彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとうする杯を飲み、わたしの受けようとする バプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます。」と言った。(マルコ10・37〜39)
『杯』と『バプテスマ』が何か大きな苦難を指すことは明白である。ヤコブとヨハネはそのくらいの決心はして来たのである。多分非常な悪戦苦闘を経てメシヤ王国を建てるものと思っていたらしい。だからその独立戦争において主の御馬前に討死するくらいの決心で奮戦する覚悟であったのであろう。実に『雷の子』らしい覚悟である。この忠誠の心は頼もしい。
しかし最初お弟子になった時からペテロとともに特別に信用を受けていたのに、今更そのペテロをさえ蹴落とし、兄弟二人で主の両側を占領しようとしたのは余りに我欲に過ぎる。だから、主は彼らに患難の『杯を飲み』苦痛の『バプテスマを受ける』だけを許して『左右に座らせること』は請け合いなさらなかった。
結局これでいいのだ。私どもも主の栄光の分配を求める必要はない。主とともに十字架を負うことを許されれば、それだけで十分な報酬である。
祈祷
ああ主よ、私はあなたの栄光に与らんと願うこと多くして、あなたの杯を飲もうとする心が少ないです。願わくはあなたのお与えになる患難の杯と苦痛のバプテスマとを感謝して受ける者となして下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著219頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下の考察は、一昨日、昨日に接続するDavid Smithの『the Days of His Flesh』からの引用である。文中英文を併記したのは邦訳ではかえってわかりにくく思われるところである。
5「彼女の懇請」
彼女は円熟せる巧妙な手段をもってこれを遂行した。すなわち彼女は日ならずして君王になられるイエスの前に進んで、あたかもエステルがアハシュエロスの前に立った〈エステル5・1〜8〉ように懇願者の態度をもって、東洋専制君主の大風な所業に準じて、彼女の要求は何事にても応ぜられるよう未然にイエスの言質を与えられんことを祈った〈マタイ14・7、マルコ6・22〜23〉。『どんな願いですか』とイエスは彼女のわざとらしい術策を他所に見て問われたので、彼女はその胸中を訴えて『私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい』と請うた。この語はサロメの口から出たけれど、畢竟彼女は二人の子の代言者となったのみであった。
イエスは彼女に対して憤られるよりも、むしろ今なお物質的心事を有することを悲しまれつつ『あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか』〈詩篇11・6、マタイ26・39、ルカ12・50〉と問われた。彼らは心も軽々と断言して『できます』と答えた。彼らは王位に陞らんがためイエスがエルサレムに赴かれるものと想像して、何らかの争闘がなければこれを全うされないと覚悟したのであった。イエスがわたしが飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますかと問われるのはその準備の戦争に職責を尽くし得るかと彼らの勇気を問われたものと心得た。ゆえにその苦痛は如何に激烈なりとするも、勝算すでに定まれるをもって、その決意をイエスに保証したのであった。もし彼らが一週間の後に王位にあらずして十字架上に陞られることが彼らに明らかとなるならば、恐らく彼らはその右の十字架と左の十字架にかかるべき言質を提供する所以を自ら悟っては必ずはるかに異なった答弁をしたことであろう。彼らの主に対する愛慕の念より忠誠を献げたに相違ないけれども、しかし彼らは口籠もりつつ、その答弁は苦き杯を飲みその血の滴るバプテスマを耐え得る力を与え給えとの慄く祈祷となったことであろう。
6「主の約束」
イエスは彼らがその当初には意気阻喪しても、後遂に使徒として苦難に勝利を博するに至るべき、その厳かな事実を予測された。ゆえに『あなたがたはわたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません』と仰せられた。使徒たちは地上の腐敗した国家を見本として天国を描いているのであった。地上の国家においては君主の心を得るものが栄位を与えられるのである。もちろん、その栄位はこれを得ざるべからざるものである(Jesus tells them that the honors must be won. They are not gifts but rewards. )。
聖クリソストムが『試みに一名の審判官と多数の競技者が競技場に入り来たり、うちに二名の競技者は審判官に甚だ親密なる関係あり、彼に来たり、平生の厚意と友情の効をもって「私たちに冠を与えて、勝利者と宣言せよ」と迫ったと思え。審判官は彼らに対して必ず「これわたしの与えられるものではない、その努力と流汗をもって獲得する人々のために準備されたものです」と答えるだろう』と言った。
主の語は二人の心のうちに植え込まれた。而してその時には隠れていた意味が後年初めて悟られたのであった。ヨハネが『勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである』〈黙示3・21、2テモテ2・12参照〉と記した際にはこの語を思い浮かべていたのであろうか。
7「天国における偉人」
この事件はたとえがたきイエスの煩いとなった。時も時、その苦難の厳かな宣言をせられてまだ聖語も終わらないうちであった。しかもその相手は選に入れる一団中の殊に密接な圏内のものどもであった。彼らはイエスの特別な眷顧〈けんこ〉と友情とを与えられていながらも、なお不純な物質的利己的野心を包むものであった。ただにそれのみならず彼らの請願が彼らの同僚の間に憤怒を醸したのであって、イエスは深くこれを悲しまれた。ゆえにイエスは十人のものの憤慨を悟って、その周囲に彼らを呼び集め、天国の根本律法たる己を捨てるべしとの教訓を繰り返された。先の場合には幼児を彼らの間に立たしめて、彼らの典型はこれなりと教え給うたが、今は自らをその例として挙げられた〈マタイ18・1〜4 マルコ9・34〜37、ルカ9・46〜48〉。彼らにしてもし天国において大ならんことを求めばその国王たらしめよ。『異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者となりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです』と。)
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