2022年10月31日月曜日

レプタ二枚(承)

すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12・43、4節)

 高野山にも貧者の一灯(※)と言うのがある。神は心を見給う。人に見せんために多くを投げ入れるのは献金ではなくて、売名である。商売人の投資である。神は欺くことが出来ない。たとい自分の心は欺き得ても、神は欺くことを得ない。

 これは金銭のみに関しない。私は実に自分の商売根性に驚いている。小さい善をなすときでも、自分はこれを隠して行うから、隠れたところで誰か見てくれればいいという卑しい感じがどこかにある。

 このやもめはエライ人の見ているところでレプタ二つを投げ込むのはどんなに恥ずかしいものであったろうか。こんな場合に外見を気にする人は、むしろ何にもしないでいる。しかし彼女は外見に頓着せず富者の間に立って敢然として五厘を献げた。

祈祷
神よ、自己の無能を押し隠さんがために、小さき献げ物を恥づる虚栄心と、少しの善をも他に示さんとする偽善の心とより私を救ってください。而してこのやもめの虚心坦懐、小善を為して恥ぢず衒(てら)わない心をお与えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著303頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌328https://www.youtube.com/watch?v=Wep8fvahzwc  

クレッツマンの『聖書の黙想』〈198頁〉より

 ところで、イエスはたかぶりや利己心を伴わない、しもべとしての務めの最高のものとして、レプタ二枚を持ったやもめの実例をあげている。彼女は捧げられるものはすべて捧げ尽くした。そこには彼女の心がこめられていたからである。それは一つの礼拝であり、信仰による行ないであった。

 ダビデやソロモンは、その捧げ物の点では確かに、ともに記録にあたいするものであるが、このやもめほど、多くを捧げることはできなかった。いや、むしろ、これよりも劣るものに過ぎなかったのだ。

※「貧者の一灯」とはどこかで聞いたことがある。それは何なのか、次の話がどうも出典のようだ。https://www.salesio-gakuin.ed.jp/blog/words/torigoe/3933.html 参考のために掲げる。)

2022年10月30日日曜日

レプタ二枚(起)

秋日和 柘榴赤く 輝きぬ レプタ二枚を イエス見居たる※

それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。(マルコ112・41)

 献金箱は神殿の外庭にある。イエスは今内庭で学者らと問答をなし、まさに神殿を出でんとちょっと外庭に止まったのである。イエスと献金箱、何となく不釣り合いの感じがする。が、イエスが献金箱に興味を持たれたのは不思議でも何でもない。

 イエスさえ『あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません』と言って神に対立するほどの力を金銭において認められたのである。だからこれを神に献げることは、もし本当になし得たならば、その人はこの世に勝利した人である。

 真剣さをもって献金する人は、金銭のみでなく、全身を神に献げた人である。イエスは斯くの如き人を見出さんとして献金箱に向かい坐し給うたのであろう。

祈祷
神様、願わくは、私たちをして自ら欺かしめ給うなかれ。あなたを愛すると称して自己を愛し一切を献ぐと称して金銭をさえ惜しむ者たらしめ給うなかれ。願わくは、自分のために最も少なく費やし、御名のためと隣人のためとに最も多くを費やす者とならせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著303頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 322https://www.youtube.com/watch?v=gWajRIIdQFY 

※いつにない快晴が続く中、隣家の赤きざくろ一点は一際目立った。レプタ二枚の女性も主の目にはそのように映ったか?)

2022年10月29日土曜日

二つの悪魔、「偽善」と「傲慢」

イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(マルコ12・38〜40)

 偽善と傲慢。人の心にひそんで最も大きな害をなすものはこの二つの悪魔である。最も陥り易い罪であっても最も見出しにくく、また最も除去しにくい。刈り取ったと思っても、あとからあとからと生えてくる雑草の如く根強い。

 恐らくパリサイ人や学者らをイエスから遠ざけたのはこの二つの悪魔の業であったろう。彼らが今少し真摯になり得たならば、少なくともニコデモの如くにイエスに来たであろう。彼らが今少し謙遜であったならば、ナザレの大工とのみイエスを見下げなかったであろう。

 今日でも世人をイエスから遠ざけるのは結局この二つである。すでにイエスを信じている私たちの敵としても、この二つほど恐るべきものはあるまい。

祈祷
主イエス様、願わくは、私をして幼児の如くなし給え。願わくは、彼の如く正直に、彼の如く真剣に、また彼の如く謙遜ならせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著301頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 466https://www.youtube.com/watch?v=cKErbGkx-s4 青木さんのこの日の引用讃美歌は上記のとおり、讃美歌466だが、歌詞の内容はブログ子にとっては少なからず、引っかかるところがあった。が、YouTubeの紹介にあるように、三輪源造という同志社出身で同志社に縁の深い日本人作詞者によるものだと知り、紹介する。

以下は短文ながら、いつも通りクレッツマンの『聖書の黙想』〈197~198頁〉から引用したものである。

 主は、非常に熱をこめて、律法学者やパリサイ人に気をつけるように注意を与え、また、その高ぶりや偽善やむさぼりに心するよう警告された。深く心を揺り動かす、この御言葉のととのった記録はマタイ福音書23章に記されている。)

2022年10月28日金曜日

ダビデの子とダビデの主(下)

大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。(マルコ12・37)

 『喜んで聞いていた』のは結構なことである。イエスの御教訓はパリサイ人らと轍(わだち)を異にし、斬新で生気溌剌としている。大衆は喜んで聞いたのは当然である。けれども結局彼らは喜んだ聴衆であったに違いない。

 先の学者が『神の国から遠くない』と言われたのと一対である。彼らは喜んで聴きもするし、神の国の近くにまでやってくる。けれどもイエスの最後の提供、ご自身を神の子である救い主としての最後の提供は容易に受け入れない(※)。

 聴く者は多く、信ずる者は少ない。現代でも同じである。イエスの教訓に耳を傾ける者はたくさんあるが、イエスを救い主よ、私の神よと仰ぐ者に至っては少ない。人としてのイエスには喜んで聴くが神としてのイエスは、十字架につけんとする者の多い現代である。

祈祷
ダビデの子にしてダビデの主なる神の子イエスよ。願わくは、私に確乎たる信仰をお与えください。あなたが私たちの師であることを信ずるだけでなく、私の救い主であることを信じて、日夜あなたに頼ることを得させてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著301頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌233https://www.youtube.com/watch?v=m8lBq-RDM5E

以下の文章はクレッツマンの『聖書の黙想』〈197頁〉より〈なお、前回のクレッツマンからの引用はhttp://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/10/blog-post_16.html で読むことができるし、その続きの文章が今日のものである。〉

 イエスの勝利は決定的なものだったので、敵たちは言いぬけや、不平の言葉をやめなければならなくなった。

 ところで、イエスの方には、律法に関する人々のすべての議論よりもはるかに重要な問題で、彼らに、少し、たずねてみたいことがあった。

 キリストをどう思うか? 彼はだれの子であるか?

 「ダビデの子である」と答えるのは容易だった。しかし、ダビデがキリストを主と呼んでいるとすると、キリストは単なる人間以上のもので、真実に神にして人なるお方ではないか。これだけのことを前にして、なぜ、何も悟ろうとしないのか。

 私たちはここで、また、群衆が喜んでイエスに耳を傾けたという記事に出会う。

※日々の光10/27の夜のみことばに「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである」〈黙示録22・14〉とあった。青木さんが「近くにやってくるだけでなく、イエス様を受け入れなければ」と書いておられることと併せて心に滲みたみことばであった。) 

2022年10月27日木曜日

ダビデの子とダビデの主(中)

『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。(マルコ12・36〜37)

 現代の高等批評家がいかにこの詩篇がダビデの作であることを拒むとも、またこの詩篇が来らんとするメシヤの預言であることを否定するとも、それは小さな批評学に立て篭もった不信仰が振るうところの蟷螂の斧に過ぎない。

 パリサイ人学者など及び当時の一般民衆の中から誰一人反駁することのできなかった議論であり、またイエスご自身の人性と神性とを預言した聖霊の言葉であると信じておられたところの聖句である。すなわち一方から見れば救い主はダビデの子孫であるから人間に相違ないが、他方から見ればダビデの『私の主』と称するところのお方であり、神と座位を分かつお方であるから神に相違ない。

 イエスは斯く論じて最後にパリサイ人らの前にご自身を神として提供されたのである。決して遊戯的にパリサイ人を議論でへこますために言われたのではない。イエスはいつでも真剣であらせられる。

祈祷
主イエス様、あなたを拒む者がいかに多く現代にはびこっていることでしょうか。あなたを信ずると自称する教会の中にも、浅はかなる学問の名において、あなたを拒む者が多いのを悲しみます。願わくは、『信』私たちに与えてください。天地は過ぎゆくとも、過ぎゆくことのないあなたのみことばを緊く信じて、これに立つことができるようにしてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著300頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌339https://www.youtube.com/watch?v=3vdkaZ39JEE

※23日に吉岡兄の絵を紹介したが、作者は「アンデルセンのメルヘンからイメージしました」と寄越してくださった。それで、赤木かん子さんの「こんなアンデルセンを知っていた?」という副題のある『イブと小さいクリスティーネ』の一文を掲載させていただいた。その後、原作の邦訳〈天沼春樹訳アンデルセン童話全集第二巻235頁〉を手にした。写してみる。

「ーーきみの父さんからの手紙を読んだよ。きみがもうしぶんなく幸せに暮らしていて、そのうえ、それ以上に幸せになれることがわかった。きみの心に聞いてみればいいんだよ、クリスティーネちゃん! きみとぼくが所帯をもったら、どんなふうかをよく考えてみてごらん! ぼくの財産なんてわずかなものだよ。ぼくのことや、ぼくの気もちなんか考えないで、自分の幸福のことだけ考えればいいんだ! きみはどんな約束にもしばられてはいないんだよ。きみが、心の中でぼくと約束したことを思うのなら、ぼくのほうから、その約束はなかったんだと、きみを自由にしてあげるよ。きみが世界じゅうの幸福にめぐまれますようように、クリスティーネちゃん! 神さまが、ぼくの心をたぶんいやしてくださるだろう!」
                常に変わらぬ心からの友 イブより

 最後の一文が気に入った。そして芥川が結婚するはるか前に妻になる文さんに宛てた手紙をゆくりなくも思い出した。芥川の手紙は希望に満ちた現実の優しさ、それに対して虚構ではあるが悲しみとそれだけに終わらない未来を予感させるアンデルセンのメルヘンを想うた。)  

2022年10月26日水曜日

ダビデの子とダビデの主(上)

ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』(マルコ12・36)

 イエスはダビデが詩篇を書いた時に『聖霊によって』だと信じておられる。しかも『聖霊によって』書いたのだから、その書いたところは絶対の真理であると見ておられる。

 私たちが読んでは大した感動も受けない詩篇の第110篇もイエスの正解し給うところによれば、ダビデがメシヤである救い主が来られることを預言し、かつそれがダビデの末孫として生まれ、しかも神の位の右に坐すべきお方であることを示す証拠と見られる。

 この論法は直接にはイエスを敵としていたパリサイ人や学者らを沈黙せしむるにたる権威を持っていたと同時に、私たちにとっても大きな慰めである。

 第一に聖書の中から聖霊が私たちに語り給うとの御解釈が嬉しい。信ずる者に対して聖霊は聖書の中から神のみことばを私たちに語り給うと信じつつ聖書を読むことは実に私たちに生きた力を得させる。

祈祷
主イエス様、あなたは聖書を神のことばと信じ、信仰をもってこれを読む者に永久の真理を語る者であることをお教えくださったことを感謝申し上げます。願わくは、私たちをして価高い真珠を求める商人の如き心をもってこれを読む者とならせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著299頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌121「まぶねのなかに」https://www.youtube.com/watch?v=SA9xnC0SB0w

以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』〈原書409頁、邦訳792頁〉より引用

19 ダビデの子とダビデの主

 斯く巧妙に仕組まれ、斯く執拗に手を替え品を替えて迫った長い論戦もついに終わりを告げ、イエスは凱旋の意気をもって佇立せられた。『それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった』。この時に至るまで敵は攻勢を持し、イエスはその無尽蔵の英知を表し弁証に弁証を重ね守られたが、今や守勢から攻勢に一転せられた。

 すなわち著者の知れざる詩篇の110編に、エホバの援助によって勝利を得る『主』と詩篇作者が称しておる、ある不明の国王の、無限な勇姿を賛美した章句を引照せられた。これイスラエルの歴史の新しい時代、国王と祭司とを兼ねた『メルキゼデクの位に等しい』国王の君臨したときに著されたものである。これ詩篇に明らかに現れた意味であるが、ラビはこれに他の註解を施した。作者の不詳なるを喜ばず、彼らは万事を偉人の名の下に帰するを好んで、時にはその証拠があるものもあるけれども、全くその証拠に関係なしに詩篇の大部をダビデの作とした。彼らはこれをイスラエルのメシヤである王であるダビデが主を預言して著したものとしてダビデの詩と題した。

 彼らの註解を知らるるイエスはその反対者を敗らんがためにこれを引用せられたのである。パリサイ人に向かい、彼らの口調を藉りて『あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか』と問われた。研究を積んだ教師らには容易な問題と思われたので、彼らは言葉の下から答えて『ダビデの子です』と言った。イエスはたちまちこれを捕らえて『それでは、どうしてダビデは、御霊によって彼を「主」と呼び、「主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい」と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう』と論談された。

 これラビの論弁法の純の純なるものであって、あたかも斯くの如き神学問題は学者として彼らの学校で論争するを好んだものである。その敵の論法を斯くの如く採用せられたのは如何なる目的であったろうか。これただこれらの倨傲な人々を卑下せしめ、彼らの立脚地に立って彼らに応じ、彼ら自身の武器をもって彼らを打ち、群衆の面前において彼らを敗亡せしめらるるためであった。これ一挙にして有司たちと、群衆と、その弟子とに彼らの抱くメシヤの理想の誤謬を悟らしむる手段であった。)

2022年10月25日火曜日

神の国に入らずば意味なし

イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」(マルコ12・34)

 神の国に遠からずとも、神の国に入らねばダメである。この学者は自分を誤認していたらしい。自分はこれだけよく真理を解しているからもちろん神の国のものであると思っていたらしい。頭で神を知り、神の国の真理を知ることを以って、自分がこれを所有しているかの如く誤認することは昔の人にも今の私たちにもありがちなことである。

 特に講壇に立つ人、人を教える位置に立つ者の陥りやすい過ちである。否、講壇に立つ人のみではない。講壇から真理を聞き過ぎている私たちも大いに注意せねばならない。多くを知っている故に多くを所有している如くに誤信することは恐るべきことである。

 知ったのみでは『遠くない』にとどまって、それ以上の進歩がない。知ってこれを信じ、信じてこれを行なうに至って初めて本当に自分の所有となる。学校教育が度々実際の役に立たぬとの非難を受けるのと同じく、信仰教育も会堂以外で役に立たぬようでは価値が無い。

祈祷
神よ、私に信仰の勇気をお与え下さい。私に信仰の冒険をお与え下さい。私に信仰の飛躍をお与え下さい。あなたの国に遠くないところにとどまることなく、跳躍してあなたの懐に飛び込むことを得させて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著298頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。)   

2022年10月24日月曜日

知者であったが、勇気がなかった学者

そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。・・・どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」(マルコ12・33)

 この学者は文字だけの学者ではなかった。生きた学者であって、よくイエスの精神を解し、これに共鳴する心さえあった。もちろん最初は他の仲間の学者らと同じくイエスを陥れようと思って来たのであろうが、イエスのお答えの一つ一つがあまりに立派であるのに心惹かれて遂に共鳴をさえ感ずるに至ったのであろう。

 『全焼のいけにえや供え物』と形式とに宗教を見出していた学者としては確かに眼の開けた人であった。イエスはこの人に『あなたは神の国から遠くない』と言い給いて、今一息で神の国に入るであろうと奨励された。

 しかし惜しいかなこの学者には勇気が欠けていたようである。タルソのサウロのように立派な地位を捨ててイエスの弟子となる勇気がなかった。神の国に遠からずしてこれに入らぬ者は、この学者一人ではあるまい。

祈祷
神よ、私に信仰の勇気をお与え下さい。私に信仰の冒険をお与え下さい。私に信仰の飛躍をお与え下さい。あなたの国に遠くないところにとどまることなく、跳躍してあなたの懐に飛び込むことを得させて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著297頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。)  

2022年10月23日日曜日

神を愛し隣人を愛せよ、この二つの命令

『イヴとクリスティーヌ』吉岡賢一※
『この二つより大事な命令は、ほかにありません』(マルコ12・31)

 イエスの御一生は実にこのみことばの裏書きであった。イエスは実に身をもってこの二つの戒めを教えられた。而してついに死をもってこの実行の模範を示した。十字架は実にこの二つの戒めの実物教育である。

 イエスこそ実に『この二つより大事な命令は、ほかにありません』と断言し得る権威者である。私たちはイエスのようにこの二つを実行し得ないけれども、イエスを先達として、その導き給うがままに歩みたいと切に願うだけの信仰を与えられている。

 然り、今はただそれだけである。極めて不充分ではあるけれどもこの理想を与えられ、いつかは主イエスの御救いによって、ここに到達することができると言う望みを持たされているだけでも、大きな財産であると私は思っている。

祈祷
神様、『この二つより大事な命令』。たった二つですが実に大きいです。あまり大きくて到底私には及びもつきませんが、理想としてだけでもこれを与えてくださったことを感謝致します。毎日少しずつでも、これに向かって歩を進めさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著296頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。

※この絵に惹かれて、アンデルセン原作で赤木かん子文堀川理万子絵の『イブと小さいクリスティーネ』という作品を読んでみた。その中に次の手紙が載せられていた。

クリスティーネ
 あなたがお父さんに書いた手紙を読みました。
 あなたがあらゆる点で幸福であり、将来はさらに幸福で
 あるだろうことがわかりました。
 クリスティーネ!
 あなたがぼくといっしょになったら、どういうふうになるか
 考えてください。
 ぼくは、ほとんどなにも持っていない・・・・・。
 ぼくのことや、ぼくがどう願うかというようなことは
 気にかけないでください。
 ただ、あなたのためを考えてください。
 あなたは、ぼくに約束したわけではない。
 もし心のなかで約束したようなものだ、と
 思っていらっしゃるのなら、
 ぼくはそれを解いてあげます。
 クリスティーネ! 
 この世のあらゆる喜びがあなたの上にありますように。
              常にあなたの心からの友 イブ

心に染み入る手紙だ。)  

2022年10月22日土曜日

隣人愛(結)

 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(マルコ12・31)

 これは『あなた自身』を隣人に押し売りするのではない。自己のいいと思うことを隣人に強いるのではない。如何なる親切も好意も押し売りしてはいけない。他人の心に踏み込むのは失礼である。精神的家宅侵入罪を犯しては誰にも喜ばれない。

 これは心の持ち方を言うのである。自分と隣人を同じように見ようと言うのである。隣人の立場に立ち、隣人の心になって考えようと言うのである。パウロのいわゆる『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣く』心である。

 隣人も自分と同じく、然り全く同じく神の前に立つ者であることを、全く同じく神に愛されていることを、記憶することが大切であろう。自分を中心にしてその角度から隣人を計ることをやめて、自分が隣人の角度に立って、そこから人を見ようと言うのである。

祈祷
神様、私はどうも自分中心の立場から人を見てなりません。自分に対して快く感ずる人だけが善人であるように見えて困ります。どうか隣人の立場に立ち、隣人自身の心になって見るだけの愛と同情とを与えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著295頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、以下は、昨日に引き続き、ロイドジョンズの『山上の説教』下巻19 黄金律 からの引用で、引用文の最終頁の部分である。〈同書332頁から335頁まで〉

 こうして私たちは神から出発するようになる。いっさいのけんか、争論、問題から目を転じて、神の御顔を拝する。ご自身の安全な神聖さと全能の中にいる神、創造者としてのご自身のすべての力の中にいる神を見始める。こうして私たちは御前に自らへりくだる。神こそ、そして神のみが、ほめたたえられるのにふさわしい方である。神の目には諸国家もいなごのようであり〈イザヤ40・22〉「はかりの上のごみ」〈イザヤ40・15〉のようである。このことを知るとすぐ私たちは、どんなはなやかさも栄誉も、真に神を見る者にとっては無になってしまうことを悟り始める。そればかりではない。私たちは自分自身を罪人として見始める。自分がかつて権利をもったことを全く忘れさせられるほどに、自分を邪悪な罪人として見る。神の御前には全く権利をもたないことを確かに知る。私たちはみじめで、汚れ、醜い。これは、単に聖書の教えであるばかりではない。このことは、少しでも真の意味で神を知るに至ったすべての人々の経験によって、十分に確証されている。これは、すべての聖徒の経験である。もしあなたが自分自身を無価値な被造物として見ていないのであれば、あなたがキリスト者であるかどうかはきわめて疑わしいのである。神の御前に来て、「私はけがれている」と叫ばずにいることのできる者はだれもいない。私たちすべてはけがれている。神を知ることは私たちをちりにヘリくだらせる。そしてそこに立つとき、あなたは自分の権利、自分の威儀のことを少しも思わない。もはや自分自身を守る必要はなくなる。なぜなら、自分は何ものにも値しない者だと思うからである。

 さらにまた、神から出発することは、私たちが他の人を当然見るべきように正しく見る助けとなる。いまや私たちは人々を、私たちの権利を盗もうとし、金銭、地位、名声などを競い合って私たちを負かそうとねらっている憎いものとしては見ない。私たちは彼らを、自分自身を見るような見方で、すなわち罪と悪魔の犠牲者として、「この世の神」〈2コリント4・4〉にだまされやすい人として、神の怒りのもとにあり、よみに縛られた仲間として見る。全く新しい見方で彼らを見る。私たちは彼らを自分を見ると全く同じ見方で見るのである。私たちはともにひどい状態にある。そして私たちは、自分では何もできないのであり、こうしてともども、キリストのみもとに走り寄って、そのすばらしい恵みにあずからなければならないのである。私たちはともどもにその恵みを喜び始める。そして、それを互いに分かち合いたいと思う。このようにして黄金律は力を発揮する。私たちがどんなことでも、人々からしてほしいと望むことを人々にもすることができるのは、ただこのようにしてのみである。自己というものの束縛から解放されたことによって、自分を愛するのと同じように真に隣人を愛するようになるとき、私たちは「神の子どもたちの栄光の自由」〈ローマ8・21〉を楽しみ始めるのである。

 最後に、黄金律はもちろん次のようにも働く。私たちが神を見つめて、神ご自身についての幾分かの真理と、神との交わりに入れていただいた自分自身とを自覚するに至るとき、一つの事実に気づかずにはいられない。というのは、神は決して私たちを私たちの価値にしたがって取り扱わないという事実である。そういうことは神の方法ではない。主イエスは前の数節でそのことを語っている。「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」これが、その論証である。神は私たちの価値に応じたものをくださるんではない。神は私たちがこのような者であるにもかかわらず、ご自身のよいものを下さるのである。神は単に私たちのありのままの姿をご覧になるだけではない。もしそうだったら、私たちすべては罪を宣告されるだけである。もし神が単に私たちのありのままの姿をご覧になるだけなら、私たちはひとり残らず永久に徹底的に罪とされるばかりであろう。しかし神は、こうした私たちの外観にもかかわらず、私たちに関心をもっていて下さる。神は私たちを愛に満ちた父の目で見て下さる。神は私たちを恵みとあわれみをもって見て下さる。それゆえ神は、私たちを単にありのままの姿に応じて取り扱うのではない。恵みによって取り扱って下さるのである。

 主がこの12節の論証を今までしまっておいて、今ここで初めて、あのすばらしい祈りの教えのあとで口にしたのは、このためである。これが、私たちを取り扱う神の方法である。主は要するにこう語る。「だから、あなたも仲間に対して同様にせよ。単にいやな人、気むずかしい人、ひどい人としてのみ見てはならない。それらすべての背後にあるものを見よ」。そこで、人間を見るのに、彼らと神との関係において、永遠の存在という面から見ようではないか。このような新しい見方で、神と同じ見方で人を見ることを学ぼうではないか。要するにキリストは、「わたしがあなたを見た見方で人を見よ。そして、わたしを天からあなたのもとに来させ、あなたのためにいのちを与えるに至らせた、あのものの光に照らして見よ」と言う。そのような見方で人を見よう。そのようにした瞬間、黄金律の実行は困難ではないことに気づくであろう。なぜなら、そのときすでに、あなたは自己中心とそのすさまじい暴圧から解放され、人々を新しい目、違った見方で見ているからである。あなたはパウロとともにこう言うことができる。「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません」〈2コリント5・16〉。すべての人を霊的な見方で見る。神の御顔を拝することから出発して、やがて罪、自己、他者へと至る。こうしてここまで到達したときにのみ、私たちは律法と預言者の要約であるこの驚くべき聖句を現実に実行できるようになる。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」。私たちはキリスト・イエスにあって、この黄金律へと召し出されている。私たちは当然これを実行し、実践すべきである。そしてこれを実行するとき、私たちはこの世に対して、その諸問題の唯一の解決の道を提示しているのである。同様に、私たちはキリストのための宣教師となり、使者となっているのである。

※以上がロイドジョンズの『山上の説教』の中の19「黄金律」と題する論考である。ほぼ50年前、この書に基づく講解説教を出席していた教会で私とそんなに年端も違わない兄とも称すべき敬愛する牧師から聞いた。今回、様々なことを回想しながら〈井戸垣氏を教会に招き、「信教の自由」についてのお話などの講義をしていただいたことなど〉この井戸垣氏による邦訳をせっせと転記した。そして、後年その井戸垣氏が大変な苦闘の中で訳業を完成されたことを知るに至った。しかも彼の愛用した聖書を私は不思議な導きで今手にしている。ちなみに、彼のこの聖書には7・11の最後の部分「求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」に赤線が引かれ、8節の欄外にはギリシヤ語が几帳面な字でやはり朱書されている。あだやこの『山上の説教』をいい加減に読むまいと決心している今日この頃である。) 

2022年10月21日金曜日

隣人愛(転)

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(マルコ12・31)

 私どもは先づ『自身』を愛することを学ばなければならない。誰でも自己を愛するけれども自己を愛するの道を知っている者は少ない。ましてこれを実行する者は暁天の星であろう。幼い時に、母は私よりも、よりよく私を愛するの道を知っていた。そうして本当に私自身を愛する道へと導いてくれた。

 私に私の母の指導がなかったならば私は今日生きていなかったかも知れない。あるいはどんな堕落の道にさまよっていたかも知れない。本当に『自身のように愛する』のはむづかしいことである。人は一生かかってなおこの道を歩み得ない。

 母がよりよく知っていたように、天の父が最もよく知り給う。この父に導かれ行くのが本当に自己を愛するの道であろう。父を離れた自己の中には自己を滅ぼすものがたくさん宿っている。私は自己を愛するが故に、自己を捨てよう。自己を神の祭壇の上に献げよう。これが本当に自己を愛する道である。

祈祷
天の父よ、あなたは私の幼い頃、私に母を与えて、私以上に私を愛してくださったことを感謝申し上げます。願わくは今もあなたの聖霊を母として私の心に置き、私を愛する道を私に教えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著294頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、以下は、昨日に引き続き、ロイドジョンズの『山上の説教』下巻19 黄金律 からの引用である。〈同書328頁から332頁まで〉

 何が問題なのか。その答えは神学的であり、根本的に聖書的である。すでに見たように、しばしば、ある愚かな人々は、神学はいやだ、特に使徒パウロの神学はいやだと言ってきた。彼らは単純な福音、特に山上の説教が好きである。これは実際的で神学がはいっていないからと言う。ところがこの1節は、次の見解が、どんなに言語に絶した空虚であるかを証明している。すなわち、あなたはただ人々に教えを与えて、すべきことを命じればよい、この黄金律を掲げて見せ、彼らを知的に訓練しさえすればよい、そうすれば彼らはこれを承認し、立ち上がってこれを実践するだろう、といった見解である。これに対する回答は簡単である。すなわち、この黄金律はほとんど二千年間人類の前に差し出され続けてきた。特にこの百年間、人類の進歩のために、法制化や教育といった方法を通してできるあらゆることがなされてきた。それにもかかわらず、人類はいまだにこの黄金律には従っていないのである。

 それはなぜであろうか。まさにここで神学がはいってくる。福音が私たちに告げる第一声は、人間は罪深く、堕落しているという事実である。人間は邪悪に強く拘束され支配されているゆえに、黄金律を固守できなくなっている被造物である。福音は常にそこから出発する。神学の第一原理は、人類の堕落、人類の罪である。これを次のように言うことができる。人間が律法と預言者の要約であるこの黄金律を実行できないのは、律法に対する態度のすべてが悪いからである。彼は律法を好まない。事実、憎んでいる。「肉の(生まれながらの)』思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」〈ローマ8・7〉。したがって、こういう人々の前に律法を掲げてみても無益である。彼らは律法を憎む。律法を欲しない。もちろん彼らも、ひじかけいすに寄りかかって、人生いかにあるべきかといった抽象的な文句を聞くと、ああいい言葉だと言う。だがもし律法を彼らに当てはめようとするなら、直ちにそれを憎んで反対する。それが彼らに当てはめられるやいなや、彼らはそれをきらい、不快を感じる。

 ではなぜ彼らはそういう態度をとるのであろうか。聖書によると、私たちすべては生まれつきそうなのである。なぜなら、律法をきらう以前に、律法に対して悪い態度をとる以前に、律法の授与者である神ご自身に対する私たちの態度が悪いからである。律法は神のみこころの表現である。ある意味で神ご自身の人格、性質の表現である。しかし、人間は生まれながら神を憎む者であるゆえに、神の律法をきらう。これが、新約聖書が告げている事実である。「生まれながらの思いは神に対して反抗する」。生まれながらの人、堕落の結果としての現在の人類は、神の敵であり、神とは相いれない。彼は「この世にあって・・・神もない人」〈エペソ2・12〉である。彼は神をきらい、神と神からくるいっさいを憎む。なぜそうなのか。突きつめるとその答えは、自分自身に対する彼の態度が悪いからである。それが、すべての人が本能的に、生まれながらに、この黄金律を直ちに実行しようとしない理由なのである。

 すべてのことは「自我」の一語に集約できる。主はそのことを「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と言って表現している。だが、それこそ実に私たちのしないことであり、したくない一事なのである。私たちは誤った仕方で強く自己を愛するからである。私たちは、人々からしてほしいと望むことを人々にもそのとおりにしない。なぜなら、私たちの頭は一日中自分のことでいっぱいで、人のことに思いを向けようとなどしないからである。言い替えると、これこそ堕落の結果として罪の中にいる人間の状態なのである。人間は徹頭徹尾自己中心である。自分のこと以外は何も、だれのことも考えない。これは私の独断ではない。これは、キリスト者でない世界のすべての人について言える事実であり、単純で文字どおりの事実である。そして残念なことに、これは実にしばしば、キリスト者についてさえ、依然として事実なのである。私たちすべては本能的に自己中心である。自分がこう言われた、ああ思われたと言っては憤慨する。しかし、人もそうだということは、いっこうにわかりそうもない。それは、人のことは全然考えていないからである。私たちは一日中自分のことを考えている。私たちが神を好かないのは、神が私たちの自己中心性、つまりひとりよがりに干渉するからである。自分は独立自尊だと人間は考えたがる。ところがここに、それに挑戦する方がいる。だから人間は、生まれながらにその方をきらうのである。

 このように、人間が黄金律に従いこれを守って生活できないのは、その自己中心性という事実に原因がある。次にそこから、自己満足、自己防衛、自己関心が生じる。常に自己が前面に出る。人間はなんでも自分に都合のいいことを望むからである。突きつめると、これが労働争議におけるもめ事の真の原因ではないだろうか。すべてはそこに帰するのである。一方は、「もっともらう権利がある」と言う。他方は、「彼の取り分がふえれば、こちらの分が減る」と言う。こうして両者とも互いに反対し、けんかが起こる。どちらも自分のことばかり考えているからである。私は個々の争議に立ち入って論じようとは決して思わない。人々がもっともらう権利がある場合もこれまであった。けれども、罪と自己中心のゆえに、いつでも苦い敵意がはいってくる。もし私たちが、政治的、社会的、経済的、国家的、国際的、そのどの問題であっても、こうしたすべての問題に対する自分の態度を十分正直に分析してみさえすれば、すべてはそこに帰着することに気づくであろう。国家間にそれを見る。二国が同じことを欲する。そこで、互いに相手国を監視する。すべての国は、自国を全世界の平和の保護者、管理者としてのみ見ようとする。愛国心には常に自己本位の要素が伴う。「私の国」「私の権利」である。他の国もまた同じことを言う。私たちすべてはきわめて自己中心的であるゆえに、戦争が起こる。個人間の、社会の各階層間の、国家や国家群間の、争いや争論や不幸も結局はまさにここに帰着する。現代世界の諸問題の解決は、本質的に神学的解決である。どんな会議も、軍縮やその他いっさいのことに関するどんな提案も、罪が人間の心にあって個人、グループ、諸国家を支配しているかぎり、無に気するであろう。黄金律を実行できない理由は、ひとえに、人類の堕落と罪にあるのである。

 次にこれを積極面から見よう。どうしたらこの黄金律を実行できるか。問題は結局、どうしたら主イエスがここで言っているような態度、行動がとれるかである。それに対して福音は、神から出発せよと答える。最大の戒めは何か。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」である。第二もそれに似ている。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」〈マルコ12・30、31〉。この順序に注意しよう。隣人からではなく、神から出発しなくてはならない。個人間であっても、国家群間であっても、この世の諸関係は、私たちすべてが神から出発しないかぎり、正しくはならない。神を愛さないかぎり、自分を愛するように隣人を愛することはできない。何よりもまず初めに、神の見方をもって自分や隣人を見ないかぎり、どちらも正しく見ることはできない。これらを正しい順序でしなければならない。神から出発すべきである。私たちは神によって、神のために造られた。したがって、神との交わりの中にあってのみ、真に人間としての営みができるのである。続く)  

2022年10月20日木曜日

隣人愛(承)

次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(マルコ12・31)

 神を愛するの愛は絶対の愛でなければならない。絶対服従の精神をもって、すべてを献げる心をもって、もし自己と神との間に矛盾を見出したならば、いつでも自己を捨てる心をもって神を愛さなければならない。神を愛する心は自分を神の祭壇の上に燔祭として献げ、これを焼き尽くす心となって現れなければならない。

 しかし、隣人を愛するの愛はこれと違う。『自身のように』これを愛するのである。隣人には過失もあり、考え違いもある。これに絶対服従することは、神に反対するようになる場合も生ずる。盲目的な恋愛に欺かれた人が度々この誤謬に陥る。而して一切を献げて一人を愛することは最も神聖なことだと誤信する。これは非常な危険なことである。

 隣人を愛するのは『自身のように』の程度でよい。それすら実行がむづかしいが、理想とする所が『自身のように』であるべきものであると言うのです。私と彼は神の前に並立する。神は同じように私と彼とを愛している。だから、私も私自身と彼とを同じように愛する。

祈祷
神よ、あなたは彼を愛し、また私を愛されます。あなたが私の敵を愛されるのは、あなたが私を愛されるのと同じです。私も私の敵も等しくあなたの子であるからです。願わくは、あなたの心をもって自分を見、また隣人を見ることができるようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著293頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、以下は、昨日に引き続き、ロイドジョンズの『山上の説教』下巻19 黄金律 からの引用である。〈同書324頁から327頁まで〉

 イエス・キリストの福音は、たった今私たちが発表したばかりのその事実を基礎として、そこから始まる。すなわち、単に人々に正しい道を告げるだけでは不十分だという事実である。問題はそこにあるのではない。もっと深いところにある。主がそのことを表現している跡をたどっていこう。黄金律についての主の注釈をみよう。「これが律法であり預言者である」と主は言う。言い替えると、これが律法と預言者の要約である。これが、その全目的であり意図である。主はこのことによって何を言おうとしているのか。主はこの山上の説教において、神の律法がどんなに悲劇的に誤解されているかということに、何回も私たちの注意を喚起しようとしているが、ここもその一例なのである。おそらく主は、依然として律法の教師、民の指導者であるパリサイ人、律法学者らに目を留めている。5章で主が、「昔の人々に・・・と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います」と言いうる多くの実際例を引きつつ詳しく語って下さったことを覚えておられるだろう。そこでの主のおもな関心事は、人々に正しい律法観を与えることであった。主はここで、もう一度そのことに戻っている。私たちの問題の半分は、私たちが神の律法の意味、その真の性格、意図を理解していないという事実からきている。私たちは律法を、当然守るべき数々の規則であり規定集にほかならないと考えがちである。いつでもその精神を忘れる。律法を、機械的に守るべきもの、ばらばらで非人格的なものと考え、機械からはじき出された一連の規定であるかのように強く思っている。機械を買う。そこから規則や規定が出てくる。それを実行すればそれでいいというわけである。私たちには、いのちにかかわる神の律法を、何かそういったものとして考える傾向が多分にある。言い替えると、律法をそれ自体で存在意義をもったものと思い、こうして、私たちの義務はそれらの規定を守ることだけだと考えて、それらを守ってはずれず、行きすぎず、また足りないことがなければ、いっさいそれでいいとしてしまう危険性が絶えずある。だが、こうした考え方はことごとく全面的に誤った律法観である。

 さらにもう一歩進んで、次のように言うことが許されよう。すなわち、私たちには、律法を否定的なもの、禁止的なものと考える危険性がある。もちろん律法には否定的な面がある。だが、ここで主が強調しているのはーー5章で詳細に語られたようにーー次の事実である。すなわち、神が天使とモーセを仲介としてイスラエルの子らに与えられた律法は、きわめて積極的で霊的なものである。それは本来、決して機械的なものとして与えられたのではなかった。パリサイ人や律法学者とその追随者の全面的な誤謬は、本来霊的でいのちのあるものを機械的なものの領域に、それ自体を目的としたものに変形させてしまったところにある。現実にだれかを殺していなければ、殺人に関する律法を守っているし、肉体的に姦淫していなければ道徳面でもだいじょうぶだと彼らは思った。彼らは律法の霊的意図と性格とを、とりわけ律法が与えられた大目的や大目標を、全く見そこなうという誤りを犯していた。

 ここで主は、それらのことの全部を、この完璧な要約の中に表明している。なぜ律法は、隣人の財産、所有物、妻、その他何ものをもむさぼってはならないと命じるのか。なぜ律法は、「あなたは殺してはならない」、「あなたは盗んではならない」、「あなたは姦淫してはならない」と命じるのか。これらの戒めが言おうとしていることはなんであろうか。単にあなたや私がこれらを規則や規定として、あるいは、私たちを支配し、統制し、私たちの行動にわくを設定する国会制定法の中の小項目として支持するようにという意図であろうか。決してそういうことが目的なのではない。これらのすべての戒めの背後にある真の目的、真の精神は、私たちが自分自身のように隣人を愛すること、私たちが互いに愛し合うことなのである。

 しかし、私たちのような被造物にとっては、単に互いに愛するようにと言われただけでは不十分である。かみ砕いてもらわなければならない。堕落の結果、私たちは罪深い者である。だから、単に「互いに愛せよ」と言われただけでは不十分である。そこで主は、かみ砕いて次のように言う。すなわち、あなたが自分の生命を重んじるように、人もまた自分の生命を重んじることを忘れてはならない。そこで、もしあなたがその人に対して正しい態度をとっているなら、その人を殺すことはない。なぜなら、あなたがそうであるように、その人も自分の生命を重んじていることをあなたは知っているからである。結局いちばんたいせつなのは、その人を愛することであり、その人を理解し、自分の幸福を求めるように隣人の幸福を求めることである。これが律法であり預言者である。すべてはここに帰着する。旧約の律法にある詳細な規定すべてーーたとえば、隣人の牛が迷っているのを見つけたときに持ち主のもとに連れていく仕方、また、彼の畑でまずいことが起こりそうだと気づいたとき、すぐ彼に知らせ、できるかぎり手伝うこと、などについて言われていることーーは、単に次のように言わせるための規定ではない。「律法は、隣人の牛が迷っているのを見たらそれを返せと言っている。だから、そうしなければならない」。それは全然違う。むしろあなたが次のように自分自身に語りかけることを期待している。「この人も私と同じだ。牛を失うようなことになれば悲しいし、大きな損となる。そうだ。この人も私と同じ人間なのだ。私だったら、だれかが私の牛を返してくれたらどんなにうれしいだろうか。それなら彼にもそうしてあげよう」。つまり、あなたは隣人のことを心にかけるべきである。彼を愛し、彼を助けることを願い、彼の幸福を心にかけるべきである。律法の目的は、私たちをここに導くことにある。そして、こうした細かい規定は、その中心的大原則の具体的な例示にほかならない。それが律法の精神であり目的であるという自覚を失ったら、その瞬間から私たちは絶望的に迷い出てしまったことになる。

 このように、これが主ご自身の律法解釈である。これは、主イエスの時代に非常にたいせつであった。また、今でも非常にたいせつである。私たちは律法の精神を、神がこのように生きよと言って与えて下さった精神を、絶えず忘れるのである。

 ここで、このことを現代世界に、また私たち自身に当てはめて考えてみなければならない。人々はこの黄金律を耳にすると、驚くべきすばらしい教えだと言い、また、一つの重要で複雑な主題を完璧に要約しているとして賞賛する。だが悲劇的にも、彼らはこれを賞賛はしても実行はしない。ところが、結局律法は、本来賞賛するためにではなく、実践するために与えられたのである。主イエスが山上の説教を語ったのは、あなたや私がこれについて注釈するためではなく、これを実行するためであった。主が、これらの言葉を聞いて行なう者は岩の上に家を建てる者のようであり、「聞いてそれを行わない者」は砂の上に家を建てる者のようであると語っているのを読むとき〈7・24〜27〉、そのことが強く心に刻まれる。現代世界がまさにそれである。つまり、こうしたキリストのすばらしい言葉に感心するが、それを実践に移そうとはしない。ここから次の重大な質問が起こってくる。なぜ人々はこの黄金律を捨てるのか。なぜこれを守らないのか。なぜこれに従って生活しないのか。なぜごたごたや争いが国家間だけでなく、国内の諸階層間にもあるのか。家庭内にさえ、いや、わずかふたりの間にさえあるのか。いったいなぜ、争い、けんか、不幸などがあるのか。なぜふたりの人が互いに口もきかず、顔を合わせるのも避けるといったことを耳にするのか。なぜねたみや陰口、その他人生の真相として知られている数々のことがあるのか。続く) 

2022年10月19日水曜日

隣人愛(起)

次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(マルコ12・31)

 然り、これは第二である。第二は第二であって第一ではない。腹の減った者に宗教を説いても聞こえない、先ずパンを与えよと説く人もある。宗教は社会運動として進出しなければ時勢に遅れると考える人もある。そうかも知れない。しかし神を愛することから生じない社会運動や社会事業は根のない草である。

 神の姿の一点か一画でもよいから、これを愛する心が無いときに、隣人に対する愛の行動は純情ではあり得ない。必ず何処かに報酬を求める。それは単なる優越感の満足に止まるかも知れないが、ただそれに止まらず、多くの場合はそれ以上に不純である。隣人からの感謝を、傍人からの称賛を期待する。

 だから行動としては先づパンを与えるにしても、心の持ち方は先づ神を愛するところから始めねばならない。

祈祷
神よ、第一のものを第一とし、第二のものを第二とする思慮と分別とを私にお与えください。而して純にして清く、全く自己を忘れた愛を先づああなたに献げ、次に己のように隣人に献げることを学ばせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著292頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。ロイドジョンズの名著『山上の説教』下巻に19 黄金律 と言う記述がある。同書320頁から335頁までの部分を四日間に分けて以下引用したい。

 マタイ7・12の重要な聖句「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」は、普通、「人生と人の生き方の黄金律」と呼ばれている。これを学ぼうとするにあたり、まず注意を払わなければならないことがある。それは、構成の問題と呼べるもの、つまり、この聖句と山上の説教の他の部分との関連性についてである。この12節の冒頭で「それで」という言葉に出会う。なぜ「それで」なのか。明らかにこれは、この節が孤立した聖句ではなく、前の部分と明確な関連性があることを物語っている。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」。言い替えると、主イエスは、ここでもやはり人をさばくという主題を取り扱っているのである。ここでもまだ、その主題は終わっていない。もし7・11節を挿入句と見るなら、次のことを注意深く心に留めなければならない。つまり、それがそこに挿入されたのは、このさばきの問題のゆえに、私たちに天の父の恵みの供給が必要であることを思い起こさせるためである。このようにして主は、祝福を受ける道、互いに助け合えるようになる道、こうしてキリスト者生活を十分に実践できるようになる道を明示したのである。そしてそののちもう一度、もとの主題に戻って、「それで」と言う。「それで」、このさばきという事柄において、人間関係という問題全体において、このことを規則とせよと言っているのである。私たちは依然として、人をさばくという包括的主題を前にしている。それゆえ、この7章には明確な内的統一性があるという私たちの主張が正当となる。さらにこのことから、7・11節の祈りに関する教えについてさきにとった見方が正当化される。このように12節は、孤立した教えではなく、このさばきの問題に関して、私たちを正しい立場に導く意図をもってなされた一連の重要な論証の一部なのである。

 だが、次のように言う人があるかもしれない。「もしあなたの言うように、この節が人をさばくという主題の継続であるなら、なぜ主はこの節を6節の直後に置かなかったのか。なぜ主は祈りやその他の主題をもち出したのか。なぜむしろこう言わなかったのか。『聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい』」。

 これに対する答えは、この場合もそう困難ではない。さばきの問題全体の要約であるこの12節の聖句は、祈りに関する7・11節の簡潔な教えの光に照らして見ると、より強烈な力をもって迫ってくる。私たちは、7・11節の主の言葉によって、私たちの罪にもかかわらず神が私たちに何をしてくださったかを、また、神が私たちにどういう態度をとり、私たちをどう扱って下さっているかを思い起こさせられる。そして、そのときはじめて、この12節の勧告のすばらしい論証が、真にぴったりとくるのである。この点については、この勧告の言葉自体を詳しく学ぶ際にもう少し考えてみたい。

 したがって、私たちはここで、人をさばくという問題、私たちの人々との関係という問題全体に関する主の最後の金言を前にしているわけである。「黄金律」という呼び方が、意味をよく表わしている。これは、なんと特異な注目すべき聖句であろう。主は聖書の要所要所で、神の数々の戒めを、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」〈マタイ19・19、22・39、ローマ13・9、ガラテヤ5・14、ヤコブ2・8〉という言い方で要約しているが、この黄金律も当然、それらの神の数々の戒めの摘要なのである。もし人に対してどういう態度をとるべきか、どういう行動をとればいいかについて、少しでも困っているなら、あなたはこうすべきである。それが、主が実際にここで言っていることである。相手から始めてはならない。自分に次のように問いかけることから始めるべきである。「私は何をしてほしいか。どうされたら私はうれしいか。どうされたら助かり、励まされるか」。次にこう尋ねよう。「私は何をしてほしくないか。どうされたら私は困るか。最悪の事態になるか。どうされたら私はいやでがっかりするか」。よしあし両方の一覧表を作ってみよう。それに自分の生活や行動の全面にわたってーー行ないの面だけでなく、思いや会話の面でもーー詳しく記入して仕上げよう。「自分のことをどう思ってもらいたいか。自分は何によって傷つけられることが多いか」。

 主は率直に細かいところまで触れている。そこで私たちも、このような事柄について細かく取り組むことがどうしても必要になる。こういう聖句を読んだり、その説明を聞いたり、その説明を本で読んだり、これを描いたりっぱな絵を見て、「そう、りっぱだ、すばらしい」と言うことがどんなに容易か、だれでも知っている。しかし、実際の生活や生き方にそれを実行する段になると、全くできない。道徳と倫理の比類ない教師である主は、そのことを知っている。そこで、私たちがまず、しなければならないのは、こうした事柄に関する規則を、自分で自分のために設定することであると教えているのである。その規則の設定の仕方は次のとおりである。まず、自分が好むことと好まないこととの一覧表を作成する。次に、人に接するとき、自分に向かって単純に、「この人もこうしたことにおいては私と全く同じなのだ」と言いさえすればよい。常に自分を相手の立場においてみなければならない。相手に対する自分の行動や態度を決める際には、すでに自分自身がわかっている好き、きらいに注意を払って行動するように努めなければならない。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」。主は、このようにしさえすれば誤ることはありえないと言う。あなたは自分のことを不親切に言いふらしてもらいたくないか。それなら、人についてもそうしてはならない。あなたは、気むずかしい人、ついこちらまで気むずかしくさせられてしまうような人、やっかいをかける人、絶えず不愉快にさせられるような人がきらいか。それなら、全く同様に、あなたの態度も相手に対してそのようにならないようにしよう。主によれば、ことはこんなにも単純なのである。倫理、社会的関係、道徳、その他現代社会における人間関係の諸問題にかかわるいっさいの主題を取り扱ったすべてのりっぱな教科書は、実際、この一語に要約できるのである。

 これこそ今日、切迫した重要性をもった問題である。20世紀の重要問題は、結局、さまざまな関係の問題であることに、すべての思想家の意見は一致している。私たちは愚かにもしばしば、国際間やその他の諸問題が経済的、社会的、政治的問題であると思い違いしやすい。しかし現実に、それらのすべては、底を探ればこのこと、つまり人間関係の問題に到達するのである。それは金銭ではない。金銭が関与することもある。しかし、金銭はそこで使われる計算道具の一種にすぎない。そうではない。私自身は何をしてほしいかの問題なのである。人生のあらゆる不和、騒ぎ、不幸も結局はここからきている。こうして主は、この精密で簡潔な言葉の中に、その問題に関するすべての真理を表明している。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」。これは、さばきの主題に関する最終の結論である。もし私たちが対人関係においてこのような接し方をしさえすれば、自分から出発してそれを相手に当てはめさえすれば、すべての問題は解決するのだが。

 残念ながら、この聖句の学びをここで終えることはできない。これから見るように、これだけ言えば十分だと思っているらしい人々もある。さらにある人々は〈こういう考え方がありうること自体が驚きだが、現にある〉、人々の目の前に基準を掲げさえすればそれで良い、人々はそれを見て、「これは完全に正しい。さあ、これを実行し始めよう」と言うと思い込んでいる。だが現代世界は、そうではないことを明白に証明しつつある。そこで私たちは、この学びをもっと先まで続けなければならない。 続く) 

2022年10月18日火曜日

畢生の努力、神を愛すること(下)

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12・30)

 愛は心の奥から自然に流れ出る泉でなければならない。しかし、心の泉もこれを養う雨露が無ければ枯れる。愛はおのづから生ずべきものではあるが、同時にこれを培い養うの努力を要する。努力と勤勉とは他の世界において必要である如く、愛の世界においても必要である。

 猿が赤児のために苦労するけれども、赤児が成長して独立するに至ればこれと食物を争うが如き種類の本能的愛は私どももかなり持ち合わせている。度々至上だと称せられる恋愛の如きも、世上一般に見受ける代物はこの部類に属する。

 真に至上である神への愛の如きは『力を尽くして』練習しなければ到底得られるものではない。しかもこの『力』さえも神から与えられなければ挫折してしまう。

祈祷
知恵と力のもとである神よ、願わくは、私に力をお与えください。あなたを愛する練習を為す力をお与え下さい。この大いなる仕事のために猛練習をなし得る力を私に与えて挫折することなく、日々勤勉なる愛の練習を為すことを得させて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著291頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌163https://www.youtube.com/watch?v=ANTB1Rrk_XE )

2022年10月17日月曜日

畢生の努力、神を愛すること(上)

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12・30)

 神を愛することを人生最大の事業と心得、これがために畢生(ひっせい)の努力を為す人は幸いである。本当のものを本当に愛するということは容易なことではない。ああ私は本当に神を愛してみたい。一日でよいから今日は本当に神を愛した日であったと言い得たならば、私はその日に死んでも恨みは無い。

 『思いを尽くして』である。純真な情愛をもってである。無雑な憧憬をもってである。神を全体としてでなくてよい。神の御姿の一点でよい、一画でよい。神の御性質の一つでよい。例えば聖とか義とか愛とかの一つでよい、本当にこれを愛し慕い恋し、これに殉ずるの心をもって生きる日が私の一生に一日でもあったならばどんなに満足なことであろう。

 動物的な本能にのみ生きている自分を見出して止めどなく涙が流れる。

祈祷
ああ神よ、願わくは私にあなたを愛することを教え給え。あなたの御姿の一点一画でも私の心に宿すことを得させ給え。ああ我が魂よ、この肉の中に閉じ込められた醜い我が霊魂よ。神、願わくは解きて天翔けることを得させ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著290頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌88https://www.youtube.com/watch?v=reXdyXdrdEE )

2022年10月16日日曜日

全人格を尽くして神を愛せよ

イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。・・・『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』(マルコ12・29)

 これ実に信仰生活の真髄である。この学者が問うてくれたればこそ私ども今日イエスの口からはっきりこのお答えを聞くことが出来るのは誠に神様の摂理に感謝せざるを得ない。イエスも快く答えておられる。

 先づ『心を尽くし』て神を愛する。『心』とはユダヤ人の心理学では理知を指す。第一に神を理解することが大切である。盲目な愛ではなく、よく神の御心を識るようにするのが第一中の第一である。

 次に『思いを尽くし』とある、『霊魂を尽くし』と訳してもよい字であるが、情の方面を指すと解してもよい。

 而して第三が『力を尽くし』であって、意志を傾けて神を愛するのである。すなわち知情意の全人格を尽くして神を愛するのである。

祈祷
神よ、先ず私に光明をお与え下さい。先ずあなたの愛を理解する知恵をお与え下さい。先ずあなたの大きな愛を知り、而してすべての情とすべての意志とを傾けてあなたを愛することが出来るようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著289頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。

以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』〈原書408頁、邦訳791頁〉より引用

18 主の裁定(his decision)

 斯くの如き面倒にして益なき争論をもってイエスを困らしめる考えで、その学者はイエスに近づいて『すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか』と尋ねた。『一番たいせつなのはこれです。「イスラエルよ。聞け、われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」次にはこれです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この二つより大事な命令は、ほかにありません。』とイエスは答え給うた。

 神の方面と人の方面に関するこの両方面において、宗教の要義は、これらの二箇条の連続となり、当時のラビの学派の最高の所産はすなわちこれであったと思われる〈ルカ2 ・27参照〉。イエスは斯く答えて当時の学派の教義に親しまれたことを示されたもので、この方面のみをもっても、彼らの反対は無意義であった。而してイエスの御姿にも御言葉の調子にもこの質問の身に浸〈し〉むものがあった。イエスの伝道の当初において彼らがイエスと会見せしむるためにニコデモを遣わしたときの如く、パリサイ人は今回もまた不幸にして彼らの代表者の選定を誤った。彼らはラビの神学に精通せる人物を選んだが、代表者は不幸にも篤信な人物であった。

 タルソのサウロの如く、彼は神の前に義たらんことを務め、律法を守ってもさらに効き目なきを実験していたのであった。彼の霊魂はイエスの裁断に応じて雀喜しつつ『先生。そのとおりです。「主は唯一であって、そのほかに、主はない」と言われたのは、まさにそのとおりです。また「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する」ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています』と叫んだ。イエスは彼の答えの聡明なるに感じて、溢れる温情をもって『あなたは神の国から遠くない』と仰せられた。

 これその間に介在せる十字架に対する召命であった。而して何人もこの学者のこの後の行動を知らんと欲すること切であろう。彼は果たして恩寵あふるる召命に服従して決然たる行動を取ったのであろうか。

一方、クレッツマンはその『聖書の黙想』で次のように述べる〈同書196頁〉

 律法の中心は一つしかない。第一の、そして唯一の要求は愛である。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という言葉に要約されている。

 イエスに質問した律法学者はイエスが正しく答えたことを否定するわけにはいかなかった。事実、彼自身この律法の要約に、多少手を加えて、そのような愛が「どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれて」いることを指摘した。イエスの言葉は彼に深い感慨を与えたのである。そこで、イエスは励ますようにこう言われた。「あなたは神の国から遠くない」。この男は後に、イエスに従う者の一人となったのではなかろうか。

 私たちは真理に心をとらえられた時は、必ずそれに従うものでなければならない。)


2022年10月15日土曜日

何が一番たいせつですか?

イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12・28)

 これは賢明な問いである。多くの人は何を第一にして生活すべきかを知らない。また考えない。もちろん神の戒めなどは念頭にないのであって、第一に何を為したならば金が儲かるとのみ考える人が多い世の中である。

 私ども神を信ずる者は幾分でもこの無理想から救われているだけでも大いなる感謝である。しかし、いつの間にか私どもの第一問題は低い所に転落している。先ず神の戒めを生活の第一としたこの律法学者は私どもよりはるかに立派であった。しかもその戒めの中で何が第一であるかと常に研究していたればこそ、今イエスの前にこの問いを発したのであろう。高い理想の持ち主であったことが窺われる。

 けれども、この人でさえも、イエスは『神の国から遠くない』と仰せられたにとどまっている。他にもっと何物かがなければならないことをイエスは惜しまれたのである。

祈祷
主イエスよ、私たちはパリサイ人を嘲笑い、学者たちを嘲ります。しかし私どもに彼らに優る何物があるでしょう。何卒私どもにもっと真剣にあなたを信ずる心をお与えください。そうして従順にあなたに従わさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著288頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌544https://www.youtube.com/watch?v=PolZa02DJ80  )

2022年10月14日金曜日

イエスに進み出て問え!

律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。(マルコ12・28)

 『律法学者』とは聖書を筆写しまたは説明しこれを教える人たちである。彼らは聖書の文字に明らかであっただけ、先の問答においてイエスの説明の凡ならざるを認めることも大きかったのである。そこで『進み出て』※重大な問いを提出した。

 この人には悪意はなく、研究的の精神は十分にあったと思われる。然り、イエスの問答を読むといつでも『みごとに答えられる』お方であることを何人といえども痛感せざるを得ない。

 されば何事についてでも、殊に重大な問題については『進み出て問う』ことを忘れてはいけない。自分でわからぬ問題や、持て余す問題はイエスに問うがよい。一人密室に入り聖書を開き、へりくだって祈るがよい。イエスは静かに親切に解きあかして下さる。

祈祷
主イエスよ、あなたは如何なる問いに対しても『みごとに答えられる』願わくは、私たちに自分の愚に頼ることをやめて密室に入り、あなたの光の前にすべての問題をひろげて、あなたの聡明なる解決にゆだねる心をお与えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著287頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌535https://www.youtube.com/watch?v=kcBNvkPk19I
「進み出て」とは文語訳聖書が「進み出でて問う」とあるのを受けて、青木さんは書いている。ちなみに口語訳も新改訳も特段そのような記述はなく、「イエスに質問した」「イエスに尋ねた」と訳している。欽定訳も”asked him”とあるばかりである。

以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』〈原書407頁、邦訳789頁〉より引用

17 中心なる戒め

 主の反対党は対戦するごとに痛手を負うたのであって、もし彼らにして賢明であったならば、自分たちの敗亡を認めて、再びイエスを煩わせなかったことであろう。しかも彼らの年来の敵であるサドカイ人の駁撃されたのに雀躍したパリサイ人は、敵の失敗した所に成功せんと欲してなお他の計画をめぐらす心を起こした。
 彼らは律法に精通する学者を一人その党の代表者に選んでイエスに近づいて、その判断を請わんとして面倒な質問を提出した。律法には613個条を含まれているというのがラビの主張であって、このうちに『重きもの』と『軽きもの』との区別があった。而していずれの個条が『重きもの』で、いずれの個条が『軽きもの』であるかというので、厳格派のシャムマイ学派と自由派のヒルレル学派との間に鋭い議論があった。
 これらのうち重きものは死刑に処する点は両者の一致するところであって、それは割礼、発酵のパンを食うこと、安息日の厳守、手を洗うことに関するものが中心の律法であった結果は、後年のユダヤ教の災害となった儀式過重の弊を醸したのであった〈創世記17・14、出エジプト12・15、19、31・14、レビ7・20、25、民数19・20〉

一方、クレッツマンはその『聖書の黙想』で次のように述べる〈同書196頁〉

 さて、パリサイ人はこの議論を聞き、自分たちの間では意見の一致を見ることのできなかったある問題をイエスに提出して、彼を困らせる機会が到来したと考えた。それは議論百出していた問題で、どの戒めが最も偉大なものであるか、ということだった。彼らは有能の士を一人代表として選び、これで主をたやすく窮地に陥れられるものと考えた。律法の中には六百三十もの、つまりヘブライの十戒の中にある文字の数ほども、たくさんの細則があることを彼らは計算していたからである。しかし彼らにとってイエスが与えたもう答えが、実は律法そのものから引き出されようとは思いも及ばなかった。)

2022年10月13日木曜日

人生の算盤に誤算はありませんか?

あなたがたはたいへんな思い違いをしています。(マルコ12・27)

 第24節でも『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか』と言われたが、また重ねて『あなたがたはたいへんな思い違いをしています』と言っておられる。イエスは唯物論の誤算であることを繰り返し指摘されたのである。

 世に唯物論ほど大きな、而して取り返しのつかぬ誤算はまたとないと言われるのである。この世にある時にこの世のみを見つめている人の恐るべき誤算、物質界だけを見つめて霊界を見得ない人の誤算、この誤算は人生のすべての算盤(そろばん)を狂わせてしまう。

 宗教はアヘンなりと称する人々の算盤の狂い方を見るがいい。物欲の満足のほかに世界を見ることができぬではないか。物質の世界が幕の如くに切って落とされ、霊の世界がその実体を赤裸々に現わして来た時に、彼らの驚愕はどんなであろう。今彼らが握っていると思う世界が影の如くに消え、今アヘンだと称している世界の現実が暴露された時に彼らの失望はどんなであろう。

祈祷
霊界と物質界とを一様に見透される主イエス様、あなたが『たいへんな思い違いをしています』とおっしゃる世界に彷徨している私たちを憐んでください。願わくは、私たちが自分の目をもって見ることができませんとき、すべてを見られるあなたの眼の照明を信じて、誤らざる道に進み行かせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著284頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌75https://www.youtube.com/watch?v=T9B8Gn0ym6g

なお、クレッツマンはマルコ12・18〜44をまとめて「イエス、神よりつかわされた師」という表題をつけているが、以下のような総論・序論を載せている。

 「あなたは・・・真理に基づいて神の道を教えておられる」〈マルコ12・14〉

 不実な唇と偽った心で、パリサイ人はこう言った。しかし、これほど、真実に忠実な言葉はありえなかったのである。この点に関して、私たちは今、いろいろの証拠をさし出すことができる。

 サドカイ人とパリサイ人が、よるとさわると議論していながら、解決できないでいる問題をイエスは数言で解答された。そして、人々はこれこそまことの解答なのだということを悟った。しかし、イエスがさらに重要な問題に注意を向けさせようとすると、もう彼らはイエスに応ずることができなくなり、学ぼうともしなかったのである。

 耳を貸そうともせず、学ぼうともしない者ほど、無知で救いがたい者はない。

〈『聖書の黙想』192頁より引用〉) 

2022年10月12日水曜日

聖書による推論

死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。(マルコ12・26、27)

 昔の聖書には章や節のくぎりがなかったから『柴の個所』とか『何々の個所』とか呼んだのである。これは出エジプト記の三章である。が、どうしてこの句がよみがえりの証拠になるのであろうと思われるが、彼らがこの議論に対して一言の反駁も出来なかった所を見ると十分彼らを納得せしむるものがあったに相違ない。

 私は思う、この解釈は神の永久愛を信ずる者にとっては善く理解ができる。一旦永久なる神の所有となったものは、永久に滅びるわけがない。一旦神の愛の対象となったものは永遠に存在する。『アブラハムの神』とはアブラハムは神の所有となり神の愛の対象となったという意味である。だから神の前には生ける者である。神を『私の神』と呼び得る者は幸いである。

祈祷
天の父よ、私はあなたを私の神よ私の父よとお呼びできますことを感謝申し上げます。これによって私たちは永遠の生命を持つことを知り、永久にあなたの愛の中に宿ることを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著284頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。

 以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』〈原書406頁、邦訳788頁〉より引用

16 聖書による推論

 イエスはさらに諧謔の調子で、無知にして傲慢なこれらの人々のさらに一方の誤りを示さんとして言葉を進められた。彼らは信仰の法則として五書を認めたのであるが、そのうちには彼らの否定する教理を含んでいるのである。

 『死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。』と。

 これ見えざる世界を明らかにせる人物に対して、無知なる彼らが誤解をもって迫る甚だしき反抗である。天父の懐をその家とせられるこの人に対して彼らの自負心は如何に愚劣に聞こえたことであろうか。もちろんここに厳密な霊魂不滅論はない。斯くの如く聖書を引用されるはイエスの手段ではない。

 ユダヤ人が常に聖書を斯くの如く取り扱うものであったが、イエスは自由自在にその戦略を用いて、彼らの根拠をもって彼らの反対に応じ、彼らの武器をもって彼らの反対に向かわれるのであった。イエスの勝利は完全で、群衆は愈々イエスを尊ぶのであった。『群衆はこれを聞いて驚いた』〈引用者註:マタイ22・33〉ある学者たちが傍に立っていたが賛辞を押さえることができなかったか『先生。りっぱな答えです。』〈ルカ20・39〉と彼らは叫んだ。註解は彼らの職分であって、この巧妙な答弁に彼らは思わず賛嘆したのであった。これ実に傑作であった。) 

2022年10月11日火曜日

復活後は天の御使いたちのよう!(下)

人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マルコ12・25)

 私は実にこの希望に生きている。私は欲の深い人間であるのかも知れないが、私の宗教生活の大部分はこの希望にかかっている。『天の御使いたちのよう』な生活。何という立派な生活であろう。『めとることも、とつぐこともなく』とあるから現世における情愛を一切否定した生活、煩悩の絆を絶った生活で、すべてが単色の銀世界であると考えてはいけない。

 親子の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、友人の愛、その他の一切の愛が極点まで充実し、純白に浄化され、完全に融合し調和し、この世において味わい得る、またかつて味わった一切の愛の妙味は、そのすべての滓(かす)を取り除かれて、純真な『愛そのもの』の味だけ残るのである。換言すれば神とキリストとヨハネと母と私とその他のすべての人が皆お互いに親子夫婦兄弟姉妹となるのである。

 その時到らば彼は我が父であり兄であり弟である。彼女は我が母であり子であり妻であり姉であり妹である。この世で異なった種類に属する種々の愛は渾然一体となって天使の愛の如くキリストの愛の如くなる。誰も彼もこの愛を与え、誰も彼もこの愛を受ける。

祈祷
よみがえりの主イエス様、あなたは私のために『天の御使いたちのようになる』生活を備えてくださっていることを感謝申し上げます。その時が来れば、私たちはあなたの愛を知りあなたの愛を味わい、この人にもあの人にもあなたの愛を見出すことができることを信じ、私の心にもその備えを為せるようにしてくださることを祈りながら、その時をお待ち申し上げております。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著284頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。)

2022年10月10日月曜日

復活後は天の御使いたちのよう!(上)

人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マルコ12・25)

 何というハッキリした言い方であろう。この一語には実に千斤の重みがあるではないか。何とも言えぬ権威がある。目撃者の証言と言ったような感じがする。人間の揣摩憶測(しまおくそく:当て推量)を全く超越している。実に『わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししている』(ヨハネ3・11)の響きがある。

 霊界の人が霊界の実験談をしておられる。かかる意識の前に出ると私たちは霊界の何事をも知らないことを感じさせられる。天使の存在などは現代人には問題でないほどに消滅しているではないか。然るにイエスは彼らを見て来た人の如く語られる。天使は存在すると言われたよりも、はるかにハッキリした言い方ではないか。彼らの娶らず嫁がぬ生活状態までも知っておられる。

祈祷
ああ主イエスよ、世はみなあなたを嘲笑うとも私はあなたを信じております。世はみな天使と霊の世界とを抹殺しても私はこれを信じて疑わず、私もまたこの世を去って彼らのようにならんことを信じ、その日を望んで躍進しようとしております。主よ、願わくは私の霊魂を受け取り、天にある御使いの一人のようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著283頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌78https://www.youtube.com/watch?v=G0IsVbz--ls 

クレッツマン『聖書の黙想』〈194頁〉より

 民衆の支配者の大部分は、祭司でさえもサドカイ人で、それはちょうど教会の首席代表であるかのように振る舞いたがる、今日の「現代主義者」のような人々であった。彼らは神の御言葉による教えの根本を否定し、復活も、後の世の生命も、御使いや聖霊も信じなかった。モーセの五書を除いた旧約聖書全体を拒否し、しかも、その五書の中に、ただ外面道徳の一体系しか見出せなかったのである。彼らは明らかに、この若いラビ、イエスを、群衆の面前で笑い物にすることはたやすいことだと考えていた。

 そこで、彼らは主にモーセの律法の話をもちかける。これによると、もしある男が子がなくて死んだ場合、その弟は「兄の妻をめとって、兄のために子をもうけなければならない」ことになっている。とすると、こういう可能性がある訳だ。つまりーーある男が子がなくて死に、後に残された六人の弟たちが皆、次々と兄の未亡人と結婚するが、結局、女が最後に生き残るーーという場合である。この場合、七人の男たちみんなが復活した後で、この一人の女を妻として要求したら、なんとおかしな話になるのではないかーーこれが彼らの主張だった。

 少しのためらいもなく、主は彼らに答えられる。聖書と神の力を知らないでいるとは、なんと愚かしく、無知なことであろうか。まず第一に、来るべき世にあっては婚姻関係など廃棄されるのだということを、彼らは知らなければならなかった。それは、ただ、この世の生活のためにだけのみ定められたものに過ぎない。来るべき世では、人は神の御使いのようになる。彼らは、また、復活があるということもモーセから学ぶべきだった。もし、復活がないとしたら、イスラエル民族の父祖が死んでから数百年にして、なお、神ご自身がアブラハムの神であり、イサク・ヤコブの神であると、なぜモーセに告げたりするのだろうか。神は死者の神ではなく、生ける者の神なのだ。ーーこの御言葉はサドカイ人を沈黙させた。)

2022年10月9日日曜日

神の御力を知れ

聖書も神の力も知らないではありませんか。(マルコ12・24)

 偶然にもこのところで、イエスの旧約聖書に対する態度がハッキリと言明されていることは嬉しい。『聖書も神の力も』と言って聖書の中に神の能力が宿っていることを暗示せられた点もまた嬉しいではないか。

 旧約聖書は私どもの心には新約聖書ほどには響かない。それですらイエスはその中に神の権威を見出し給うた。聖書の中に神の能力を見出す者にして始めて大自然の中にも大能の神を見出し得る。聖書信者であるイエスは、また神の大能信者であり給うた。

 神の大能信者であったイエスは克く神の大能をご自身の生活の中に織り込まれた。見よ『聖書も神の力も知らないではありませんか』サドカイ人の無能力であることを。而して『聖書も神の力も』克く知ってこれを体得したイエスの偉大さを見るがいい。

祈祷
主よ、聖書をも神の力をも知らない私たちを憐んで下さい。如何に私たちの世界は狭くまた小さいことでしょうか。自然界の力と人間の力との外は何をも知らない私たちは如何に矮小なる者でしょうか。願わくは、私たちの眼界を大きくし、私たちの視野を広げ、聖書をも神の力をも知り、これを用いる者とさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著282頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌61https://www.youtube.com/watch?v=mv78JCjUef4

以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』〈原書406頁、邦訳784〜786頁〉より引用

15 サドカイ人の誤り

 彼らの懐疑の根源は無知であって、彼らの無知には二つの方面があった。すなわち彼らは来世の生活に暗いのである。彼らの最大の誤謬は現世の条件を来世に輸入して『神の力によるにあらずんば』※この世においては悟り得ざる所を推論する点である。彼らにして神の力を知らば、来世の存在をみだりに否定するを慎むはずである。『斯くあり〈このようである〉』とは『斯くあるべし〈このようであろう〉』と言うのと甚だしき相違を生ずる。『人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。』とイエスは仰せられた。

 イエスは来世の生活が現在よりも貧弱なりと仰せられず、またこの世においてその心のうちに斯くも喜びを感ずる関係が、彼処において消滅すると仰せられたのではないことはもちろんである。この世における関係は存在するけれども、さらに他の名目を命ずる必要のあるほど変化し、また高尚となるであろう。古い状態ですら『キリストイエスのうちに新たに造られたる』人となるときは、新たな名を生ずるのである。況んや万物ことごとく新たにせられる所では、皆ことごとく新たな名を生ずべきはずである。よみがえった生活には婚姻はない〈黙示2・17〉。

 婚姻はないけれども、他の名の必要な一層高尚な量るべからざる何事かがあるであろう。イエスのここに教えられるところは神の力に全く信頼して、その判断を潔く慎み、この来たるべき生活は如何にあれ、言うべからざるこの世の生活に比して一層充実、豊富、壮麗の生活であって、『神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの』〈1コリント2・9〉との確信を与えられるにあった。

※直接これに言及する聖句は思い及ばなかったが、詩篇68・34などを紐解かれればいいのではないか。)

2022年10月8日土曜日

想像に過ぎない事柄に対する主のお答え

質問した。復活の際、・・・その女はだれの妻なのでしょうか・・・イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか・・・」(マルコ12・23、24節)

 サドカイ人はほとんど無宗教に等しい唯物信者であったが、イエスの彼らに対する態度はパリサイ人に対するほど峻烈ではなかった。むしろ現世に陶酔している彼らを憐むように、啓蒙的態度をとられたのは注意すべきであろう。

 パリサイ人はかなり多くを知っていたが、その心がイエスに対して高ぶっていたために反対した。サドカイ人は宗教上の真理に暗かったためにかかる愚問を提出した。故にイエスはその無知に対して、徐(おもむろ)にこれを解くの態度をとられたのだろうと思う。

 主は私たちの傲慢を憎み給うけれども私たちの愚に対しては寛大であり給うことは誠に有難い。

祈祷
パリサイの偽善に対して峻烈であり給う主はサドカイの愚問に対してかえって寛大であり給うことを感謝申し上げます。私たちは実に無知蒙昧にして霊界のことを知らず、常に五里夢中に迷います。しかしなおも私たちを捨て給わずして、親しく私たちの蒙を啓き給うを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著281頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌82https://www.youtube.com/watch?v=YZPZQGDpON8 

以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』〈邦訳784〜786頁〉より引用

13 想像の事件 

 彼らは復活の教理を駁撃するは維々たるのみと考えた。この笑うべき観念は真摯な議論を為す価値もなく、判断よりもむしろ諧謔に用いるべきものとして、イエスに来たって想像上のある事件を提出した。

 すなわち七人の兄弟があったとする。第一の兄は子なくして死んだ。夫の兄弟に関する律法によって、第二の兄が兄のために子を得るため、また『死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないように』〈申命記25・5〜10〉その寡婦を娶った。然るに第二の兄にも子がなかったので、その死んだ後に第三のものに嫁した。斯くして七人の兄弟が順次にこの女を妻とした。而してついに子を産まなかった。彼女もまたやがて死んだ。質問は『復活の際、その女はだれの妻なのでしょうか』というのであった。

14 主の答え

 イエスは彼らの浮薄を叱咤してこれをそのまま打ち捨ておかれても良いはずであった。これけだし想像にとどまる事件のみならず、到底あり得べからざるものである。聖クリソステムはこの場に適当な諧謔をもってこれを評して、もし二人の兄が死んだとすれば、後の兄弟はこの女をもって吉相悪しと認めて、これを娶る気遣いはなかったのであろうと言った。

 ラビはこの世において二人の夫に嫁いだ女は来世においては一の夫に添うべきものと論じた。事実夫の兄弟に関する律法によって、女がその兄弟に娶られたときにおいてもなお第一の兄の妻である。後の六名は夫ではない、単に『これを娶って妻とし、夫の兄弟としての義務を果たす』に過ぎない。イエスは当然軽侮をもってこの質問を取り扱われるべきはずのものであったけれども、なお答えを与えられた。

 この質問は税についての質問と異なり、その伝道の間イエスが断固として貶〈けな〉された現世の領域に関するものと異なり、イエスの故郷である霊の世界に関するものでイエスがこれに対する弟子たちの信仰を現実となし、確固たらしめんと欲せられた所に属するものであった。故にイエスの御胸に憤慨の情は湧かなかった〈ルカ12・13、4参照〉

 このサドカイ人はその慇懃の仮面の下に憎むべき謀計を包むにあらざるが故にイエスは彼らを『俳優よ』と譴責せられず、また彼らの自ら恃む所を憤慨もされなかった。むしろイエスの憐憫の情を引くのであった。イエスはその自らこのように明らかに知られる永遠の世界の秘義を無知のために我と悟らず、うぬぼれ嘲るこの不幸な人間を憐まれた。『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか』とイエスは戒められた。)

2022年10月7日金曜日

復活はないと主張する人

また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。(マルコ12・18)

 サドカイ人は当時のユダヤ人の最高階級である。富において、権力において、政治的位置において、彼らは実に特権階級であった。だからイエスの運動の如き大衆的なものに触れる機会が少なく、また触れることを好まなかった。しかも彼らの唯物的立場がイエスによって危うくされるに至っては黙視することが出来なくなって、かかる問題を掲げて彼に迫って来たのである。

 実を言えば彼らは聖書をも神をもあまり信じていない、モーセの五書だけは尊敬するけれども、それさえ単に伝統的の尊敬であって、真剣に信じている者ではなかった。パリサイ人に比すればほとんど宗教的に冷淡な人たちである。

 然るに、彼らでさえもイエスを傍観していることが出来なくなった。それはイエスの宮潔めによって自分の権威が侵害され、自分らの利益が危うくされると感じたからであろう。然りイエスに従う者がこの世の勢力と衝突するのは偶然でないことを覚悟せねばなるまい。

祈祷
主イエス様、私どもの中にはサドカイ人の血が多分に流れております。現世の富と権勢とを慕う心が度々霊の眼を暗く致します。『復活はない』とは言いませんけれど、復活などは現世の生活よりもつまらぬものにも思われます。どうか私どもの心の眼を開いて晴々しい天国の姿を見せて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著280頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌499https://www.youtube.com/watch?v=tPxVoPPVn8w&t=2s

David Smithの『The Days of His Flesh』〈邦訳783頁〉

11 よみがえりについて

 権謀家は完膚なきまでに打ち破られて、主の機敏に驚きつつ言葉もなく退却した。然るにたちまち他の一団が近づいて来た。彼らはサドカイ人であって、パリサイ人と相対峙する激烈な反対党としてその政策においても、信条においても等しく、甚だしい懸隔ある貴族派の党員であった。サドカイ人はパリサイ人が神聖にして崇敬措く能わざるものとした口述の伝説をことごとく否定して、ただ成文の律法のみを容認した。彼らはまた預言書並びに歴史部を否定してサマリヤ人の如くモーセの五書のみを採用したとも伝えられる。ともかく彼らが五書のみを彼らの信仰の法則と認めて、聖書の他の部にはそれほどに重きを置かなかったことは確かである。パリサイ人はよみがえりの教理を教えたけれども、サドカイ人はこれを否定し、これが彼らとパリサイ人との論争の中心問題であった〈使徒23・6〜8〉

12 サドカイ人の嘲笑

 今度近づいて来たのはサドカイ人の一団であった。彼らは今退出した団体と何の同盟をも結んだものではなかった。かえって彼らの敗亡を喜び、自ら彼らに勝れりとの自負心をもって偽った慇懃の態度で近づいて来た。彼らの計画は「よみがえり」という笑うべき観念の不合理なるを喝破してイエスとパリサイ人とを同時に困窮せしむるにあった。たとい彼らが成功しても大した結果にはならないはずであった。彼らはローマの大守にイエスを曳くにも至らず、したがって群衆をイエスより離れ去らしめることも少なかったろう。むしろ新たな反感を民衆から受けるに過ぎない。要するに彼らの懐疑思想は到底人望を繋ぐわけには行かなかった。故にサドカイ人が職にある間は霊魂不滅を信ずるように装うにあらずば、到底人民の看過せざるところであったと伝えられる。)

2022年10月6日木曜日

「感心」必ずしも救いにつながらず

彼らはイエスに驚嘆した。(マルコ12・17)

 『驚嘆した』とはイエスの知恵に感じたのである。頭の良さに驚いたのである。しかしそれが何になるであろう。彼らはイエスに驚いたり感心したりしたけれどもイエスを殺さんとする素志を投げ捨てなかった。

 イエスに感心することが必ずしも人を救わない。彼らは根本問題においてイエスを見誤っていたから、どうしても彼を殺さずにはいられぬところに達してしまった。私は思う、イエスを神として受け入れない人は、結局イエスを殺さずには置かない人であると。何となればイエスの自己主張は余りに強い。イエスは自己の教えを受け入れしむるに満足しないで、自己を受け入れしめんとなし給う。『わたしよりも父母を愛する者はわたしにふさわしくない』などと平気で公言している。

 かような人間は神として信じない以上は危険千万な人間である。だから近代人のようにどれほどイエスの人物や教訓に尊敬を払っても、その人格や頭脳を『驚嘆しても』これを神として信じないならば、その奇蹟的人格を信じないならば、遂には彼を殺す者の群れに入らなければならない。

祈祷
主イエス様、願わくは私たちに堅くあなたを信じさせて下さい。あなたが神の子として私たちの救い主であることを信じさせて下さい。而して、あなたを人とし偉人としあなたの教訓のみを信じようとするこの世の欺きより、私たちをお救い下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著279頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌529https://www.youtube.com/watch?v=XHmO0ZGJ7gI 

 クレッツマンはマルコ12・1〜17をまとめて「不義とよこしまは真理の前に立つことができない」と題しているが、その序論・総論にあたる部分で次のように述べている。

 伝道生活の最後となったあの火曜日、イエスは宮へお入りになった時、ユダヤ人が自分を滅ぼそうと考えているのをすっかりご存知だった。彼らには、今やらなければ二度と機会がなかったのである。

 しかしイエスは何ものも恐れなかった。その週の終わらぬ中に、彼らが自分を殺そうとしているのを知っておられたが、それは主の権威が踏みにじられようとしているという訳ではなかったし、また真理がおしとどめられる訳でもなかったのだ。彼らは思い通りにことを運ぶだろう。しかし、それは彼らにどんな満足も勝利ももたらすものではないのだ。よくよく熟慮された計画も、ずる賢く仕組まれたわなも、ことごとく主の御知恵の前では無に帰してしまう。しかし主は真理の前にひざまずく者には、だれにでも必ず助けの御手を差し伸べて下さった。〈『聖書の黙想』185頁より引用〉)

2022年10月5日水曜日

デナリ銀貨(5)中間道徳と十字架

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 これは中間道徳である。この世にある間はさまざまのカイザルに対して相当のことをなさなければならない。ことに神を知らない人との交渉においてこの注意を要する。

 しかしながら、本当を言えば一切万事はことごとく神のものである。カイザルの権といえども神の所有に属するのであって、ローマの皇帝の如きは、すこぶるこれを乱用した人たちである。しばらく神が彼らを許し給う間、物質的のことにおいてはこれに服従しているのである。

 初代のクリスチャンが宗教迫害のためには生命を顧みずして殉教したが、カイザルの命に従って兵卒として兵役に服したのは極めて道理ある行動である。主イエスのこの御教訓を実行したのだと思われる。 

祈祷
神様、一切万事を御手に献げ、一切万事を御手より受ける心をもってこの世のことに当たらせてください。あなたに仕える誠意をもって国家に、君主に、父母に、友人に、家族に、社会に、仕える者として下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著276頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌62https://www.youtube.com/watch?v=khTg7sBZ-iY


2022年10月4日火曜日

デナリ銀貨(4)神と小カイザル

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 イエスは根本的に二人の主を認めたわけでは決して無い。私たちこの世に生きている間には万物の主である神の下に、小さいカイザルが主としてたくさんに存在していることを認めてくださったのである。

 例えば会社に勤めている人にとってはその会社がその人のカイザルである。会社の方針が神の栄光を目的としないかも知れぬ。あるいはネロ帝のようなカイザルであって、そのやり方が面白くないかも知れぬ。けれども自分が会社の重役でなく、その根本方針を左右することの出来ない一個の使用人であるならば、カイザルの物はカイザルに納めて居ればよい、而して自分自身の範囲にあるものは神に納めればよいのである。

 クリスチャンの青年が社会に出て困却する時に、あるいは妻たる者が未信者なる夫に対して当惑する時に、よく服膺(ふくよう)すべき実際的御教訓であると思う。

祈祷
主イエス様、あなたはこの世が如何なるかをご存知です。この世は未だ天国にあらざることをご存知です。願わくは不完全なこの世にあって一歩ずつあなたに近づくことを学び、忍耐と忍従とをもっておもむろに御国を建設することを得させ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著276頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。青木さんの祈祷の文章を読むと、天の御国に関して私の思いと若干異なるところがあるが、青木さんのマルコの福音書霊解全体を通して、考え続けて行きたい。今は疑問を提起するにとどめて短兵急な結論を出すことは差し控える。)

2022年10月3日月曜日

デナリ銀貨(3)教会と国家

イエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 イエスは宗教に熱狂して万事を忘れた人ではなかった。世にはカイザルを認めないのが宗教家の本領だと考えるように見える宗教家もある。すべての物は神の物だから何もかも神に納めなければ宗教でないように説く人もある。

 またはこれに反して宗教を装身具の一つくらいにしか考えない人もある。すなわち紳士の対面を繕うだけの道具と心得ている人もある。イエスの当時のカイザルが如何なる人物であったかを知るならばイエスの態度は余りに妥協的に見えるかもしれない。彼らはとても問題にならぬ人間である。しかも、イエスは政治に容喙(ようかい)することを好まなかった。

 彼らに払うべき義務は黙って払うべく命じ、宗教の本領は別にあることを示し給うた。国家が理想的でなくとも、国家の命ずるところはこれを果たす。すでに存在する制度に対して反逆せず、徐(おもむろ)に人心を改造して行くのが宗教であると教えたのである。

祈祷
主イエス様、あなたは私にカイザルの物をカイザルに、神の物を神に、納むべきことを教え給いしことを感謝申し上げます。願わくは、今日も私たちの周囲にあるカイザルに、その納めるべきものを納めて、しかも一切を神に納める者とさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著276頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌5 https://www.youtube.com/watch?v=fB6i4b0TMx0 

 David Smithの『The Days of His Flesh』は上述の青木さんの霊解とは違うが、大切なことを指摘していると思うので、以下に転記する。同書〈邦訳782頁〉

10 主の脱出

 これ絶妙至極に企んだ狡猾な計略であったけれども、イエスは立ち所にその偽りを看破し『なぜ、わたしを試すのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい』と叱責された。ローマ帝国の国税はユダヤの貨幣にあらず、ローマの貨幣で納めたらしく、彼らは皇帝の彫像と次の極印のあるデナリをイエスに渡した。極印に曰く『Ti Caesar Divi Aug. F. Augustus Pontif. Maxim(万人の頭領神聖なるアウグストの子テベリア・カイザル皇帝』と。『これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか』と問われたので、彼らは『カイザルのです』と答えた。『しからばカイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』と喝破された。

 ここに彼らは『納めることは律法にかなっているか、いないか』と尋ねたのに『返せ」とイエスの答えられたのには意義がなければならない。税の貨幣は彼らのものにあらずしてカイザルのものである。彼らはこれを獲得する権利はない。ユダヤ法理学の原則によれば国王の貨幣の通用するところはすなわちその国王の主権の認識されるところなりと言うにあるではないか。イエスの御心には軽蔑の調子があった。彼らが神に負う債務は他にあって、しかも彼らの意識するよりは大いなるものがあった。

 一方、クレッツマン『聖書の黙想』は次のように語る。〈同書189頁〉より

 イエスを誠実で正直で真実にあふれた、恐れを知らぬおかたであると、ほめそやした以上は、一つの答えを期待できると考えた。

 イエスのようなお方を瞞そうなどと、彼らは一体どうして望み得たのであろうか。
 イエスは人々に二度とやり返すことの出来ないほど、劇的で率直な方法で答えている。
 彼はローマの税金が納められている貨幣を持って来させ、おそらく、それを手の中で、裏表させながらであろうが、尋ねられた。
「これはだれの肖像で、だれの記号か」。

 それがだれのものであるかは、今日どんな聖書辞典ででも調べられる。一つの面にはローマ皇帝テベリオの肖像が、記号とともに描かれ、他の一面には、別の記号が記されていた。ローマ政府へ税金を納める時に使う貨幣の、肖像と記号がだれのものであるかという問いからは、誰も逃れる術がなかった。ローマ側の立場に立つ最右翼の者でさえも、
「カイザルのものはカイザルへ返しなさい」
という命令を非難することはできなかったし、ユダヤ人の最も過激な分子でも「神のものは神に」帰する以上のことをだれかに期待できるとは言えなかったのである。この言葉が教会と国家との分離をはっきり示したものであることを、私たちは終始、心しなければならない。二つの王国はそれぞれの領土を持ち、それぞれの税金が支払われるべきものである。

 この質問者や民衆が、イエスの知恵に驚嘆したあまり、問題をそのままにしてしまったのは当然のことであった。) 

2022年10月2日日曜日

デナリ銀貨(2)心に刻まれた神の像

彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。(マルコ12・16)

 カイザルの像がついている貨幣を用いていることはすでにカイザルの主権を承認しているではないか。されば税金をカイザルに納めるのは当然であるとの論法であって、かかる貨幣をユダヤに流通せしむべきものであるか、あるいはこれに反抗すべきものであるかの政治問題には触れ給わなかったのである。

 ユダヤが独立すべきものか、否かの問題はイエスにとっては大きな問題ではなかった。むしろさらに深い根本問題を暗示して『あなたの心にある像と銘とはだれのであるか、人は神の像に造られているはずではなかったか』と反問しておられるのである。

 もしユダヤ国独立の問題が大切であるとすれば、それは先づ神との問題が解決してから後のことであると言外に言っておられるように思われる。社会問題も大切であろう。けれども自己の良心と神との問題を忘れて社会問題の解決に走っても駄目である。

祈祷
神よ、あなたは私たちのうちにあなたの像を刻んでおられます。然るに私たちはこれを汚し、これを塗り消し、これを打ち壊しつつあります。願わくは、先づ私たちのうちにあるあなたの像を鮮明なるものとして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著275頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌360https://www.youtube.com/watch?v=OjsCFbF62CM  )

2022年10月1日土曜日

デナリ銀貨(1)永久的真理への道

イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」(マルコ12・15)

 『その偽善を見抜いて』と訳してもよい。『偽善者よ』と叱責し給うたのと同じ文字である。彼らはどこまでも小手先の知恵を弄してイエスに対し、イエスはどこまでも真実と誠意とをもってこれに応じ給う。

 この問答もイエスが知恵で巧みに免れたのではない。この機会を利用して永久的真理を教えられたのである。如何に巧妙であっても誠意の伴わない知恵はついには破綻を生ずる。鈍くとも誠意であればついに勝利する。純粋であれば鈍であっても咎める人はない。むしろ愛らしいものである。

 知恵は偽善をなすために与えられたものではあるまい。けれどもこの世の知恵は最も多く偽善を行うために用いられている。私どもも誰に対しても誠意で行きたい。

祈祷
神様、私どもから猿知恵を取り去って下さい。本当の知恵はかえって愚鈍とも見える真実にあることを教えて、何事にも自分の誠意を人の心に置く者とならせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著274頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 )