2022年8月31日水曜日

わたしの家(上)

それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、・・・(マルコ11・15)

 この宮浄めが無花果樹を呪った朝と、枯れた朝との間に行なわれたことはすこぶる興味深い。マルコはその点を明らかにしている。神殿を浄められたのと無花果を呪ったのと同じ動機から出ていることを示す。

 神殿の浄めは無花果の奇蹟の註釈であるとも言えようし、無花果の呪われたのが、神殿の浄めの索引だとも言えよう。いづれも大審判の時を予想させる小審判である。時機に応じて小さい審判を行うのは大なる慈悲である。

 小さい審判の行なわれたことの無い家庭を見るがいい。而してその家から出て来る子供らを見るが良い。イエスは御一生涯を慈悲と憐憫とに費やし給うた。が、愈々御一生の最後が来たときに大審判の予告として小審判を行い、大いに国民を覚醒し給うた。而して永久に私たちを警醒し給う。

祈祷
主イエス様、私どもには苦しみや患難があることを感謝いたします。日々の御警醒が無かったなら、私どもは全く無反省になりまして、終わりの審判の日に赦されることの出来ぬものとなってしまうでありましょう。どうか日々の苦しみの中に御慈悲の鞭を見出して感謝する心を与えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著243頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌52https://www.youtube.com/watch?v=nbkUEhlSm4I )

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