彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。(マルコ10・49)
隣人は愛さねばならない、尊敬しなければならない、快く交際しなければならない。けれども世間の思惑とか、世間の褒貶(ほうへん)とか、言ったようなものをあまり気にするには当たらない。自分に信ずるところのない人は世間というものに追従して行かねば、行く道がないかもしれないが、自分に信ずるところのある人は浅薄な世評に心を動かす必要はないのである。世評などというものは猫の目のように変わるものであるから、これを押し切って行くだけの自信がなければ何事をも為し得るものではない。
一瞬間前にバルテマイを『黙らせようとたしなめた』群衆は手のひらを翻(ひるがえ)すがごとく彼に『心配しないでよい』などと慰めている。何と言われても、悪評をあびせられても、成功して見るがいい。世間は追従して来る。没義道なことをして成功する人を見るごとに、私たちの信仰生活にあれだけの勇気さえないのか知らん、と自ら嘆息する。
祈祷
神様、世人がこの世の富のために、この世の成功のために、ささげるだけの努力を信仰の生活のためにささげることのできない私どもをあわれんで下さい。彼らの半分の勇気と努力とがありましたならば、世間の障害など容易に乗り越えて進むことができると存じます。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著230頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌294 https://www.youtube.com/watch?v=WFZBClhK1tE
クレッツマンの『聖書の黙想』を覗いてみよう。彼は次のように描く。
一行は今、エリコへ入っていくところだった。ここで主は二人の盲人を癒された〈マタイ20・30参照〉。マルコはこの二人の中、一人の名だけあげているが、それはバルテマイといって、道端に座って、物乞いをしている者だった。イエスとその弟子たちの一行に、沢山の群衆が従うざわめきに気づいて、この乞食は熱心に恵みを求め、主の名を呼んだ。彼はすでにイエスのことをはっきり耳にしており、約束された救い主として、主を知るようになっていたからだ。この男は、くじけることなく呼び続けたという点で、私たちにとって、一つの模範となる。
※クレッツマンについてはhttps://en.wikipedia.org/wiki/O._P._Kretzmann で1901年生まれ、1975年召天のルター派の牧師などであったことがわかる。彼の著書で邦訳されているものは『聖書の黙想』の他に『十字架をめぐる人々ーー受難と復活の瞑想ーー』があるが、その中で彼は説教について次のように語っている。同書序文より
説教者は、説教がその生活と活動の頂点であることを、忘れがちである。その結果、私たちの説教は力がすくない。私たちは死に瀕している者には、どのようにして死に瀕している者のように話したらいいかを忘れている。神の秩序の中では、語られた言葉が、救い主の生命と死の伝達機関であり、それを通して聖霊が人間の魂を呼びさまし、輝らす手段であることを忘れている。
日曜毎に、同じ会衆に、静かにしかし容赦なく永遠の中に彼らを築き上げて行くように説教する人は、真に偉大なる素質をもっているのである。日曜の朝、説教壇にのぼる時、彼は自分の牧する群れの一人一人のあらゆる問題と弱点を知っている。後ろの座席には、飲酒の習慣から抜け出ようともがいているジョンがいる。右手には、不信仰な夫を持つ、不幸なメリーがいる。うしろの隅には、悪い仲間に入りかけている、若いビルがいる。彼にとっては親しくて愛すべきこれらの人々に対して、彼は日曜毎に説教するのである。彼の仕事は、これらの人々を、少しずつ御国に近づかせることであり、その目を少しずつ、より明らかにし、その話を少しずつ、よりきよくすることである。これは容易なことではない。しかしこれは昨日も今日も明日も、光栄ある仕事であり、神の出納簿における最後の決算においては、特に報いられる仕事である。)
0 件のコメント:
コメントを投稿