そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。・・・数党与と、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。(マルコ14・47〜50)
ヨハネ伝によるとこれはペテロであった。ルカ伝に見ると他の弟子らが『主よ。剣で撃ちましょうか』とたづねている間にペテロがやったのである。何のために持っていたのか知らぬが、弟子らの間に二本の剣があった。(ルカ22章38節)十一弟子らは二本の剣と棒ぎれとでイエスを守って戦うつもりであったらしい。
私は思う、もしイエスがこれを赦したならば彼らは勇敢に戦って数刻前に『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません』(マルコ14章31節)と言った決心を実行したであろう。
けれどもイエスが従容として捕われて行くのを見たときに、一人も残らず逃げてしまった。亜麻布を着ていたある若者は衣をつかまれて、裸で逃げたとさえ付記してある。(51せつ)一説にこれはマルコ自身であるとも言う。(亜麻布を着るのは相当の資産家である、)本当の勇気を興奮状態にある元気とはここで分かれる。
祈祷
主イエス様、願わくは私を浮き草のような興奮と消沈との交錯より救い、いかなる危険にも分別を失わず、また臆することのないあなたの勇気とあんたの思慮とを私にも分かち与えてくださいますように。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著338頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌320
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以下は、A.B.ブルースの『十二使徒の訓練』下巻所収の第23章 イスカリオテ・ユダの昨日に続く後半部である。
これは答えるのに困難な質問である。イスカリオテが犯した罪は、彼の「悪名」をとどろかせることになったが、この主題を巡ってあらゆる論議が戦わされたにもかかわらず、なおそれは神秘のベールに包まれていて説明がつかずにいる。この極悪な行為の動機を探り当てようと多くの試みがなされてきた。ある者は行為者を弁護しようとし、また、ある者はその罪を激しく攻撃した。どれも皆多かれ少なかれ推測を交えたもので、完全には満足を与えてくれない。福音書の各物語を見ても、ユダの悪事を記録するだけで、説明は加えていない。共観福音書の記者たちは、その裏切り者が祭司たちと取引をし、主を売り渡す報酬としてある金額を受け取ったことを伝えている。ヨハネは、ベタニヤにおける香油注ぎの物語で、あら捜しの好きな弟子〔ユダ〕が盗人で、自分が預かっていた会計の中から着服していた事実を述べている。
もちろん、これらの事実はイスカリオテが貪欲な者であったことを示している。強欲で貪欲な心を持った者でなければ、そのような仕事で金銭を受け取るようなことはできなかったのだが、復讐心の強い人は、その虚栄心が傷つけられたり、ある点で自分が不当に扱われたと思い込むと、報復を求めて裏切り者になるであろう。しかし、彼はそのために支払われる報酬を潔しとしないものである。財布からこそどろを働くのは、間違いなくさもしい心の証拠でもあった。おそらく、イエスの仲間の会計係であったということは、彼の心が貪欲にあこがれていたことを示すものと見なされよう。想像するに、彼が会計の財布を持ち歩いたのは、ほかの弟子たちが金銭問題に全くむとんちゃくであった一方、彼がはっきりした財務向きの素質をもっていて、進んで余った資金の管理をしたからである。ほかの弟子たちは皆、この面倒な仕事を進んで引き受けてくれる兄弟を得たことで、非常に喜んでいたであろう。彼らは、「あすのための心配は無用です」との主の教えの精神を汲み取っていたので、会計係の対立候補になろうとは誰も考えなかったに違いない。
そういうわけで、福音書記者たちは、非常にはっきりとユダを貪欲な者として描いている。しかし、彼らは、貪欲が彼の犯罪の唯一の動機であるとも、必要な動機であるとも述べていない。実際、そんなことはほとんどあり得なかった。というのは、第一に、せいぜい銀貨三十枚で自分の師を売り渡すよりも、その中味を楽にくすねられる会計係でいた方が、よい考えではなかっただろうか。
次に、その望みが蓄財であったような者が、いったい何が原因でイエスの弟子となったのであろうか。枕する所もない方に従うことは、確かに、有望な金もうけの方法ではなかった。そして最後に、彼の唯一の目的がわずかの銀貨を得ることであったと仮定すれば、裏切り者の激しい後悔をーーそれが最も聖ならざる性質のものであるとしてもーーどのように説明できるだろうか。かの有名なモールバロ公爵に起こったと言われることだが、貪欲は、輝かしい才能の持ち主を、全く、金銭ずくで働く破廉恥な人にすることがある。しかし、実際、貪欲な習慣にふけっている人が、その感化を受けて犯した罪を真剣に心に留めることはまれである。良心を麻痺させ、どんなに神聖なものであろうと、あらゆるものを金銭で自由にできると考えるのが、貪欲の本性である。ユダの胸のうちの大きく激しい変動は、どこからきたのだろうか。確かに、ユダが主を売り渡した時、彼の心に働いていた感情は、冷たく無情な金もうけ主義以外のものであった。
この問題に手こずって、ある人々は、ユダはイエスを裏切るとき、主として、内的なあつれきや被害妄想から生じる嫉妬や怨恨に動かされて行動したのだ、という説を立ててきた。この説は、ありそうもないことではない。つまずきはどこからでも容易に生じる。
ユダがガリラヤ出身ではなく、ほかの地方の出身であったという事実も、誤解を生じる元になったかもしれない。人間の共感と反感は、ほんのささいなことに左右される。親戚、同姓、あるいは同郷であることは、私たちを民族全体と結びつける大きな絆よりもはるかに強力である。宗教においても、同じことが見られる。同じ主、同じ望み、同じ霊的生活の絆は、教派や教派の慣習や意見のそれと比較すると弱い。誰が御国で一番偉いかという弟子たちの間の議論から生じたつまずきを、誰が知っていよう。誰が一番偉いとしても、少なくともガリラヤ出身ではない自分にはチャンスがないということを、カリオテの人〔ユダ〕が感じ取っていたならばどうだろう。
会計係としてのユダのけちな、金銭に細かい習性は、使徒団において反感を招く第三の原因となったであろう。彼の不正が監視を免れていたとしても、資金の割り当てられる対象よりも会計の利害に身を入れ、仲間や貧しい人々のための支出にしぶしぶ応じていた彼の性向は、間違いなく認められたであろう。
以上の省察は、ユダと仲間の弟子たちとの間にどのような悪感情が生じていたかを示している。だが、私たちが説明を求められているのは、この偽りの弟子が師に対して抱いた憎悪のことである。イエスは、ご自身を裏切った者〔ユダ〕に何かつまずかせるようなことをなさったのだろうか。そのとおり! イエスは彼を見通しておられた。それは彼をつまずかせるに充分であった。もちろん、ユダは自分が見通されていることを知っていた。人々は、どんな感情で互いに見られているかを知るようにならなければ、親密な交わりを長く続けることはできない。もし、私が一人の兄弟に不信感を抱いているなら、幾ら私がそれを隠そうとしても、彼は気づくだろう。実際、イエスはユダにわかるようにご自分の不信感を攻撃的に見せることも、故意に隠すこともなさらず、両者の間が円滑にいくように努められただろう。
ほかの弟子たちの欠点を誠意をもって矯正してこられたイエスは、この弟子に対してもその義務を果たし、彼にその悪い心や習慣を気づかせ、彼を悔い改めに導こうとされたであろう。そういう態度の効果がどうであったかは、想像に難くない。ペテロの場合、矯正は非常に健全な影響を及ぼし、彼を直ちに正しい考えに引き戻した。ユダの橋には、結果は非常に難しかった。イエスが自分のことを良く思っておられないという意識だけでも、それに公然と非難されているという恥辱感があればなおさら、隠にこもった敵意を生み、心の離間をいよいよ深めることになったであろう。っして、ついに愛は憎しみに変わり、この悔い改めない弟子は復讐心を抱き始めるに至った。
その裏切り行為が進められていく様子を見ると、ユダは悪意のある、復讐心に燃えた感情に動かされていたという考えが支持される。彼は、ユダヤ教当局者たちが獲物〔イエス〕を手に入れることのできるようにする情報を提供するだけで満足せず、自分の師を逮捕するために派遣された一隊を案内し、愛情をこめた挨拶〔口づけ〕をすることによって、彼らにイエスを指し示すことまでした。復讐心を持っている者にとって、そのような口づけは甘美なものであったろう。だがほかの気持ちでいる者にとっては、たとい裏切り者であったとしても、それは何と忌まわしいものであったろう! その挨拶は全く必要のないものであった。計略の成功に必要ではなかった。派遣された一隊はたいまつを持っていたので、ユダは彼らの背後に身を隠しながら、彼らにイエスを指し示すことができたのである。しかし、そんなやり方は、もはや不倶戴天の敵と変わった親友を満足させなかったのである。
敵意と貪欲に加えて、自衛本能がユダの動機の中に位置を占めていたかもしれない。利己的な抜け目のなさが背信を促したことであろう。この裏切り者〔ユダ〕は利口な人物で、破局が近いと考えた。彼は、誠実なほかの兄弟たちよりも事態を理解していた。この世の子らは光の子らよりも抜け目がないからである。偏見のない熱狂と愛国的希望に取りつかれていたほかの弟子たちは、時のしるしに対して盲目であった。ところが、偽りの弟子は、まさしく気高さに劣っていたがゆえに、より明敏であった。炎が目前に迫っているこの時、どうしたらよかったのか。それは、キリストの損が自分の得となるように、事態をうまく自分の利に転換するほかないだろう。もし、この卑劣極まることが、誘発されたとの口実のもとに行われるなら、かえってよいであろう!
以上の観察から、イスカリオテ・ユダの犯罪は、誰もが経験する可能性のあるものであったことを教えられる。このため、私たちが観察しただけの価値があった。というのも、その裏切り者〔ユダ〕を全く特異な人物、唯一の完全なサタン的悪の権化と考えることは望ましくないからである。むしろ、弟子たちが「まさか私のことではないでしょう」と言ったように、ユダの犯罪を私たちが心に留めて考えると、自分にも思い当たる節があるようなものと考えるべきである。「だれが自分の数々のあやまちをさとることができましょう。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。」ユダのほかにも、敵意から、あるいは利益のために、偽って気高い人物になりすまし、高尚な理想を主張してみせた多くの裏切り者がいた。その中には、ユダよりも悪質と思われる者もいる。すべての犠牲者のうちで最も好奇な方〔イエス〕を裏切ることは、彼の羨むに足らない特質であった。しかし、ユダと同じような罪を犯した多くの者は、そのことをそれほど気にもかけず、悪事を働いた後も幸福に暮らすことができたのである。
がしかし、ユダをただ一人の罪人と考えてはいけないということは私たちへの警告として重要であるが、彼の犯罪を測り知ることのできない罪悪の神秘と見なすこともまた非常に望ましい。第四福音書記者は、この光に照らして、ユダの犯罪を見るようにさせた。彼は、ユダの行為を説明するのに役立っているユダとイエスの互いの関係について、多くのことを私たちに報告できたであろう。しかし、彼はそうする道を選ばなかった。彼が裏切り者の犯罪について述べている唯一の説明は、サタンが彼を我が物にしたということである。この記者は自分の恐怖を表し、同様の恐怖を読者にも起こさせるかのように、その説明を一つの章に二度も繰り返している。そして、その印象を深くするために、ユダが出て行ったことを告げた後、それが起こったのは夜であったという暗示的なことばを添えている。「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」裏切りの用向きには格好の時であった!
ユダは出て行き、主を裏切って死に渡した。それから、彼は自殺した。十字架に伴うものが自殺であったとは、何たる悲劇であろう! 二心を持つ悪人を何と印象的に例証していることか! 幾らかでも幸福であるためには、ユダはもっと善人であるか、もっと悪人であるべきだった。もっと善良であったら、彼は罪から救い出されたことだろう。もっと邪悪であったら、そんなことになる前に苦悩を逃れていたことだろう。事実は、彼はその不名誉な行為を行うだけ邪悪であったが、その罪の重荷に耐えられないほどに善良であったのである。災なるかな、そのような者は。まことに、生まれなかった方がよかったのだ!
幸先のよさに比べて、ユダの結末は何と陰うつなものであったろう。人の子〔イエス〕の仲間、イエスの働きの目と耳の証人に選ばれ、一度は福音を宣べ伝え悪霊を追い出すことに従事した。それが今は、悪霊そのものを所有し、その忌まわしいわざに引き込まれ、ついに、摂理によって、彼自身の罪に報復する手段として用いられた。彼の生涯を見る時、人々の間のあらゆる道徳的相違を環境のせいにする説は、いかに浅薄なものであろう。ユダ以上に、立派になるのに適した環境にいた者があっただろうか。しかし、善を育てるべきであったその感化は、潜在的な悪をそそのかして活動させることにのみ役立ったのである。
ユダのような者がいつも一緒にいたことは、イエスの純粋な愛の心にとって、苦しい十字架であったに違いない。いかに忍耐強く、幾年もそれを負われたことだろう。イエスはこのことにおいて、ご自分に従う真の弟子たちの模範であり、慰めである。なかんずくこの目的のために、イエスはその十字架を負わなければならなかった。人々の贖い主は、ご自分に向かってかかとを上げる一人の仲間を持った。それは、他のすべての点におけると同様に、この点においても、ご自分の兄弟たちのようになって、彼らを助けることができるためであった。キリストの忠実なしもべたる者が、彼の愛が憎しみによって報いられたとか、彼の真実に報いるに不信をもってされたとか、あるいは、彼が偽善者ではないかと思っている者まで真のキリスト者として扱わねばならないとか、と不平を言うべきであろうか。それはつらい試練であるが、イエスを見つめて、耐え忍ぶべきである。)