また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです。(マルコ10 ・45後半)
『贖い』の原語ルートロンは奴隷を解放するために支払う賠償金である。主は私たちを罪と悩みの奴隷たることより解放するためにご自身の生命を与え給うたのである。ある学者の言うようにパウロがこの説を造り出したのではない。ここに主ご自身のみことばがある。
これは主イエスの献身的奉仕の御一生涯の頂点(クライマックス)である。日々夜々に罪のこの世のために肉を砕き骨を削りつつ、遂に十字架の上に血を流し給うたので、これによって私たちは罪と死から全く救われたのである。
と同時にこのイエスの精神が私たちのいのちとなってくる。私たちもまた同じ道を歩まずには折られないようになってくる。このように十字架は二つの方面に作用する。私たちの罪や失敗を引き受けてくれると同時に、新しい力を供給して新しい道を歩ませてくれるのである。
祈祷
主イエス様、あなたの十字架は私たちの一切の罪を雪のように消し去り給うことを感謝申し上げます。私をして、願わくは、この恵みに感謝して、また人のために十字架を負うことを喜ぶ者となれるように聖霊を私たちにお与え下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著223頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、これまで青木さんの一日一文には必ずその日の霊想にふさわしい讃美歌が掲載されていたが、それをカットしていたが、今日からできるだけ掲載するようにする。この日は讃美歌328番である。幸い下記サイトでその曲が聞ける。開いていただきたい。 https://www.rcj.gr.jp/izumi/sanbi/sa328.html
なお、以下の長文は8/11に続く、重厚なA.B.ブルースの「十字架についての第二の教え」のフィナーレを飾る文章である。
この注目すべきことばは、神学者たちの間に多くの疑念をさしはさむ議論の的となってきた。それで、私たちは論争に終止符を打つと言えるまでには望むべくもない。そのことばの深さは今まで充分に測り知ることができなかったほどに、また今後もできないほどに深いものである。それは一つの教えを強調する例証としてそっと持ち出されたものであったが、それが語られた直接の事情をはるかに超える思想の世界を開いている。それで、私たちには解けない疑問が生じている。それでも、新約聖書に、理解し得る範囲でしかその意味を理解できないようなキリストの死についての問題は、ほとんどないと言ってよい。
まず何よりも、このことばの真正性に疑いをさしはさむ批評的学派の神学者たちには賛成しかねると言おう。どうしてある人々は、キリストを、教会の信仰における本質的要素となったこの偉大な思想の根源として認めようとしないか、不思議である。この贖いの代価としてのキリストの死の意図は、今、ここにある。それは誰に源を発するのだろうか。それを思いつくほどイエスの心は独創的でなく、誰かほかの人から出たとでも言うのだろうか。
このことばと関連して考察されなければならない、もう一つのことがらがある。それは聖晩餐の制定に当たって語られた、それと類似したことばである。ご自分の死ななければならない事実を深い感動を伴って思い巡らし始めた後、イエスの心は、その厳しい散文的な事実に詩的で神秘的な意味を与えるという働きに向けられていったのは当然だった。私たちは、差し当たってイエスのことをただ霊的天才とのみ言っておこう。彼は死と戦うことができ、死から単なる運命の性格を失わせ、それに美しさを与え、その骨格に霊的意味を持つ魅力ある制度の肉と血を与えることができた。
では、この珠玉のことばを疑問の余地のない真正なものと見ることにより、キリストは何を教えられるつもりだったのだろうか。第一に、少なくともこれは一般に、イエスがご自分のいのちを捨てる行為と、望まれた結果、すなわちその霊的主権性との間に因果関係があったことを教えている。「贖いの代価」という用語を考えないで、差し当たりこの本文になかったと仮定しても、そうした関係があることを私たちは自分で認めることができる。御国を獲得するためにイエスのとられた方法がどれほど独創的であってもーーそして、国々を獲得する他の方法、例えば、最も体裁のよい手段の相続による場合、あるいは剣による場合、あるいは最も卑劣だが、ローマ帝国末期におけるように大金での買収による場合と比べる時、その独創性は議論の余地がないーーイエスの方法は不思議なほど功を奏したことがわかる。そのことは、両者ーー十字架の死と霊魂の主権性ーーの間に関係がなければならないことを明らかにしている。
あらゆる時代の幾千、いや幾万の人々が、「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とがとこしえにあるように」という黙示録のヨハネの頌栄に、心からアーメンと唱えてきた。疑いもなく、このイエスの自己献身の結果は、彼がこのことばを私たちの前で語られた時、彼の心に存在していた。イエスがそのことばを語られた際、一つには、自己犠牲において示される神の愛の力を強調し、それが人間の心を支配することを主張し、自分がしもべの姿をとるという謙遜によってしか得られない主権性を、聖なる国の王のために勝ち取ろうと思われた。
ある人々は、この力を得ることが受肉の唯一の目的であったと主張する。私たちはその見方には同意しかねるが、受肉の目的の一つに、自己犠牲によってそのような道徳的力を手に入れることがあったと見るのにやぶさかではない。神の御子は、私たちが御子のものであることを認め、御子の奉仕に喜んで献身できるように、私たちからわがままや自己崇拝を取り除き、ご自身の愛の力によって私たちを罪の束縛から解放しようと願っておられた。
しかし、この個所には、私たちがこれまで見てきた以上のものがある。なぜなら、イエスは、多くの人のために自分のいのちを与えるだけでなく、贖いの代価として自分のいのちを与える、と言われているからである。そこで、死の事実が表されているこの言い方〔贖いの代価〕によって私たちは何を理解すべきか、という質問が生じる。さて、イエスが用いた「贖いの代価」ということばは、ある意味で旧約の用法に似ていると考えられる。そのギリシヤ語は、七十人訳において、ヘブル語コーフェルに相当する語として用いられている。その意味については色々論じられてきたが、「覆い」というのが一般的意味である。この「覆い」の概念をどのようにとるか、守護の意味にとるか、あるいは一ペニー銅貨でもう一ペニー銅貨つまり同等物を覆うように、同一面をすっぽり覆う意味にとるかは、論議されてきてまだ決着がつかない。
その問題の神学的関心はこうである。もし守護という一般的意味としてこのことばをとるなら、贖いの代価は、贖われる人物また事物と法的に等価(あるいは等量)のものとして支払われたり、受け取られたりするものではなく、恵みの問題として受け入れられる価値のあるものにすぎない。しかし、この点をわきに置いておくとして、この個所に関して私たちに関心のあることは、等価であるか否かは不確かとしても、キリストのいのちが多くの人々のいのちのために与えられ、また受け取られるという、より広い思想である。イエスは、進んで忍ばれたご自分の死を、多くの人々の魂を死から解放する手段として説明しておられる。ただ、その方法と理由は明らかにされていない。
アンセルムスの代償説〔キリストの死は神の公正と名誉のために支払われた代償であったとする説〕と精力的に戦っているドイツのある神学者〔リッチュル〕は、このイエスのことばのうちに三つの思想を見出している。第一に、贖いの代価は神に対する贈り物として支払われるもので、悪魔に対して支払われるものではない。イエスは、疑いもなく詩篇49篇における一連の思想を念頭に置いて、ご自分の使命を遂行するために、ご自分のいのちを神にささげることについて語っておられるのであり、罪や悪魔の力にご自分を服させることについて語っておられるのではない。第二に、イエスは、詩篇作者が語っているように、人間は誰も自分のためにも他人のためにも死を免れるほどの高価な贈物を神に払うことはできない、ということを予期しておられるだけでなく、自分のためにも他人のためにもそうすることができない多くの人に代わって、ご自分がその奉仕に当たることを主張しておられる。第三に、イエスは疑いもなく、人を死から贖う力のある千人に一人の代表者である一人の御使いについてエリフがヨブ記で語っていることばをも念頭に置いて、ご自分を自然的な死の運命から除かれている者として見るかぎりでは、死の運命を負っている大方の人々とご自分を区別されている。そして、ヨハネ10 ・17、18に言われているとおり、それによってご自分のいのちを神に明け渡す行為として、その死を考えておられる。
このイエスのことばからそれだけのことを汲み取ることは、不当なこじつけをしているのではない。詩篇49篇やヨブ33章と関連があるとの前提は、イスラエル人の間で成人男子の贖い金として半シェケルを払うことと関連があるのと同じく、妥当と思われる。これらの聖句に照らすなら、主のことばからこれら三つの思想を引き出すことは行き過ぎとは思われない。すなわち、贖いの代価は神に支払われること〈詩篇49・7「人は自分の身のしろ金を神に払うことはできない」〉、それは死ぬべき運命にある人々を生かすために払われること、支払われる物は千人に一人という特別な方ーー死に定められた私たちと同じ人間ではなく、自分から進んで死ぬことができる受肉した一人の御使いーーのいのちであるのでそのような目的に使われること、である。
それゆえこの主のことばは、自己犠牲の愛をもって死ぬことにより、人の子は、多くの人のうちに彼を王座に着かせるほどの感謝に満ちた献身の思いを呼び起こすという一般的な真理のほかに、さらに特別な真理を含んでいる。それは、人の子がその死によって罪の刑罰として死に定められていた多くの人を神との新しい関係に入れてくださった結果、彼らはもはや罪人ではなく神の子供であり、聖なる国の民として永遠のいのちの相続者となって王自身のいのちーー贖いの代価として支払われた半シェケルーーによって贖われたすべての特権を享受するということである。
以上の二、三の示唆は、十字架についての第二の教えで、イエスが弟子たちに伝えた自叙伝的なことばの確かな意味を示すものとして充分であろう。なお二つの意見を補足してこの章を閉じたい。ご自分が来たのは「仕えられるためではなく、かえって仕えるためである」と言われた時、イエスはご自分の死ばかりでなく、その全生涯にも言及しておられた。このことばは、イエスの全地上生涯を一言で要約している。彼の死への言及は、最高の説得力を持っている。イエスは、ご自分のいのちを贖いの代価として与えるまでに、仕えるために来られた。
それから、このことばは全きへりくだりの精神を示している一方、同時に超人間的な威厳の意識も表している。もしイエスが人間以上の方でなかったら、そのことばは謙遜どころか生意気なものであったろう。たかが大工の息子が、どうして自分のことを「仕えられるために来たのではない」などと言えようか。大工の息子なら、他人に仕える立場や仕事が当然のことだった。この言明は、神の御姿であられる方なのに進んで仕える者の姿をとり、私たちの救いのために死にまでも従われた方から語り出されたものであってのみ、理にかなった、謙遜なものなのである。)
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