するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(マルコ10・52)
イエスはご自身の力をもってこの盲人を癒し給うたのであるが、盲人の方から言えば信仰をもってこれを受け取ったのである。イエスの御力はいつも同じであるが、これを受け取る信仰のある人は、そうたくさんはない。イエスは常にこれを嘆かれた。
信仰のないということは他の一切の罪悪よりもイエスにとっては大なる嘆きであったことは福音書のどこを読んでも明らかである。だからこの場合においてもご自分の能力を力説なさる必要は少しもなく、信仰の大切なことをこの盲人にも、また弟子らにも十分に教える必要を感じられたのであろう。
直ちに見えるようになったとは、実にテキパキとした取引である。私たちもこのような取引のできる信仰が欲しい。『イエスの行かれる所について行った』も目の開かれた盲人としては、どんなに嬉しさに満たされつつついて行ったかが想われて、何となく私どもに暗示を与える。
祈祷
主イエス様、私にも彼のような信仰をお与え下さい。直ちに見ることができる、と言うことができるほどに鮮明な取引を為す信仰をお与え下さい。そうしてあなたに従って道を行く者とならせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著233頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌275https://www.youtube.com/watch?v=5KHXWzwaCcM
『the Days of His Flesh』の叙述
『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』とイエスの仰せられるとともに、盲〈めしい〉たる眼は開けた。而してバルテマイはその恩寵を受けた一人として讃美を献げて叫びつつ従い行く一団のうちに加わった。
『聖書の黙想』の叙述
イエスの答えは、はっきりと、しかも、力強かった。「行け、あなたの信仰があなたを救った」。このことは、今も、これから後も、永久に変わることがないだろう。キリストの恵みを信ずることは決して恥に終わらないのだ。たちまちにして、男は視力を回復し、感謝の念に満ちて、新しい師に従って行ったのである。
※このブログ記事を用意しながら、去る十三日〈土〉に御代田で洗礼を受けられた若い兄妹の証をお聞きすることができた。そこには全面的に主によって霊の眼が開かされた清々しいまでの喜びがあった。一緒に聴いていた家内は終わるや否や拍手をしていた。当方も全く同じ思いであった。おそらくバルテマイの新生への歩みもまた同じであったのだろうと思わされた。)
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