2022年8月16日火曜日

バルテマイ(その叫び)

そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。(マルコ10・48)

 この意気である、この熱心である、この努力である。『大ぜい』の人が何と言おうが、如何に禁止しようが『ますます叫ぶ』のである。妨害はかえって反抗力を増すのみである。一旦信じたところは必ず成し遂げねば止まぬ。如何なる妨害をも突破して前進する。

 バルテマイは乞食であったけれども、立派に成功者の素質を備えていた。だから目を開かれることに成功した。イエスは今彼の前を通過しつつある。この機会を取り逃がしては再び幸運はめぐって来ないかも知れぬという感じが、彼にこの勇気と熱心とを与えたのであろうが、すべての好機会とかいうものはかくの如きものである。

 神の恵みはいつも変わらぬなどとすまし込んで、呑気に構え込んでいる人は真剣に神を求める人ではない。成敗はこの一線にありという意気を以て霊界に突貫する人は日々に進境を見る人である。

祈祷
天の父なる神様、私どもにバルテマイのように機会をつかむ機敏さを与えて下さい。そうして彼のように、その機会をとらえてこれを離すことのない熱心と忍耐と努力とを与えて、霊界の成功者として下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著223頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌370 https://www.youtube.com/watch?v=zxTIwbUBQLU 

引き続いて、David Smithの『the Days of His Flesh』の続きを日高善一さんの訳で読む。この訳はほぼ100年前の翻訳である。100年の間に日本語表現が如何に貧弱になったかを思う。

  ベタニヤにおける奇蹟はかかることのためであった。その噂はすでに広く伝わって、イエスはメシヤに外ならずとの確信がこれに伴ったのであって、バルテマイは、人々の口にした語でエルサレムの町々に喧伝〈けんでん〉したところをただ真似て叫んだにすぎないのであった〈マタイ21・9〉。その妨害を叱責して傍の人々は彼の口を噤〈つぐ〉ましめんと試みたけれども、彼はただその声を愈々〈いよいよ〉高くするのみであった。・・・

※バルテマイの捉え方は、一見すると昨日の青木さんの見方と今日のDavid Smithの捉え方は異なるように見えるが、これまた昨日のDavid Smithの文章から引き続いて読むと必ずしもそうでないことがわかる。要するにバルテマイは「霊の目が開かれていた盲人」であった。)

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