こうして、イエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。(マルコ11・11)
イエスの入城は『宮』を目的としての入場であった。この神殿こそ十二歳の時初めて参拝してから今に至るまで忘れたことのない『父の家』であった。『すべてを見て回った』とあるのはイエスの宮に対する最後の御親閲である。
懐かしくもあり、呪わしくもある、この宮の事々物々を検閲なし給う。数時間前にはオリーブ山の上から見て泣いた。明日は鞭をつくってこの宮を浄めるのである。しかも本当に浄められてくれないエルサレムは四〇年の後には異邦人の兵によって刑罰を執行されねばならなかった。
夕陽西に傾いて薄暮人に迫るの頃、目に涙をたたえたイエスが、宮の隅から隅まで『すべてを見て回』られるお姿を心に浮かべて、感慨無量でない人があるだろうか。
祈祷
宮に入りてすべてを見て回られた主よ、あなたは私の心の宮を如何に見回されるでしょうか。願わくは私の全ての汚れを清め、遅くならないうちに真の悔い改めをなさせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著239頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌527https://www.youtube.com/watch?v=l042MxxZU28
クレッツマン『聖書の黙想』より
一行がキデロンの谷を抜けて、古い都の狭い通りをゆっくりと進んで行く中に、その一日がどんなにすばやく過ぎて行ったことかは容易に想像できよう。宮に至ってから主はそこで行われていた取引きーー信仰の名のもとに行われていたが、その本当の精神に反するものだったーーについて、手短かに教えを説かれたに過ぎない。パリサイ人のねたみと怒りは目にあまるものだった。程なくして、主はこの人々の手に渡されることになる。夕やみの落ちかかる頃、主は十二人の弟子と共に、ひそかにベタニヤへもどられた。
A.B.ブルース『十二使徒の訓練』〈130頁〉より
香油注ぎと過越の祭りとの間の数日を、イエスは、毎日弟子たちと連れ立ってエルサレムを訪問し、夕方にはベタニヤへ引き上げるというようにして過ごされた。この期間に、イエスは、ご自分の感情や状況に即した主題ーーすなわちユダヤ民族、わけても宗教的指導者たちの罪、エルサレムの運命、世の終わりーーで、公にも個人的にも多くのことを語られた。この最後の数日間にイエスが語られたことばは、マタイの福音書の五つの章〈21章〜25章〉を満たしているーーそれが十二弟子の心に深く印象づけられていた証拠である。
「ナザレの預言者」の臨終の証言を構成するこれらの発言の中で傑出しているのは、イエスがエルサレムの律法学者、パリサイ人を攻撃して語られた大演説である。このすさまじいまでの講話に先立って、語り手〔イエス〕と彼の敵対者との種々の出会いがあった。それらの出会いは、大きな交戦に導く予備的前哨戦のようなものであった。これらの小ぜりあいにおいて、イエスは一様に勝利を得、相手を混乱に陥れていた。
彼らはイエスに、いかなる権威が彼を神殿境内の商売人を追い払うという、そのような改革者の務めに任じたのか、と質問した。イエスは逆に、バプテスマのヨハネの宣教について問い返すことによって、また、二人の息子、農夫たち、捨てられた石のたとえを語り聞かせることによって彼らを沈黙させられた。)
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