『さあ、これから、わたしはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして異邦人に引き渡します。すると彼らは嘲り、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。』(マルコ10・33、34)
これよりさき祭司長、パリサイ人らは議会を開いてイエスを殺す決議を為した(ヨハネ伝11章47節)。イエスはこれを知りつつ彼らの真ん中に進み行きつつあるのである。
ガリラヤからこの祭りに上って来た群衆を駈って彼らに一泡ふかせる方法もある。ギリシヤに逃れて異邦人に道を伝える方法もある。イエスはそのいずれの方法も採らない。赤手空拳で単身敵の手中に陥って行く。弟子らが驚き懼れたのも無理でない。我々も驚く。ナゼであろう。これは最初からご予定の行動なのである。
イエスの死は英雄の死ではない。殉教の死ではない。待っていた時が来たのである。モーセ以来一千数百年牛や羊によって代表されて来た過越の祭の贖罪を現実化せんがために自ら犠牲となったのである。さればパウロも『私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです』(1コリント5章7節)と言っている。
祈祷
主イエス様、あなたは罪と戦って死を選び、罪の現実を暴露し、罪は神を十字架につけなければ止まないものであることを示しなさいましたことを感謝申し上げます。而して、あなたは私の罪のために犠牲となり、一切を贖い、一切をお赦しくださいますことを感謝申し上げます。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著212頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、昨日のDavid Smithの『 the Days of His Flesh』の40章 「過越の節〈いわい〉へ上られる」1、2 の続きの記事である。
3「苦難に対する三度目の予告」
このようにその旅を続けられたが、イエスは忽ち十二人を他へ伴ってその苦難について三たび予告された。第一回にはただ有司の手に渡されて様々の苦難を受け、殺され、三日目に復活されるべきことを宣言され、第二回目にはその謀反の悲劇的特徴をこれに加えられたが、今ここではこの惨憺とした劇面をことごとく展開して示された〈マタイ16・21、マルコ8・31、ルカ9・22、マタイ17・22、23、マルコ9・31、ルカ9・44〉。すなわち受けられるべきその叛逆、その宣言、そのローマ人に嘲笑せられる恥辱、侮蔑、打撲、罵詈、十字架の刑、並びに第三日の復活をことごとく予告された。しかもこの時もまた教訓は馬耳東風をもって迎えられなさった。十二使徒の胸中は彼らが先にベタニヤにおいて目撃した奇蹟をもって溢れていた。今や長く待望した一大節は到来したと彼らは想像した。彼らの主はすでに逆転される恐れはない。必ずやその当然の栄光を表わして、メシヤ統治の即位礼を行われるに違いはないと考えた〈ルカ19・11参照〉。ゆえに彼らは困惑迷妄の間に黙々としてこの宣言を聞いたのであった。
なお、クレッツマンは『聖書の黙想』でマルコの福音書10・32〜52を視野に『十字架による救い、奉仕の中の偉大さ、信仰による癒し』と表題を挙げ、先ず総まとめの文として次のように書き記している。
ここでは、三つの重要な教訓が語られている。
キリストがご自身の受難と死について予告される言葉は、いよいよ明瞭で力強いものになっていった。彼はそれを恐れながらも、この世の贖いのためには、どんな犠牲を払わなければならないかをご存知になって、十字架へと進まれて行くのである。
弟子たちは今なお、地上の偉大な力の王国を夢見ている。彼らは、神の国では、偉大さというものが謙遜と奉仕によって測られねばならないという基本的な教えを学ばなければならない。さらに癒しと助けは、キリストの全能のみことばを信ずることによって訪れるのだという教訓を、バルテマイという盲人から教えられなければならないのである。
そして各論として今日のところを次のように書き留めている。
イエスはその迫り来る死について、度々、いろいろな時に予言してこられたが、この時程、はっきりと、しかも、細々とそれを語ったことはなかった。主自らが、暗に示されたことのすべてを、次第にはっきりと自覚するようになっていたのだ。そのみことばを今一度、読んで見ると、それがイエスの偉大な受難を要約しているものであることに気づくだろう。しかし、また、私たちは、イエスがその勝利と復活をも予言していることに心をとめよう。)
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