかるためには人心の動いている過越節を選んで花々しいほどに公けなエルサレム入場をなされた。イエスの死は時期と言い、場所と言い、その準備行動としての入城行進と言い、ことごとく計画的に派手やかである。ユダヤ人、ギリシヤ人、ローマ人、すなわち全世界の前で十字架にかかるためであった。
祈祷
諸王の王、諸主の主にして、なおかつ私のために十字架にかかり給いしイエス様、あなたの名をあがめ、あなたの謙遜と愛とを感謝申し上げます。願わくは、私たちをして心よりホサナを高唱し、御国の来らんためにあなたに従って行進させて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著238頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌508https://www.youtube.com/watch?v=zuy4BWJpWt0
クレッツマン『聖書の黙想』より
これらの多くは群衆熱に浮かされて、人波に押し流されていたに過ぎないが、若干の者には、これが、王の救い主について語られた預言の言葉の成就であることが判っていた。もっとも、彼らは厳しい試練を経て、その信仰が苦難のかまどで精錬されて後、初めて、聖パウロの言葉を共に口にすることができたのだが。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるのに値するものです」〈1テモテ1・15〉
今日でも、お祭り気分の中で、キリストを迎えようとする熱狂ぶりや、口だけの奉仕などでは彼を迎えるに十分ではない。これは私たちの救い主が私たちに期待したものではないのだ。イエスはこの都が訪れの時を知らず、したがって死と壊滅の運命から逃れる心もないのをご覧になって悲しまれた、という聖ルカの記録〈ルカ19・41〜44〉を私たちは忘れるわけにゆかない。主は誇り高ぶる者を救うことはできないのだ。この者たちは自ら救われようとはしないからである。
David Smith『受肉者耶蘇』より
すでに橄欖山〈註:「かんらんさん」と読むのだろうが、オリーブ山のことである〉の西部の坂を降るに及んで、彼らは大声に叫び始めた。「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。主の御名によって来る人に、祝福があるように。ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ」〈詩篇118・25〜26、詩篇148・1〉
先にエルサレムを去られるにあたって『あなたがたに告げます。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」とあなたがたが言う時まで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。』〈マタイ23・39、ルカ13・35〉と仰せられたみことばそのままに斯く現れたのであった。)
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