イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。(マルコ11・14)
これは審判の声である。神は愛である。永遠に愛である。しかし、愛であるということは義しき審判をするということと決して矛盾しない。真剣そのものであり給うイエスは植物においてすら偽善を嫌い給う。
パレスチナの無花果樹は必ず、葉よりも先に果実を生ずると言う。この例を破ったこの樹は不自然な病的なものであったにちがいない。虚飾虚栄をこれ事とし、実質の欠けたるを隠蔽する生活ほどイエスの憎み給う生活はなかった。
無心の樹木ですら斯かる生存が許されないとすれば、私たち良心を有する人間がいかで免れることが出来ようぞと、これが弟子らの心に深く刻みつけられた教訓である。されば『弟子たちはこれを聞いていた』と特筆されている。私たちもこれを聞かねばならない。否、虚栄虚飾の生活を送って悔い改めないものは、いやでも聞かされる時が来る。
祈祷
畏るべき主よ、あなたはすべてのものを愛されますが、またすべてのものを義しく裁かれます。願わくは、私たちに審判の日に悔いなき者とならせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著242頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌320https://www.youtube.com/watch?v=yX2iv6q-tME )
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