2022年8月6日土曜日

弟子たちの頼み事と主の御思い(2)

イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」(マルコ10・36)

 慈愛のイエスである。ヤコブ、ヨハネの差し出がましい態度をご覧になったけれども、その厚かましい態度の中にも、イエスを愛しいつも御前に近く居りたいという真摯な心をも見通されたのであろう、一言のもとに叱り飛ばしておしまいなさらずに、静かに何を求めるのかを問われたのである。

 イエスは聡明な御方である。私どもの善の外観が如何に美しくとも不純な心の奥を見透される、と同時に私どもの悪が随分醜いものであっても、出て来るところが真剣なものであれば、それを見逃される御方ではない。

 私たちは幾分の善と幾分の悪の混合物であるが、そのいずれに向かって傾きつつあるか、その方向が大切である。イエスはこの点に重きを置かれる。ヤコブとヨハネの衷にはまだかなり不純な願望がある。けれどもイエスを愛する愛によってこの願望が純化され得ることを知っておられた。

祈祷
めぐみ深い主よ、あなたは私が欲深いことを知っておられます。しかしまた私があなたを慕っておりますこともご存知です。主よ、願わくは、私を退けられないで、私を御側に引きつけて私の心の願いを潔めてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著212頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下の文章はサロメの思いを詩的に歌ったもので、掲載する必要のないものだが、愚かな地上の母親の過たれる子への愛情を表すためにDavid Smithは思わずこの詩句を考えたのだろう。昨日の続きに位置する文章である。

 しかしその子供ほどにイエスの精神を知らざるサロメは少しの躊躇もしなかった。彼女は彼らの臆病を嘲笑したことであろう。

 『汝らが自ら包まれたる
  希望は呑まれたるか。希望は爾来眠れるか。
      自由にこれを遂げ得べきに蒼白く衰えて見るを、
      今これを醒まさざるか・・・汝らが渇望せしときの如くに、
      その実行と勇気の易わらざるを汝ら恐るるか』
   As ye were in desire?
       Was the hope drunk wherein ye dress'd yourselves?
       hath it slept since? and wakes it now, to look so green and pale
       at what it did so freely?..... Are ye afeared
       to be the same own act and valour,

彼女の助言の効なきを見て、彼女は自ら進んでイエスに近づき、彼らのためにイエスに協議すべき役に当たるの外はなかった。)

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