2022年8月20日土曜日

バルテマイ(的確な祈りに導かれて)

そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」(マルコ10・51)

 この問答は余計なことのように見える。誰が考えても盲人の叫びは目の開かれんことを願ったに違いない。イエスほどの聡明な人が、かかる知れ切ったことを問いかけるのは余りの愚問であるように考えられる。

 しかし、これは祈祷というものを解釈する良き鍵である。全知の神は私たちの祈らぬうちから万事を知っておられる。その点から押せば祈祷は全く不要なものである。けれども祈ることによって私たち自身に祈祷の内容が明らかになってくるし、また神と問答している間に、自分対神の意識が明瞭になってくる。この二つを明らかにすることが祈祷の大切な条件である。

 主イエスはこの問答によってバルテマイの心にはっきりした信仰を意識せしめたのである。祈るときにはその内容を的確に申し述べることと、鮮明に神様を意識することが要る。

祈祷
主なるイエス様、私に鮮明な祈りをお与え下さい。独語するような、瞑想するような、雲と霧との間にあるような祈りから私を救い出して、青天に太陽を仰ぐように鮮やかにあなたを仰いで祈ることをお教えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著232頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌294 https://www.youtube.com/watch?v=WFZBClhK1tE 

『the Days of His Flesh』の叙述

 『わたしに何をして欲しいのか』とのイエスの問いに、彼は『ラボ二』と知れる限り慇懃なことばをもって答えつつ『目が見えるようになることです』と答えた。

『聖書の黙想』の叙述

 群衆がことの成り行きを理解して、この男の信仰告白に耳を傾けるように、というおはからいから、主は彼に、何をして欲しいのかとおたずねになった。そこで、この男は心の底から、こう答えた。『主よ、見えるようになることです』。

※『受肉者耶蘇』とはDavid Smithの『the Days of His Flesh』を邦訳なさった日高善一さんだが、本当によくできた著作名である。今日、日高善一さんの本を手にすることは困難だと思うが、国会図書館には彼の作品がたくさんデジタル化されている。ありがたいことだ。私が彼の存在を知ったのは『聖パウロの生涯とその書簡』というDavid Smithの著作の翻訳を通してであった。昭和2年〈1927年〉出版の装丁のキチンとした722頁に及ぶ大著はずっしりと重く実に存在感がある。惜しむらくは著者の名文に当方がついていけないところだ。何しろ文語体の訳文であり、漢語が多出するからだ。でも『受肉者耶蘇』と言い、こんな本を訳出している日高善一さんとはどんな人か興味を持たない方がおかしい。)

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