2022年8月17日水曜日

バルテマイ(イエスは佇まれた)

すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。(マルコ10・49)

 ついに彼の絶叫がイエスの耳に達した。その時イエスは立ち止まられたのである。これは祈りについての良き教訓ではあるまいか。天地の主なる神も私たちの祈りに応えるためには『立ち止まり』なさる。

 人間的に言えば為しかけた他の仕事を中止してでも私たちの祈りに耳を傾けなさる神の慈愛がイエスの行動において象徴されてはいないだろうか。最初の叫びが答えられずとも、気を落とさずして叫ぶのである。忍耐と謙遜との試験が済んだとき主は私たちのために立ち止まってくださる。

 私たちは時には神様がツンボになったのではないかと感ぜられるほど祈りが答えられない苦い経験をさせられることもある。その時こそこの盲人の叫びを思い出すべきではないだろうか。

祈祷
主イエス様、私にバルテマイのような信仰を与えて下さい。彼のように熱心に彼のように謙遜に彼のように忍耐深い祈りを与えて下さい。答えられるぬときも祈ることを止めないで、祈ってひるまない忍耐を与えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著229頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌540 https://www.youtube.com/watch?v=uBqenoHTwWw

以下は、引き続いて、David Smithの『the Days of His Flesh』による青木さんの引用聖句の叙述である。

 イエスは佇〈たたず〉まれた。もちろん座っている人でも癒されることは出来たけれども、なおイエスは一層深く関係を彼と結ばんとして『あの人を呼んで来なさい』と命ぜられたので、傍の人々は彼を叱るのをやめて『心配しないで良い』と言い、『さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている』と彼に伝えた。

※以前にも書いたことがあるが、David Smithのこの本の存在を知ったのは10年ほど前、古書バザーで『受肉者耶蘇』下巻〈日高善一訳1923年5月刊行〉を100円で手にしたのが始めである。しかし、それ以前に、それに遡ること7、8年前オズワルド・チェンバーズの伝記〈英文〉を翻訳しながら読んでいた時、チェンバーズが日本への渡航中、船内で何冊かの本を携行し読んでいたことが書いてあり、そのうちの一冊にDavid Smithの『the Days of His Flesh』があったことを覚えていた。その時、私はその本の題名を『肉にある日々』と訳して特にそれ以上気には留めていなかった。ところが、それがとんでもない誤訳であることを今回このブログで『受肉者耶蘇』を度々援用して知った。それはこの古色蒼然とした100年前に『受肉者耶蘇』と日高さんが邦訳された書物の原名こそ『the Days of His Flesh』であったからである。言うまでもないが、私はうかつにも当時各名詞の大文字の存在に気がついていなかったのであった。そのことに気づいてから、この『the Days of His Flesh』の一文一文が私にとって欠かせない存在になった。したがって、こんなに短い文章でも私にとっては滋味に満ちた表現に映って仕方がない。それはまさに福音書こそイエス様の地上での御生活の日々の証言であることを覚え、David Smithが克明にその足跡を辿っているのが良くわかるからだ。)

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