2022年8月15日月曜日

バルテマイ(霊の目の開かれていた盲人)

テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが道ばたにすわっていた。ところがナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。(マルコ10・47)

 この盲人は不思議に目の開けた人であった。目のあいている群衆がただ『ナザレのイエス』を見ている時に、この盲人の乞食は『ダビデの子イエス』を見たのである。盲人で、乞食だと言えば、申し分のない落伍者である。しかるに彼にはナザレのイエスをダビデの子すなわちメシヤである救い主であると直覚するだけの心眼が開けていた。

 思うに彼は肉体上の苦痛のために、旧約書に預言されたメシヤの祝福をよりよく理解するに至ったものであろう。苦痛の効用と言ったらおかしく聞こえるであろうが、世の中に多くの苦痛は招かずして来るのであるから、これに対して用意さえできれば、禍を転じて福とすることができる。私どもは肉体的の苦痛や逆境に出会うごとにこのバルテマイの如く、霊眼が開かれるためにこれを善用したいものである。

祈祷
天の父なる神様、苦痛の多いこの世にあって、私たちはいたずらにこれを嘆くことなく、かえってこれによって霊魂の目が開かれるものとならせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著227頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌339 https://www.youtube.com/watch?v=3vdkaZ39JEE

以下は、昨日の the Days of His Flesh の続きである。

 その路傍に座って施しを乞うているバルテマイと称する盲者〈めしい〉が叫んだのであった。これ格好な位置であって、ことに巡礼の団体が諸方の町村からエルサレムに赴く途上、町に続々入って来る季節。乞食には有望であった。彼は多人数の足音と喧騒の声を聞きその訳を尋ねて、始めてナザレのイエスが通過せられることを知った。その名を聞くや、彼の胸中には施しに勝れる幸福な希望が迸〈ほとばし〉り起こって、力限りに『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください』と叫んだ。平民が好んで用いたこのメシヤに対する称号をイエスに奉ったのは殊勝である。・・・)

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