イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。(マルコ11・13)
三種の無花果がある。六月末に熟すのは早熟であるが収穫が少ない。八月に熟すのが収穫もよく、また保存もできる。冬無花果というのは葉の落ちた後でも春まで樹上に残っている。だから無花果の季節ではなくとも果実を見出すことがある。イエスはそれを求めたのであった。
だがこれを呪ったのはどういうわけであるか。思うにイエスは今や愛国救民の念で一杯であった。何を見ても何に触れても『己が民』のことが念われた。葉のみ茂って一つの果もないこの無花果を見た時にも直ちにエルサレムを思うた。
祖国を思うとき、上より下に至るまで偽善で一杯になっている祖国の姿が眼前に浮かんだ、しかり、イエスは『空腹を覚えられ』た。しかし、より多く、義に飢えられた。祖国の義、祖国の救いに飢えを感じられた。せめて弟子たちの心から、偽善のパン種を徹底的に駆逐するために、この教訓的奇蹟を行なって、永久に彼らの心に印したのであろう。
祈祷
主よ、私を救って葉が茂って果実なき無花果とならせ給うことないようにしてください。たとい外形に見るべき一枚の青葉なくとも健実なる一粒を結ぶ真実の霊魂を持たせてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著241頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌216https://www.youtube.com/watch?v=meHoZ2Pfg3s)
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