2023年12月25日月曜日

MERRY CHRISTMAS

 今日は久しぶりに行きつけの歯医者さんに行きました。受付には美しい樅木をイメージした絵模様とともに、MERRY CHRISTMASの英文字が一際目立っていました。よく見ると、右側には、何やら英文が記されていました。大要次のような内容でした。

 悲しんだり怒ったりするのはやめましょう。微笑みと笑いに満たされましょう。だってサンタ・クロースがもうすぐやって来るんだから。世界中のすべての人がしあわせになるに違いありません。老いも若きもみんな同じ気持ちになれます。サンタ・クロースはすぐに来ます。

 まさしく、サンタさんのプレゼントを待ち焦がれ、ひとりのこどもは今まさにそのプレゼントを受けようとしています。満面に笑みを浮かべています。ちょうど今からほぼ40年前のワンシーンです。サンタに扮しているのは教会の牧師さんです。


 それからほぼ20年、上の写真は、幼稚園の会場を借りての、2005年子どもクリスマス会の写真です。子どもたちの前に立っているのはそれぞれ劇を演じた人々です。真ん中にヨセフ・マリヤ夫妻がいて、マリヤが赤ちゃんのイエス様を抱いています。そしてそのまわりに天使たちがいます。まさにクリスマスの再現です。照明が暗いのが残念ですが、みなさんが一体となってクリスマスを祝っています。


 そして、この写真が40年後の子どもクリスマス会、この23日に行なわれたクリスマス会の写真です。ZOOMでも見られるので、私はZOOMで参加し、家にいながら写真を撮りました。ちょうど、このときは子どもたちがハンドベルでクリスマスソングを披露していました。そのうち、やはり現場に行かなければと、急いで参加し、劇『舌切り雀』などを鑑賞し、主イエス様の御降誕の意味を味わうことができました。もちろん参加した人々はこどもだけでなく大人もふくめてプレゼントをもらってしあわせな気持ちに会場を散ずることができました。

 さて、クリスマスってどのように過ごせばいいのでしょう。スポルジョンは次のように語っています。大いに耳を傾け、主なる神様が、人類にくださった最大のプレゼント・イエス様をよりよく知りたいものです。

きょうベツレヘムに行き、驚く羊飼い、礼拝せる博士らとともに、ユダヤ人の王として生まれたまいしかたにお会いしようではないか。それは私たちが信仰により彼にあって富を求め、「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた」と歌い得るがためである。イエスは受肉されたエホバであり、われらの主、われらの神であり、さらにわれらの長兄であり友である。私たちは彼をあがめ、ほめたたえようではないか。

まず注意したいことは、彼が奇跡によって身ごもられたことであり他に例がない。すなわちおとめが身ごもって男の子を産んだというのである。最初の約束は「女のすえ」であり、男のすえではなかった。はじめに女が楽園喪失の罪を招いたため、今は女が楽園の回復者を迎え入れたのである。私たちの救い主は真に人であられたが、同時に神の御子であられた。聖なる幼な子の前にうやうやしく頭を下げようではないか。彼はその罪なきことによって、人間の喪失したいにしえの栄光を回復された。私たちは彼が私たちのうちに栄光の望みとなられるように祈ろうではないか。

また彼の両親がいやしき身分であったことを見落としてはならぬ。彼の母は「おとめ」と記されているのみで、女王とも女預言者とも、大金持ちの主婦であったとも記されてはいない。いかにも彼女の血管には王族の血が流れていた。また愚かな教育なき女でもなかった。なぜなら彼女は実に巧みに神をほめる歌を歌うことができたからである。しかし彼女の地位はなんとみすぼらしく、その婚約者はなんと貧しく、新しき王の誕生のための設備はなんと貧弱であったことか。

インマヌエルーー神は私たちの性格の中に、悲哀の中に、生涯の事業の中に、受くべき懲罰の中に、また私たちの墓の中に共にいまし、現在も私たちと共にいたもう。否、私たちは、復活に、昇天に、勝利に、そして輝かしき再臨において彼と共にいるのである。

(『朝ごとに』C.H.スポルジョン著360頁より引用)

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(新約聖書 ルカの福音書2章11節)

「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む、その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(新約聖書 マタイの福音書1章23節)

2023年12月21日木曜日

天と地と人を写す写真の力

 今日は久しぶりに都心に出た。もっとも11月の勤労感謝の祝日にはいとこと会食のため、杉並に出かけたのだが・・・。でも都心という意識はなかった。それに比べると、「京橋」は都心に違いない。コロナ前は都心を通っては、吉祥寺まで週一のペースで足繁く通っていたのだが、ここ三、四年すっかり足が遠のいていた。そのうちに80歳という節目もいつしか通り越してしまった。あれやこれやでいささか都心行きは不安であった。

 目的は、知人から左の写真展の案内をいただいたので、出かけることにした。ちょうど開催期間は、私の帰省時期と重なり、出かけるとしたら、最終日の今日しかなかった。午後出かけることにして、午前中は賀状作りに精を出し、のんびり過ごしていたが、最終日の終了時間が午後2時となっていることに途中で気づき、少々慌てた。行かないとなると、折角案内状をくださった方に申し訳ないという思いが先立った。昼食もそこそこに家を出たが、電車を乗り継いで1時半には京橋駅に着いた。知人もおられるはずだと思うが最初は気がつかなかった。それよりは一枚一枚の「写真」のすばらしさに魅せられた。

 目は口ほどに物を言う、と言うが、「写真」という媒体がこんなにも多くのことを伝えてくれるとは思いもしなかった。日頃、ブログで写真を載せているが、その写真はあくまでも私の場合「飾り」に過ぎない。ところがこの「中国大陸を行く」という写真展はそれぞれの写真が語りかけてくるのだ。全体重をかけられ、それをどうこちらが反応すれば良いか心を探られるのだ。「来て良かった」と思った。

 写真展には、私のような鑑賞者がいることは当然なのだが、最終日とあって、写真を出しておられるカメラマンの方々もおられることに少しずつ気づき始めた。そのうちに懐かしい知人もおられることがわかった。早速駆け寄り挨拶したが、互いに握手しただけで終わった。あとでわかったが、その時、私は帽子を被り、マスクをしているので、知人には私が誰だかわからなかったようだ。気づくや、彼の出品作品の前で写真を撮ったりし、お互いにコロナ以来の再会を喜び合った。そして共通の友人が朝一番でお見えになっていたことも知ることになった。このことも不思議であった。

 鑑賞し終わって、帰ろうとしたら、主催者の方であろうか、その知人に「折角だから、この写真集をあげたら」と言っておられるようだった。見るとすごく立派な写真集だった。私は「お金を」と言ったが、「まあ、いいから。どっちみち見ていただくのが目的なのだから。それよりも荷物になるが、いい?」というようなことを言われたが、私は遠慮せずその本をいただいて帰りの途に着いた。『秘境探訪(中国少数民族地帯を行く)』(藍健二郎著)がその本であった。

 その後、私はその本が大判(120頁)なので、バックにも入れられず、むき出し状態のまま抱えながらの移動となった。そして、都内に行くときの長年の習慣で、私の足は古本屋へと自然に向かっていた。さすがに神保町はやめにして、時間も遅いので、江東区の南砂町の行きつけの古本屋だけにしたが、本を持って店内に立ち、掘り出し物を探すのには若干気が引けた(万引きしたと思われはしないかと思い)。ところで掘り出し物はこれと言ってなかったが、コロナ前にすでに目にしていた本が未だにあることを確かめて、内心安心した。機会があれば買えるからと思ったからだ。さて時間も経ち、寒さが身に染みてきたので、その店を出て、家路を急ぐことにした。その代わりに、帰りの車中で、ゆっくりその待望の写真集を手にすることができた。

 そして、圧倒された。たとえば、昨日の我がブログの「初雪の我が思い」がいっぺんに吹き飛んでしまう思いがした。すでにして昨晩は北国の豪雪の様を知るにつれ、我が思いは甘いと感ぜざるを得なくされていたのだが、もっと根底的な驚きであった。すなわち、自然の雄大さ、雪を抱く峨々たる山脈の鋭峰が写真集で表現されていたからである。改めて創造主のみわざに目を見張らされた。

 さらに家に帰って落ち着いて鑑賞すると、今まで気づかなかったことに次々と目覚めさせられていく思いがした。写真集の帯には「卒寿の輝き」とあった。1930年生まれの藍さんのいのちをかけた写真集であることは次の帯文章でも伺える。

中国少数民族地帯と聞くと「神秘的」「未開の地」「経済が遅れている」と連想するのだろう それはそれで言えているかもしれない しかし、そこは別の意味で未知の世界であり、神秘的で、憧れの地なのだ 藍さんは80歳を超える年齢で四輪駆動車で普通の人たちがなかなか行かない秘境で合計7回、距離にして約二万キロもの旅を完成させた 藍さんの精神・意志・生き様はみんなにパワーを与えるに違いない!!!

 「老いて盛んなり」とは中々常人には及び難い境地だが、私はこの作品集を前にして、一方なぜか信仰者の歩みを同時に思うた。一つは以前ご紹介した「田藤清風」氏の生き様である。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/08/blog-post_29.html あと一つはモーセである。

こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。モーセが死んだときは120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。(旧約聖書 申命記34章5節〜7節)

初めに、神が天と地を創造した。(旧約聖書 創世記1章1節)

2023年12月20日水曜日

初雪の我が思い

初雪に 寒さものかは 千両
 二、三日故郷に帰っていた。月曜日の朝、気づいたら庭先に雪が舞い降りていた。いよいよ冬の到来である。帰り際、伊吹山はもちろんのこと、霊仙山(りょうぜんざん)など近くの山々もうっすらと雪化粧をしていたが、東海道線の彦根・関ヶ原間を東京方面に一歩、離れると雪は見られなかった。繁くこのあたりを旅する者には、今も不思議で、芭蕉に「おりおりに 伊吹を見ての 冬ごもり」の句があるほどである。寺田寅彦がそれにちなんだ名随筆を残している。地形と気流の妙なる組み合わせを明治時代の彦根測候所のデータをもとに分析した文章である。

 今回帰省したのは日曜日の近江八幡での礼拝に出席するためであった。礼拝は喜びの時であるし、すばらしいし、いつもその「賛美」やそこで読まれる「みことば」や「祈り」に大いに励まされる。そして、遠くから来て良かったと思わされる。ところが、そのあとが私にとっていつも苦痛になる。礼拝に続いて、福音集会というのがあり、そこで聖書のことばから示されたことを語るひとときがあるからである。普通それは「メッセージ」と言われているものなのだが、その当番に当たっていたからだ。私は、今年一年そのご奉仕に悩み続けてきた。そのメッセージが毎回、中々自分の思ったように、できないのだ。その日は近づく。時間は待ってくれない、どう語っていいか悩みに悩む。ただ座右には聖書があるから、ほんとうはそんなに困るはずがないのだが・・・。今回このご奉仕を終え、一年間のメッセージの機会はやっと終わった。今ホッとしている。

 そんな気持ちにはまだなっていず、日曜日のメッセージを、依然として、ああ語れば良かった、こう語れば良かったといつもながらの後悔をしていた月曜の朝、床から起きて見たのが、この雪景色であった。千両の赤や黄色の実はいつも冬の間、庭先を彩ってくれる。灯籠や石ばかりの庭で風情もあったものではない。小さい頃は、それでも梅もあり、つつじ、椿とそれなりに季節の移り変わりを感じさせてくれた。その庭に初雪が舞い降りていた。我が思いを包むかのように。残念ながら、覆い尽くすまでには至らなかったのだが・・・

 こちらに帰ってきて、自ら録音したものをもう一度聞き書きして、自己満足ではあるが、以前よりは「福音」をストレートに伝えられるようになってきているのを知って少し安心した。新しい年は、もっと聖書に親しもう、イエス様を心から愛し従おうと今思いを新たにしているところである。ちなみに近江八幡のメッセージの題名は「敬虔なる服従」で引用聖句は1ヨハネ2:15〜17で、結びの聖句は1テモテ3:16、4:7〜8であった。

 ところで、先ほど、一年前のブログ記事https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/12/blog-post_22.htmlを見て驚いた。意味の不鮮明な文字を冒頭に書いていたからである。「嫉妬に燃えた不仁慈らが見出すことの出来なかったイエスの死の尊さを、偏見のないこの異邦人は見出し得たのである」という文章であるが、これでは読者は何のことかわからないはずである。「祭司長」と書くべきところを「不仁慈」と書いていて(パソコンの変換ミスであろうが)一年間も乙に澄ましていたからである。一年後にこの誤植を見出すとは、過誤があるのが私の常であると思うが、改めて、いかにも我が人生を集約しているかの思いにもさせられている。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。(旧約聖書 イザヤ書1:18〜20)

2023年12月1日金曜日

生きとし生けるものの願い

叢(くさむら)に イナゴ見つける のどかさよ
 あっという間に、師走に入った。熱い夏が長く、秋に入ったはいいが、例年よりははるかに短く、瞬く間に、北国の大雪情報に接する季節となった。月曜日(11/27)、川縁を散歩している時に、写真のいなごを見つけた。生きとし生けるものを発見すると何やら、ほっとする。「ああ、君もがんばっているんだね」と声をかけたくなる。

 そう言えば、昨今、古利根川には、川面に魚が飛び跳ねる姿をよく散見する。水鳥は鴨が「ピヨーピヨー」と声立てては、隊をなしながら、動き回っている。中には潜る連中もいる。いっぽう、鷺(さぎ)は悠然と立ち構えているようだが、あれは獲物を虎視眈々と狙っているのだろう。かと思うと「しらこばと」がこれみよがしに、川面をかすめては舞い上がり、優雅に飛び交っている。カラスも負けじとばかり、川中に入って行水をしている。我もまた、人の子として、この自然の豊かさを味わわせていただいている。

 こうしている最中にもウクライナで、パレスチナで戦争は絶えず、気候変動の影響は世界の最貧国を襲っていると言う。ひとときも安閑として過ごせぬ我が地球の姿を思う。それだけでなく、まわりには病で苦しんでいる同胞がたくさんおられる。いや我が健康体にも老いの衰えは隠しようがない。師走は、またクリスマスの季節でもある。2000年前に私たちの罪を贖(あがな)うために、神の子イエスが人となって地に降られたことを思う。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。・・・私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(新約聖書 ローマ人への手紙8章18節、22〜23節)

2023年11月28日火曜日

近況報告

冬間近 青緑朱 天地人(※) 
 40日間弱、ブログから遠ざかってしまった。イスラエルとハマスとの戦闘をどう考えていいのか、自分のうちで煩悶があり、結論の出ないまま、今に至っている。その間、実に様々な本に接した。読書体験としては近来にない多読になった。そこで考えたことをブログに書き留めたいとは思うのだが、それも気が進まずにいる。自分の理解力が追いつかず、もっと若い時にしっかり学んでいれば良かったのにと思うばかりである。

 けれども、思い切ってどんな本を読んだのか、思い出すままに書き留めてみる。先ずは、田中ひかるさんの『「毒婦」和歌山カレー事件20年目の真実』(ビジネス社)だった。田中ひかるさんの目を信じているだけに、私の偏見を改めて糾された思いがした。

 そのうちに袴田巌さんを巡る本を数冊読んだ。特に感銘を受けたのは『裁かれるのは我なり(袴田事件主任裁判官の39年目の真実)』(山平重樹著双葉社)と『袴田事件を裁いた男(無罪を確信しながらも死刑判決文を書いた元判事の転落と再生の43年)』(尾形誠規著朝日新聞出版)という二著だった。ある意味で対照的とも言えるこの二著はものごとを知ることのむつかしさ、人の姿の多面性を味わわされた。

 そして、とどのつまり『主よいつまでですか』(袴田巌著新教出版社)という獄中で書かれた文章を主体とする本に辿り着いた。袴田さんがどのようにして主イエス・キリストの救いを受け入れられているのかが知りたかったからである。(昨日の東京新聞朝刊にも、無罪へ「どこまでも勝つ戦い」と題する記事が掲載されていた。それにしても、どうしてこんなに冤罪が多いのか気になる。)

 一方、私は末盛千枝子さんの書かれた『「私」を受け容れて生きる(父と母の娘として)』(新潮社)を読む機会が与えられていた。不思議なことに、袴田さんも末盛さんもカトリック信仰の持ち主であった。その真実な生き方に共鳴し、共感するところがあったが、やはり私には今一歩両手をあげて喜べないところがあった。

 そうかと思うと、『嬉遊曲、鳴りやまず』(中丸美絵著 新潮社)という実に華麗な個性的な生き方を身につけて生涯を歩んだ斎藤秀雄も知ることになった。この方のバックボーンの一つにはやはりキリスト者の大きな影響があった。しかし、私にはこの方の歩みにもそのまま同調するわけにはいかなかった。

 それぞれ私たちは個々の人生を歩むのだから、私がこのように考えるのも当然と言えば当然と言えるのでないかと思う。そうした読書経験に、水をさすかのように起こっているのが、ウクライナとロシアの戦争を凌駕するかの勢いで、流れ込んで来て固唾を飲んで今も見守るしかないイスラエルとハマスの戦闘であった。

 こうとなってはもはや猶予はない。私は手当たり次第、以下の本などを渉猟せざるを得なくなった。『イスラエル』(臼杵陽著 岩波新書)『ライフ世界の大都市(3)』(タイムライフブックス)『物語 エルサレムの歴史(旧約聖書以前からパレスチナ和平まで)』(笈川博一著 中公新書)『地図で見るイスラエルハンドブック』(フレデリック・アンセル著鳥取絹子訳 原書房)『パレスチナを知るための60章』(臼杵陽・鈴木啓之編著 明石書店)。

 しかし、今もってイスラエルとハマスの戦闘の行く末を理解できないでいる。そんな私だが、今の世界、今の自分の姿を照射する確かなことばは以下に掲げる聖書のことば、これしかないと思っている。どのようにしてこのことばと現実に折り合いをつけるのか、多読の読書経験とともにこれからも考えていきたいと思っている。

※昨日、古利根川を散策していたら、鉄橋近くに、数人の方がそれぞれカメラを背に待ち構えておられた。そのうちに列車が右方向からあらわれた。東武野田線としては、いつも見慣れない朱色の車体であった。思わず私もiphoneで遠巻きながら仲間に加わった。「さて」と、その思いを俳句にと思ったが、絵心もなく意味のない駄句である。諒とせられたい。その後、迫田さんから「冬ぬくし」の季語を教えていただいた。したがって、「冬ぬくし 青緑朱 天地人」なら、少し「我が心」に近づいた?)

兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうしてイスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。(新約聖書 ローマ人への手紙11章25節〜29節)

2023年10月21日土曜日

愛ありてこそ(下)

以下の記事は、昨日紹介した飯守恪太郎さんが、ゴットホルド・ベックさんのお嬢さんリンデの葬儀の時の挨拶で述べられたものである。(『実を結ぶ命』59頁より)

 私とベック一家との交わりは、家が近所ということもあって、早くも十年になろうとしています。しかし、親しく交わりを持つようになったのは、私と妻が主イエスを救い主として意識的に受け入れ、吉祥寺キリスト集会に集うようになってからです。そして、今度のリンデの召天のことは、ただ同じ集会の一員として以上に、二人の娘たちの心からの親しい友人の死であったため、感動的なできごとでした。私たちがどのようにリンデの状況を知り、私たちも祝福の中に導かれたか、たどってみたいと思います。

 七月十日朝八時、私たちが朝食をとろうとしていると、電話がなりました。『もしもし、恪さん、ゴットホルドです。おはようございます。実はリンデが病気なのです・・・・』ドイツは真夜中ごろです。ベック兄からの電話はシュトゥットガルト近郊にある彼の自宅からか、病院からか分かりませんでした。それは、ちょうど自動車による人身事故を知らされた時のショックと不安に似ていました。『きょうは、そちらは木曜日ですね。いつもの祈り会で祈っていただきたいのです。まだくわしくは分からないけれど、来週大きな手術をすることになりました。みんなで祈ってください』『はい、わかりました。きょうの祈り会で祈ります』『たぶん、がんではないかもしれないけれど・・・この十日間多くの検査をしたのですがよく分からないのです。二十四日に腹部を開いてみることになりました』三分間くらいの会話でした。

 次の週の木曜日には、手術の結果を知らせる電話がありました。こちらは夕方の五時頃でした。『もしもし・・・がんでした。全体に広がっていて手の施しようがなかったので、そのまま閉じました。手遅れで医学的にはまったく絶望だということです。意識ははっきりしています。皆さんに続けて祈ってくださるように、くれぐれもお願いしてください』。

 その日の夕食の時、妻や娘たちの目がうるんでいました。

 私たちは、八月上旬から九月上旬まで、ドイツ各地の人々やキリスト集会の人々に会うためのキャラバン伝道旅行に参加する予定でした。そして、町田市の星淑子姉、白木みどり姉、それに私たち家族(息子一人、娘二人)は、八月十二日、成田からその目的をはたすべく予定通り出発しました。

 三十三時間の飛行の後、フランクフルトに着くと、ベック夫妻と娘さんたちが、私たちを迎えて下さいました。リンデの病状の容易ならぬにもかかわらず、ご家族と私たちの気持ちは不思議なくらい静かでした。お宅までの二時間のドライブの車中でも、神への圧倒的な感謝と平安が支配していたようでした。召しを待つ彼女を見て思ったことは、私たちの目的は主イエスであり、イエス様は私たちの感じているよりも近くにおられ、礼拝せざるを得ないということでした。

 彼女は、子供のような信頼と従順によって静かにベッドの上で目を開き、熱のためピンク色の頬に微笑を浮かべて、一人一人に挨拶をしました。私は思わずこう言ったのです。『日本にいるみんなのために祈って下さい。私たちはあなたを心から愛しています』と。彼女は大きく何度もうなずいてくれました。彼女の態度には、よく病人に見受けられがちな同情やあわれみをさそうようなものは、何もありませんでした。彼女の瞳は全身で神の御顔を見続けていて人間の同情など入る余地がなかったのでしょう。

 帰国後、私の二人の娘たちは、来るべき日に、天国で彼女との永遠の再会を待ちつつ、日常生活でも以前とは違った張りとリズムを持って過ごしているようです。私たち夫婦も言葉ではうまく表現できないのですが、目ざす目的地が身近に感じられ、今日明日という一日一日がそのための準備であると思うようになったのです。愛するお方の前で恐れかしこむしもべでありたいものです。私は、黙示録の『さあ、花嫁はその用意ができたのだから』という一節が好きです。花婿なるイエスは花嫁である私たちをご自分の血潮によって受け入れて下さるという確信と平安の上にたって、日々生活をしています。

以上が、リンデの葬儀の時(1980年)に述べられた挨拶である。40余年前とは言え、私は、ここに主をひたすら愛する、純潔な魂の痕跡を見る。そして、そこには私たちの罪の身代わりに十字架にかかって血を流された主イエス様への感謝の思いが語られている。もちろん、生死を超越した生き方を保証する復活された主を知るがゆえに天国の確信がその挨拶の基調となっている。主を愛すれば愛するほど、人を愛する思いも増し加えられるのでないだろうか。

たまたまイスラエル人の歴史家ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビュー(報道ステーション徳永有美アナウンサーによる)をユーチューブの配信で見たが、イスラエルとハマス、そこには双方における憎しみが勝利している現状が述べられていた。「憎しみ」に立ち勝るのは「愛」であると思わざるを得ない。

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊(主イエス)の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。(新約聖書 黙示録19章7節)

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(新約聖書 1ヨハネ4章19節)

私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの父なる神に感謝しています。それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。(新約聖書 コロサイ1章3〜4節)

2023年10月20日金曜日

愛ありてこそ(上)

鶏頭の 堂々たるは 愛のゆえ
 10日ほど前、古利根川を散歩中にこの鶏頭を目にした。そのあたりには草花が少なく、えらくしっかりと立っている姿に思わず敬意を表したくなって、しゃがんでカメラに収めた。すると、通りすがりの方が、うしろの方から「その花は主人が水やりを続けているのよ」と声をかけて来られた。ふっと見上げると、何とその方はいつも一緒に礼拝をしている方ではないか。

 一人生えとばかり思っていたが、そうか、そんな愛の支えがあっての鶏頭だったのか、と思わされた。一方、そのお世話をなさった方が、身近な人だったとは驚いた。途端にその鶏頭は二重に親しい草花となった。

 そう言えば、かつては現役時代、電車の中で毎日見かける方は、声を掛け合うわけではないが、私にとっては結構「仲間」だった。今や、それは散歩道で行き交う人たちに変わっている。何らかの形で定年退職した人々が健康のために歩いているのだろう。たまたま声をかけて来た方は知人であったが、そうでない方が圧倒的に多い。二度とお会いしない散歩道かもしれない。行き交う人の健康と幸せを祈る者でありたい。「袖擦り合うのも多生の縁」と言うではないか。

 かと思えば、このようなこともあった。バス車内でのことである。1994年10月、初めてドイツに一週間余の予定で、みなさん(200名)と共に聖書を中心とする「喜びの集い」に出かけたことがある。その旅行は空路東京からミュンヘンを目指すものだった。飛行も無事に終わり、いよいよ西南ドイツの現地(ミヘルスブルク)へと高速バスに乗り、アウトバーンを中継都市になるシュツットガルトを目指して走った。ノンストップだった。

 ところが、途中で私はにわかに便意を催した。私があまりにも苦しそうなので一緒に行った家内も大変心配した。ところが、どうしてか知らないが、私の座席の前方にいた方が、そのことを知られたのであろう、バケツに新聞紙のようなものを用意して、動くバス内で私の座席に近づいて来て「兄弟! この中にしなさい」「私がかこってあげるから」「匂いも大丈夫だから」と言ってくださった。

 そのあまりにもとんでもないアドバイスを聞くや、度肝を抜かれた私は途端に便意を感じなくなり、無事シュツットガルトまでの長時間のバス乗車に耐えることができた。思わず命拾いした思いだった。30年余り前のことを思い出したのは、他でもない、最近『嬉遊曲鳴りやまず』(中丸美繪著新潮社1996年刊行)という斎藤秀雄の生涯を描いた作品を読んでいたら、次のようなことが書いてあったことによる。

 斎藤が練習に打ち込んでいるときには、たった一言ですら言葉を差しはさめない雰囲気があった。小用を申し出ることができなかったために、練習場でお漏らしをしてしまった、後には日本を代表するヴァイオリニストになる小学生もいた。その時、指揮の飯守泰次郎がワイシャツを貸した。それは大人用のシャツだから裾は膝まできていた。(同書267頁)

 文中の飯守泰次郎さんは今年の8月15日に召されたが、斎藤秀雄(先生)の最後のお弟子さんと言ってもいい方だったが、音楽を愛しいのちをささげた斎藤秀雄の鬼気迫る「子供のための音楽教室」中のエピソードに違いない。私はこの話を知って、兄弟とは良く似る者だなあーと思わされた。それと言うのも、先ほどの、便意を催し七転八倒していた私を助けてくださった方は、その泰次郎さんのお兄さんの飯守恪太郎さんであったからである。

 困っている人を助けるためには何でもやるという気概、そこに類(たぐい)稀なるユーモアの世界が同時に用意されているのを、お二人の態度から教えられる。

 今日、国際紛争はウクライナ地方に、イスラエル・パレスチナ地方にと頻発し、全世界が固唾を飲んで見守るばかりである。弱者に多大なる犠牲を強いている戦争を、誰も止められない。窮地に陥って、互いに角突き合わせているばかりである。

 鶏頭は一人で立っていたのではない。水を注ぐ人がいたのだ。その水ももともと天から与えられたものである。私にとって堂々と見えた鶏頭も、主なる神の愛のしからしめる鶏頭であった。万物を統べ治めておられる主なる神の前に頭を下げる者が集えば争いはないはずだ。

島々よ。わたしの前で静まれ。(旧約聖書 イザヤ書41章1節)
あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。(新約聖書 ローマ人への手紙14章4節)
立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(新約聖書 1コリント10章12節)

2023年10月11日水曜日

いよいよ秋本番


赤蜻蛉 良くぞ生きたり 利根堤
 先日、この欄でも紹介したように、時ならず、白鳥が古利根川にあらわれた。その後、どうしたかわからない。埼玉新聞の報道によると、どなたか飼い主の方の手を離れて飛来したか、ということでもあった。一方、北国の方の随筆に「白鳥が遠くシベリアから群れをなして日本列島に飛来する」旨の叙述があった(※)。飛来する白鳥が本来の姿なのかと思わされた。

 ほぼその同じ頃、古利根川の堤に一匹の赤蜻蛉が風にゆられながらもしっかりと草花の木に留まっている姿を目撃した。赤蜻蛉とは言え、何か弱々しい感じさえした。けれどもその羽根は夕日に当たって限りなく美しかった。自然界をとおして神様はこうしてあらゆる恵みをくださっていると思った。

 ところで、今朝の聖書通読はヨブ記25章から27章だったが、並行して読んでいるF.B.マイヤーの『きょうの力』に、これはと思う文章(ヨブ記26章に触れる)があったので、以下転写する。

 ヨブは上を仰いで神の造りたまえる宇宙の広大・精妙を思い、空をおおう雲の驚くべき機構を描き、目を地に転じては、大地を震わせ、海洋を制圧する大いなる神の力を展示します。
 そして、実はこれらも神の威光のほんの一端でしかなく、神のささやき程度しかない。ああこれがささやきだとしたら、そのとどろきに至っては! と驚嘆するのです。
 しかるに、今日の私たちは、この旧約時代のヨブよりも神の威光を知っています。というのは、神の造りたまえる自然によるばかりでなく、人となりたもうた神ご自身を知っているからです。イエスこそは神の知識であり、能力なのです。しかも、私たちは、神の全知・全能が、ただに空を広げ大地を震わせ、海を制する強大さではなくて、”愛”のそれであることを、イエス・キリストの十字架において知り得ているのです! 大空を仰いで神を恐れる私たちは、イエス・キリストによって、神と親しむことができるのです!
              (『きょうの力』312頁より引用)

 前のブログ写真でお示しした「ひかり幼稚園」のかかげている「十字架」は単につつましいものではない。”愛”なのである、と気づいた。

※かく、書いたがうろ覚えであり、確かめたら次のような美しい文章であった。「春先には白鳥の群が鉤の手状になって、かなり低空で、さようならと言うように大きな声で鳴きかわしながら北へ帰っていく。感動的だ。彼らのこの先の長旅を思い、その安全を祈りながら、声が聞こえなくなるまで、つい見送ってしまう。」(『「私」を受け入れて生きる』末盛千枝子著2頁)

私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けようか。(旧約聖書 ヨブ記26章14節)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネの福音書3章16節)

2023年10月9日月曜日

秋雨前線の沈思

秋空に 福音告げる 十字架
 今日はあいにくの雨だ。しかも一日中降り続いている。二日前はこの画面のように青空であったのに・・・。写真は家の近くの「ひかり幼稚園」の園舎である。屋上には「カリヨン」が覗いている。カリヨンの音色を久しく聞いていない。幼稚園は、我が家から見れば目と鼻の先だ。今も歩いてカリヨンを見に出かけたが、3、4分のような気がする。カリヨンにくらべると、十字架はいかにもつつましいが・・・。

 1990年9月から2010年ごろまでおよそ二十年間ほど、この幼稚園の体育館施設をお借りして礼拝を持たせていただいた。私たちは、ひとりひとり十字架にかかられ三日のちによみがえられたイエス様を信じて罪からの救いにあずかり、聖書にしるされている神のみことばを中心に、牧師制度に頼ることなく、信徒同士の自由な交わりを標榜している群れであった。

 ところが、難問があった。集まる建物・場所を自前で持っていなかったからだ。思い余って、群れのご婦人たちのうち有志の方が、この園舎を見て、蛮勇を奮って場所を貸していただけないかと相談にあがられた。園の責任者の方は牧師であったが、別の街で牧師として働いておられたこともあって「あなたがたがこの施設を利用して、私の代わりに日曜日に神のことば・みことばを広めてくださることは大変ありがたい。どうぞお使いください」と言われた。

 その方は、私たちの群れの責任を負っておられるベック宣教師の書かれた『実を結ぶ命』を読まれたのだったであろうか、また直接ベック宣教師とお話しなさった結果であったであろうか、私に「ベックさんは現代のパウロのようだ」とまで、言われた。こうして、私たちは、主のあわれみによって、お借りした施設をとおして、20年の間「キリストのからだ」としての教会を形成させていただくことができた。

 その後、園の経営のご都合で園舎をあとにし、以後十余年毎週集まる場所を求めてのジプシー生活を余儀なくされている。その間、集まる私たちも高齢者が多くなり、病気にかかる方が身近におられ、またここ四年はコロナ禍のもと集まることそのことが不可能になってしまった。その後遺症は今も続いている。

 昨日、私たちと違って、ビルの一室を借りて定常的に集会を持っておられる市川集会をお訪ねして、メッセージを語らせていただく機会を得たが、その一つの主題は創世記14章とさせていただき、今から四千年前の信仰者の姿を追った。今日に置き換えるなら、まさに中近東の戦争であった。その中に「ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた」(旧約聖書 創世記14章13節)とあった。ヘブル人ということばの初出であり、どんな戦いであったかはわからないが、一昨日(10/7)、イスラエルとハマスとの間に戦闘が起こり、世界に新たな緊張が始まっている。

 このように、私たちの集会の課題、また世界の課題は多いが、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(新約聖書 ヘブル人への手紙13章8節)のみことばを心に銘記し、十字架のイエス様を仰ぎ、歩みたいと思わされている。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(新約聖書 1コリント1章18節)

2023年10月5日木曜日

束の間の秋(?)

いずこより 白鳥二羽 秋嬉し
 三日前(10/2)、二羽の白鳥(はくちょう)が、いつも通る散歩道(古利根川の右岸堤)にいた。逃げようともしない。長い首を曲げては、ゆっくり豊かな羽毛に嘴を突っ込んでは虫探しか。余りの自然さで、しばらく見ていたが、結局その場を立ち去った。しかし、通り過ぎてから、やはり気になって、途中でUターンし、元いた場所にもどってみた。

 二羽一緒にいた白鳥は健在だったが、今度は、ややそれぞれ場所を移動して、互いに餌を探しているようだった。川内でなく、こんな堤の上でどうするのだろうと心配しながらも家に帰ってきた。翌る日は次女の家に出かける約束をしていたので、気にはなっていたが、見ずじまいだった。

 昨日、その後、(白鳥は)どうしただろうか、と気になったので、再び同じコースで出かけた。ところが白鳥は右岸に当たるその場所にはいなかった。やっぱり、どこかへ飛んで行ったのだと諦めた。ところが、さらに歩を進め、ふっと川を見るとはなしに対岸の方を見たら、二羽の白鳥が、向こう岸の左岸近くにいるではないか。しかも、その近くには釣り人が5、6人釣り糸を垂れているのも見えた。

 途端にうれしくなった。弾(はず)む心を抑えながら、人道橋を通って、二日ぶりに見る白鳥に近づいた。と言っても、川内なので、至近距離での撮影は無理だった。二羽の白鳥はスイスイとそのあたりを泳いでいた。その後、喉が渇くのか、交互に川の水をおいしく何度も飲みながら、私たち(釣り人のみなさんと私たち)をあとにして、上流の方へと泳いで行った。下の写真がそれである。

 今日、三度(みたび)出かけたが、もう白鳥はいなかった。

白鳥(しらどり)は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
                       若山牧水
追加(10/7)
 今夏、孫たちと一緒に彦根城で白鳥を身近に見た。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/08/blog-post_18.html
 そう思っていたら、NHKがその様子を報道したことを知った。「彦根城のお堀で5月に生まれたコブハクチョウ 大きく成長」という題名だった。下記のアドレスをコピーして開けば見られる。https://www3.nhk.or.jp/lnews/otsu/20231005/2060014377.html

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(新約聖書 マタイの福音書6章26節〜27節)

2023年9月30日土曜日

待ち焦がれた「秋」、待ち焦がれた「画鋲」

秋よ来い 渇ける魂を 癒すため
 明日から10月、と言うのに、この暑さはいったい何なのだろう。ただ、観念は秋モードになり、すっかり心のうちを静かに問う季節になっていることはありがたいことだ。そんな中で今日は夕方、ずっと書かずに済ましていた家の前の看板(みことばを書くためと、キリスト者の友が東南の角地に位置する庭の植え込みを利用して設置してくれた)に、聖書のことばを久方ぶりに筆で認(したた)めた。このところ、散歩から帰るたびに、何も書かれていない看板の木目がいやに気になり、本来あるべき聖書のことばが、私の怠慢で記されていないことに心が傷んでいた。

 いつごろから書かなくなったか覚えていない。かれこれ4、5年掲げていない気がする。気になって、看板聖句は大体家庭集会のたびに書いていたので、そもそも家庭集会はいつごろ閉じられたのか、あれやこれやの資料を駆使して調べてみたら、2020年の2月に高齢のご婦人の召天を記念して家庭集会を持ったのが最後だった。1990年5月以来(※)、31年間続いた家庭集会は気がついたら、あっと言う間になくなっていた。コロナ禍が始まった時と軌を一(いつ)にしていることは人の思いを越える主なる神様がご計画された事柄であった。

 すると、少なくとも四年間、看板聖句は姿を消していたことになる。当時、通りすがりの友人から、よく「もう家庭集会はやめたのですか(信仰を捨てたのですか)」と言われたり、共産党シンパの方は看板聖句が出るたびに、呼び鈴を押しては、「(看板に書いてある)みことばの意味を説明してください」と玄関先に来られていた人だけに、「どうして書かないのですか」とも言われて、曖昧に答えたりしていた。それらの方もこの四年間のうちにすっかり諦められたようで申し訳ない思いが今もしている。明らかに私自身の信仰が萎(な)えてしまっていることに原因があった。

 その私がなぜ今日は奮い立って看板聖句を書く気になったかと言うと、今朝聖書を読んでいて、次のみことばに元気をいただいたからである。

真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。(新約聖書 ヨハネの手紙第二 3節)

 このことばは、ヨハネが夫人とその子どもたちに書いた手紙の文句だが、何度読んでも、私自身が持ち得ない真理と愛は、すべて父なる神と主イエス・キリストが用意していてくださるのだということにハッと思い至ったからである。

 現に、看板には四年間、使われずに放置していた画鋲が刺されたまま、5、6個残っていた(こども用の習字用紙に毛筆で書き、その2枚を貼り合わせるのに用いていた)。風雪のもとすっかり錆びてはいたが健在だった。それは私の怠慢をじっと我慢していてくださった神の愛のあらわれに他ならないと思わされた。早速、昼間の交わりで私の決心を知り、一声かけてくださった冒頭のキリスト者とは別の友に、この喜びをLINEで知らせたところ「おー。辛抱強い画鋲。鋲は鉄の兵隊ですね」と感想を寄こしてくださった。まことにそのとおりで、神が遣わされた兵隊を思うた。

※このことについてはブログのあちらこちらで触れているが、次のものなどその一つである。終わりまで読んでいただけると、その時の様子は少しはお分かり願えると思う。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/09/blog-post_28.html

2023年9月28日木曜日

ナイチンゲール語録

うろこ雲 海を描いて 彼岸花
 三日前に(9/25)珍しい光景に遭遇した。随分前に、と言っても9/19の迫田さんのブログhttps://www.sakota575.com/になるが、画面上で今年の秋の彼岸花の健在ぶりを拝見させていただいていた。

 その私が、いつものように古利根川の川縁を散歩しようとして、堤内地から堤防に上がろうとした時、その急斜面にたくさんの彼岸花が咲いているのに気づいた。ああ、彼岸花は(暑い夏が続いたにもかかわらず)正直に季節を知らしめてくれているのだなあと感謝の思いにさせられた瞬間であった。

 と同時に、目の前に広がる青い空、うろこ雲、夕方間近であったので東の空には月さえも見える景色に目を見張らされた。思わずiPhoneを構えた。家に帰ってその画面を見ると、緑の草々の上に海が広がっているように見える。海があろうはずがない。もちろん古利根川の川面が見えているのでもない。ただ秋の空が演出した一シーンだった。

 さて、過去3回にわたり紹介してきた、田中ひかるさんの著作『明治のナイチンゲール 大関和物語』で肝心要のことを抜かしてしまった。忘れないうちに付け足しておく。それはナイチンゲールについてだ。日本における最初の看護婦誕生のおり、大関和たちが教師アグネスが秋に来日する前に英語教師峰尾の指導のもとに最初に取り組んだのは、ナイチンゲールの『Notes on Nursing』(看護覚え書)の翻訳であった。峰尾は生徒に話す。

「ナイチンゲールはイギリスの看護婦です。クリミア戦争のとき、38人からなる篤志看護婦団を結成し、短期間のうちに野戦病院における死亡率を43パーセントから2パーセントにまで激減させることに成功しました。これによって看護婦の必要性を世に知らしめました。夜間、ランプを手に全長6キロもある野戦病院の病棟を巡回し、眠れない患者、苦しむ患者に寄り添う姿は、『ランプの貴婦人』『クリミアの天使』と呼ばれました」(同書76頁)

 そして以下は「ナイチンゲール語録」と言ってもいいものだ。

「あなた方は、自分が十分な仕事を成し遂げたときに、『女性にしてはお見事です』などと言われることを望んでいないであろう。ましてや『見事だけれども、やるべきではなかった 。なぜなら、それは女性にふさわしい仕事ではないからだ』と言われるからといって、仕事をすることをためらうこともないだろう。あなた方は、『女性にふさわしく』あろうとなかろうと、とにかく良い仕事をしたいと願っているのだ。『女性にしてはお見事です』と褒められたところで、その仕事が優れたものになるわけでもないし、男性の仕事とされていることを女性がしたからといって、その仕事の価値が下がるわけでもない。どうかあなた方はこうしたたわ言に耳を貸さず、誠心誠意、神に与えられた仕事を全うしてほしい。」(83〜84頁)

「(矢島揖子は言う。)看護ぞれ自体によって救える命もあれば、看護婦という職業を確立し、女性の経済的な自立を図ることで、間接的に救える命もあります。ナイチンゲールも、They're a lady, be independent. Stand up by your foot.と言っています。『女性よ自立しなさい。自分の足で立ちなさい。』」(91頁)

「看護婦は他人の噂をふれ歩くような人間であってはならない。作り話をしてはならない。受け持ちの病人に関して質問をする権限を持つ人以外から質問を受けても、何も答えてはならない。言うまでもないが、看護婦はあくまでも真面目でかつ正直でなければならない」(106頁)

「(白衣の天使は)花をまき散らしながら歩く者ではなく、人を健康へと導くために、人が忌み嫌う仕事を感謝されることなくやりこなす者」(122頁)

「Regardless to any work, it is only in the field is to be able to learn in practice.(どんな仕事をするにせよ、実際に学ぶことができるのは現場においてのみである)」(176頁)

「病院の第一の条件は、患者に害を与えないことです」(185頁)

 これらの断片的に記されている、ナイチンゲールの考え方は、読者である私にとっていずれもゆるがせにできないことばであった。そしてこの本において最後まで決着のつかない問題がナイチンゲールの本意をめぐって、大関和と鈴木雅との間で繰り返される。看護婦は献身・自己犠牲を旨とすべきかどうかという大問題であった。

「犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、活発な女性こそ、本当の看護婦といえるのです」「犠牲なき献身こそ真の奉仕である」(265頁)

 その後、25日には東京新聞の「本音のコラム」欄で、看護師の宮子あずさ氏は「裸の王様」と題して例の女性差別の原点がどこにあるかを明らかにしていた。翌日26日には、某自治体の市長選挙の立候補者の出馬動機を紹介する文中に「信条はナイチンゲールの『白衣の天使とは人々の苦悩を背負う者のことである』という言葉だ」があった。偶然とは言え、私にとって、もはやナイチンゲールは単なる偉人ではなくなった。今夏の苦しい日々の末、このような人々の存在に遅まきながら気づかせていただいたことに尽きない感謝を覚える。

 最後に蛇足ながら、二つの良書を紹介しておきたい。

『ナイチンゲール 看護覚え書 イラスト・図解 でよくわかる!』
                    (金井一薫編著 西東社)

『ナイティンゲール 看護覚え書 決定版 』
    (ヴィクター・スクレトコヴィッチ編 助川尚子訳 医学書院)

神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。・・・そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。(旧約聖書 創世記1章26節27節31節 2章1節2節)

2023年9月26日火曜日

大関和(おおぜき ちか)物語(下)

秋来る 文化の宝庫 図書館
 和は、娘「心」を亡くして傷心のままキリストを信じ切れないで、悶々と八年間を過ごす。そして、明治40年(1907年)のころのことだろうか、和は50歳になっていたが、困窮している人々のために炊き出しの奉仕の中で一人の人物「安田」と偶然出会うが、そこで意外な事実に直面する。途中からで失礼だが、著者田中ひかる氏の叙述を引用させていただく。(同書279〜281頁より)

「夏の猛暑の日、和は若い看護婦たちと一緒に、鶏肉とネギを加えたうどんを作り、大鍋ごと井戸水で冷やしてから、「冷やしうどん」として提供し、住民たちから喜ばれる。育ち盛りの子どもたちは何杯もおかわりをし、白衣にエプロン姿できびきびと働く看護婦たちに憧れのまなざしを向ける女の子たちもいた。

 和が額の汗をぬぐいながら辺りを見まわすと、安田がいつものように空き地の片隅に座り、食前の祈りを捧げている。以前に比べると、ずいぶんと痩せたようだ。顔色も悪い。近づいていき、「安田さん、どこかお悪いのではありませんか。私が付き添いますから、大きな病院で診察を受けませんか。すぐそこの慈恵医院が施療を行っています」と声をかけた。芝新網町の目と鼻の先にある慈恵医院は、創立以来、貧者への無償診療を続けていた。

 安田は、「自分の体のごどは自分が一番よぐわがってるよ。大丈夫。心配すんな」と言いながら、うどんを口にした。そのとき、弱い地震があった。すぐに収まったのだが、安田は落ち着かない様子だ。
「安田さん、意外と気が小さいのですね』
 和が軽口を叩くと、彼は少し躊躇(ためら)ってからこう言った。
「おらぁ明治29年の三陸地震のどぎ、大津波で家族をみんな亡ぐすたんだ。四人いだ子どもだづも全員亡ぐすたのさ。もう10年以上経づげっとも、地震がくっとあの日のごど思い出すておっかねぐなんだ。もうあんな思いは二度どすてぐね。みんな忘れでくて、遠ぐさ遠ぐさど歩いで、東京さ着いだのさ」

 和は言葉を失い、無精ひげに覆われた安田の横顔を見つめる。この人はいったいどんな思いで、この十数年を生きてきたのだろう。深い悲しみや埋められない喪失感を知っているからこそ、自分を気遣い、心の命日に声をかけてくれたのかもしれない。それなのに「娘のことには触れないでください」などと突っぱねてしまった。
「このごとを人さ話したのは、看護婦さんが初めてだど、話せるようになったつうごどがなあ。少すは悲すみが和らいでいるのかもしれねえなあ。家族さは申す訳ねぇげっとも」

 最後の方を独りごとのように言いながら安田がふり向くと、和が滂沱(ぼうだ)の涙をエプロンでぬぐっていた。この日、安田はうどんをほとんど残した。

 二週間後に芝新網町に炊き出しへ行くと、安田の姿がなかった。和が自宅を訪ねると、すっかりやせ細った安田が、せんべい布団にくるまっている。彼は自分が末期の胃癌であることを知っていた。和は、炊き出しの雑炊を食べさせようとしたが、もはや彼の体は受け付けなかった。

「おらは耶蘇教さ出会えでほんとによかったよ。天国で子どもだづさ会えるど思うど、死ぬのもおっかねぐねぇ」
「天国へはいつでも行けますよ。もう少しこちらにいてください」
和が安田の手を握る。
「いや、おらはもう十分生ぎだ。最期に看護婦さんさも会えだ。そろそろ天国さ行がせでもらう。看護婦さんの娘さんさ会ったら、『母ちゃんは、人のために一生懸命に働いでだよ』ど伝えるよ」

 安田が心に語りかける姿が目に浮かぶ。心が亡くなったばかりの頃、まわりから「心ちゃんは天国にいるから、いずれ再会できる」と言われても、まったく聞く耳を持てなかったが、今は安田と家族の再会を強く信じることができる。同様に、自分もいつか心に会えるような気がしてくる。

 この日から毎日、和は安田の看護に通う。雲一つない秋晴れの午後、安田は家族が待つ天国へと旅立った。」

 和の悲しみを癒すにふさわしい安田氏の最後の主にある証ではなかっただろうか。このあと和自身はさらに20数年生きる。そして公的には「大正12年9月1日の未曾有の大震災を経ましてから、兎角(とにかく)病気がちになりまして、ただ神の寵愛の中に静かに暮らしております」と昭和3年(1928年)に述べられていたが、四年後74歳で召されて行った。

 今年は時あたかも関東大震災から百年が経過したとして、様々な追悼記事を目にする。大関和たちはその関東大震災の中でも機敏よく負傷者を救助する。それはいかに歳を取ろうと若き時に身につけたトレインド・ナースとしての気概であったと思う。そしてその救護活動は吉原の娼妓たちへと向かい、これが看護婦大関和の最後の仕事であったという。文字通り、その生涯を捧げることになったその成果は、百年後、衛生思想の普及、衛生環境の整備とともに、トレインド・ナースは、今日看護となって女性だけでなく男性も従事する専門職になっている。

 振り返れば、ここ3、4年、百年前のコレラや赤痢という伝染病に置き換わり、猛威をふるう新型コロナに振り回された日々であった。この間、このコロナという感染病予防とその治療のために医療従事者の方々がその最前線でどのように戦っていてくださるかは想像に難くない。そのような時に、その原点に立ち返るべく、この骨太で実に行き届いた著作『明治のナイチンゲール 大関和物語』を江湖にお送りくださった著者に深甚なる感謝を捧げたい思いで一杯である。

『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。・・・・』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(新約聖書 マタイの福音書25章37節、40節)

2023年9月25日月曜日

大関和(おおぜき ちか)物語(中)

七人の こども戯る 秋日
 こどもの姿を見るのは楽しい。近寄って仲間に入れてもらいたくなる。大関和は終生こどもを愛した。そのような中で二人のこども(六郎と心)を置いて(母にまかせて)の看護婦への道、看護婦養成者としての道は患難と忍耐の日々だったにちがいない。そんな大関和の生涯を著者は等身大で描いてみせる。

 「等身大」とは何であろうか?私たち普通の人間が抱く感情・葛藤はこのような偉人の中にも存在すること(への共感)である。そもそも私が昨日のブログでナイチンゲールについて記した思い、特別視こそ、見当違いな見方であったと、この本を読んで思わされ、反省させられた。

 ナイチンゲールこそ、かのクリミア戦争の場にあって敵味方を問わず人々のいのちを守るために働いた人であった。そのナイチンゲールの到達点となったのが「トレインド・ナース」であった。それまで日本では「看病婦」こそ存在したが、それは卑しめられた職業であった、と言う。医療行為のすべてについてその技能を完全に習得した上で病人にあたる、そして医師と同等の立場で働く「トレインド・ナース」(看護婦)が育つことであった。

 そのために立ち上がったのが、数名のアメリカの宣教師、それを支えるアメリカのキリスト者たち、また日本のキリスト者であった。「耶蘇」と忌み嫌っていた家族の一員である大関和が、キリスト教に惹かれていったのは、二つあったと言う。一つは妾を容認する日本社会に対して、聖書の原則が一夫一婦制にあることの意義(※)、二つは讃美歌の存在であった。その彼女に看護婦の道備えをしたのが、和に洗礼を授けることになる牧師植村正久であり、アメリカ人のリディア・バラ、マリア・トゥルーの祈りであった。

 大関和にとって、家族以外に、生涯その心の中にあったのは、婚家先で過ごした四年間の間に、姑に命ぜられるまま、不毛の田んぼを一人前にするために、手伝ってくれた婚家先の夫の妾の子・綾、小作の娘マツの存在であった。その二人がある日突然いなくなった。

 自らの二人のこどもを何よりもたいせつにした大関和は、このように愛する綾が、またマツが家の借金の肩代わりに売られて、女郎の境涯に閉じ込められているにちがいないという何とも言えない哀憐の情を持ち続けたのであった。著者はその大関和をこのような心の内部から突き動かした事実を描いて行く。

 戊辰(ぼしん)戦争、日清戦争、日露戦争、関東大震災、コレラ、赤痢の流行、どれ一つとして、大関和にとって無関心であり得た出来事はなかった。そのような中で「トレインド・ナース」として結実していった歴史がたどられる。著者は、この一人の人間の手に余る事業をバランス感覚よく、彼女のライバルと言っても良い鈴木雅(昨日の絵の中央のアグネスの左側の女性)との協力関係をとおして描写して行く。そこには「シテ」と「ワキ」を思わせる微妙な関係が描写され、「トレインド・ナース」とは何かが具体的にわかる和と雅の対話として創作されている。

 最後に大関和と牧師植村正久について書かれているエピソードを紹介しておく。それは大関和が困難にさしかかるとき、必ずと言っていいほど、牧師のところに昼夜を問わず人力車を走らせては相談に行った事実である。そのことについて、身近にあった植村牧師の三女環が次のように記しているという。

「大関ちか女史は傑出した婦人であったが、よく泣かれた。繁々来られては堰(せき)を切って落とされる。すると大関さんを愛敬していた父は慰めるのか揶揄(からか)うのか分からぬ調子で『あなたはナイチンゲールなんでしょう。それじゃ宛然(えんぜん)『泣キチン蛙』ではないか』などといっていた」(同書110頁より)

 しかもこの大関和が最愛の娘「心」を亡くした時には、その悲しみのあまり、とうとう牧師の許を去って行く。しかし著者はその後の大関和の姿を描写することを忘れてはいない。それは明治29年の三陸地震の時、全家族を失った元漁師が行き倒れ寸前にクリスチャンに助けられ入信したが、炊き出しを受けざるを得ない境遇にあったとき、病を得て、大関和看護婦と出会う場面である。明日はその次第を同書から抜粋引用させていただく。

※今日の主題とは直接関係ないが、私は次の一人のご婦人が亡くなる前にこどもたちに残された遺言が一夫一婦制の真実を証しているのでないかと思う。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_23.html

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(新約聖書 マタイの福音書11章28節)

2023年9月24日日曜日

大関和(おおぜき ちか)物語(上)

六人の 白衣の天使 巣立つ秋
 やっと涼しくなった。今夏の暑さは正直参った。何をする気力もなく、そのためにテレビをいつもよりは見る時間が多くなった。そんな日々の間に、一週間ほど前、1963年に公開された『にっぽん昆虫記』の映画を鑑賞した。のっけから薄暗い土間が中心で、話される言葉は東北弁で私にはわかりづらかった。ただ主演の左幸子の演技に引きずられるようにして、とにかく全部観終えることができた。もっぱら、貧困と女性の虐げられた性を凝視させられた二時間であった。

 翌日、今度は『みとりし』という、2019年に公開された映画を観た。いずれ訪れるであろう死を真正面に取り扱っていて、正直目を背けたくなる内容だったが、この映画もまた、死と女性の存在を深く教えられる内容だった。それと並行するかのように、岸田首相の内閣改造にまつわる発言「女性ならではの感性や共感力も十分発揮していただきながら、仕事をしていただくことを期待したい」がいろんな方々から問題とされていた。しかし、果たして自分は無縁と言えるだろうかという思いが、実は私にはあった。

 果たせるかな、そんな日の次の日に、久しぶりに図書館に行った。そして何の気なしに書架の新蔵書棚を見ている時、この本『明治のナイチンゲール 大関和物語』(田中ひかる著 中央公論新社 2023年5月刊行)を見つけた。孫娘が看護師を志していることもあって、この手の本に無関心ではない。しかし、「ナイチンゲール」ということばにはひっかかった。何か、立派な看護婦さんの模範的な行為が描かれているのではないかという警戒心(?)であった。そんなものは読みたくないという私の「わがまま」があった。

 しかし、読んでみて驚いた。ここには連日観た映画の底辺を抉(えぐ)る「答え」が書かれていることはもちろんのこと、今もなお続く一国の首相自身も陥っている日本社会の陥穽(かんせい)を、一人の看護婦「大関和(おおぜき ちか)」の誕生の描写をとおして深く教えられ、考えさせられたからである。さしずめ、廃娼運動を始めた矢島揖子(やじま かじこ)のことばとして作中で語られているものなど、明治時代のこととは言え、今だに日本社会の根底にある病根を指し示す一つでないだろうか。

「公娼制度は遊郭の女たちだけの問題ではありません。金で女を買うことができる、それを政府が公認しているということが、この国の女性観に決定的な影響を与えているのです。富のある男が妾を囲うことが誉れとされるのも、女は金で買えるという考えがあるからです。」「政府は男には遊郭を用意しながら、女が不貞を働けば姦通罪に問うのですから、これ以上の不公平はありません」(同書118頁)

 このような日本社会の病根に対して、下野国黒羽藩(現栃木県大田原市)の家老の娘という出自を持つ大関和(おおぜき ちか)が、妾(めかけ)を良しとする婚家を抜け出て、二人の子どもを持つ身として、その後いかにして自立していくかが描かれていく。婚家先での大地主の嫁の地位を捨てた彼女は生活の糧を得るために、最初携わった仕事は「女中」であった。その彼女がめぐりめぐって、どのようにして日本で最初の「看護婦」になり、それだけでなく、たくさんの看護婦を養成したか、その歩みが著者の筆を通して、ていねいに追われていく。

 私はこの本を結局二回読まざるを得なかった。それは二回読んでも消えることのない感動の物語であったからである。そしてこの本の表紙絵(上掲のもの)こそ、そのなぞを一挙に明らかに示してくれる格好の絵でないかと思った。

 時は、今を去る、135年前、明治21年(1888年)の秋のことであった。桜井看護学校での一年目の座学、二年目の病院実習を終えての修了証書が卒業生六名に渡されたが、それを記念して、同校の寄宿舎の庭で撮られた写真がもとになったイラストである。この本の中心人物である大関和は同校の生徒として、正面に座っているスコットランドから来た教師アグネス(40代)を中心にして向かって右に座っている。その左には和が何かと頼りにした戦友とも言うべき鈴木雅が座っている。いずれも28歳、29歳で、この時それぞれ二人の子どもを持つシングルマザーであった、それ以外の四人はいずれも20歳前後の若き乙女たちであったが、その六人のうち三人が看護婦に、そして残りの三人は看護婦でありながら廃娼運動にかかわっていくのだ。

 職業としての看護婦が市民権を得る道と廃娼運動をとおし女性の真の解放を勝ち取る戦いは明治・大正・昭和の激動の時代の中で、相携えて進みゆく二つの働きであった。それが一枚の写真のナイチンゲール看護学校の制服を模した、「スタンドカラーの紺のロングドレスとその上に胸当てのある白いエプロンをかけ、動きやすい編み上げ靴を履いた」(同書98頁)日本初の看護婦誕生を記念すべき写真に盛り込まれていると私には思われてならないからである。そして、そのふたつの道は、大関和を、鈴木雅を終生終わることなく突き動かした動機であった。

主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。(旧約聖書 詩篇3篇1節〜3節)

2023年9月4日月曜日

その名は「犬蓼(イヌタデ)」

イヌタデの 盛んなる秋 訪れる  
 8月初めに、帰省して雑草を刈り取ったはずなのに、もう「どくだみ」も「すすき」も芽を出していた。根っこから引き抜かないのでやむを得ない。ところが一昨日、帰省したら新たな雑草が、しっかりと根を張って勢い盛んであった。私はすっかり頭を抱え込んだ。そのために今回は同行しなかった家内に、新たな雑草があらわれたとばかり、その名前は何だとLINEを使ってこの写真を送った。

 果たせるかな、家内は「イヌタデ」だと宣った(※)。それにしてもなかなか可愛い葉っぱだなと、写真を見て思っていたが、この雑草めとばかり限られた時間の中で「イヌタデ」を根っこから片っ端に引っこ抜いて、やれやれ一安心と思いながら、こちらに昨日遅く帰ってきた。

 家に帰って、ネットでさまざまなことを調べるうちに、「イヌタデ」は「アカマンマ」とも言われ、先端に赤い果実を咲かせ、秋の季語であることを知った。途端に我が行為の愚かさを想うた。考えてみれば、確かにこれまでは気がつかなかったが、秋の訪れとともに「イヌタデ」は芽を出すべき草花として、今や人類が不倶戴天の敵と称する「沸騰化」の夏にもかかわらず、ちゃんと育って、今地上に姿を現したのだ、むしろ感謝こそすれ、何と短見な行為よと我ながら恥ずかしくなった。

 かの憎き「どくだみ」についても、稲畑汀子に

十薬をはびこらせたる庭に住む 

を初めとして様々な俳人の方が、いろんな観点から俳句を詠まれていることを知った。

 遅まきながら、私も風流を解したいなと思わされた。

※家内の言 そのときパッと名前が出てきた。父のおかげだと、小さい頃お父さんに連れられて草花を愛でたことを懐かしんだ。そして、これも牧野富太郎盛んなりしころの小学校教員であった父の姿であったとも言う。

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。(新約聖書 1テモテ4章4節)

2023年8月30日水曜日

初代田藤清風氏の歌集(下)

りりしくも 輝く琴の 音聞きたし
 短歌は肉声とその内に作歌する方の世界観が如実に現れる。今回、たまたま知人の紹介で、そのご存在を知ることになった田藤さんだが、その人となりは四つに分かれるということだ。その葬儀の式辞で、「聖しこの夜」の日本語作詞者であり、パスカル・パンセの翻訳者でもある由木康(ゆうきこう)牧師が「田藤兄を天上に送る」と題して次のように語っておられる。

 「一つは箏曲家としての面である。16歳の時から75年間、その道を歩み、山田流の蘊奥を極め、多くの弟子や孫弟子を養成された。古曲を保存し伝授するとともに、「星の光」「老春」などの新曲を創作された。芸能人として最高の叙勲を受けられた。

 次は国文学者としての面である。田藤兄は学校教育は受けなかったが、頭脳明晰、記憶の抜群の人で、国文漢籍の知識においても一家を成していた。その学問的成果は「山田流箏歌講話」「箏曲八葉集」などの著書にあらわれている。

 第三は歌人としての面である。田藤兄は短歌を趣味として、三人の歌人たちの指導を次々に受けつつ、その道に精進し、数千首の歌を詠まれた。それらは同兄を知るための最も手近な資料である。

 第四はキリスト者としての面である。田藤兄は15歳の時に受洗して以来、76年間信仰の道を歩み、東中野教会に転会してからでも51年以上教会生活をつづけられた。その間つまずいたり迷い出たりマンネリに陥ったすることなく、常に求道し研究し実践してこられた模範的キリスト者であった。このような持続的でしかも熱心な会員を与えられたことを私は神に感謝し、その祝福がご遺族をはじめ関係者と教会全体に及ぶことを祈るものである。」

 さて、1884年(明治17年)生まれの、田藤氏は1975年(昭和50年)に召されるまで、上記の説明によると詠われた短歌は数千首に及ぶという。前回に続いて、最初に二句、

二葉教会の頃 と題するものから写す。

ヨハネ伝講義を聞けばわき出づる命の水につかれいやさる
                     (聖書研究会)

とはの光こころにしめてかへるさに空をあふげば星はまたたく
                     (同 前)

 次に最晩年の短歌を写してみる。

1974年(昭和49年) 90歳

あけぼの翼はややにひろがりて清しき朝の大気みなぎる
                     (御題 朝)

み言葉をくちずさみをれば時として天使の声きこゆ心地す
                     (家にて)

ゆたにして紫都子と語る三時間調べしことを告げしよろこび
                     (紫都子とかたる)

みことばあり琴うたありてしみじみと聞くにかたりて心はみつる
                     (同 前)

肩のみか爪先までも暖かしなれが手なれの心づくしに
                   (誕生日に嫁道子より贈らる)

神の国と義とを求めば隠匿はやみて物質は順調にめぐらん
                     (聖書をよみて)

奉仕する心深めば今とてもパンと魚との奇蹟起らん
                     (マタイ伝6章)

身もたまも神殿の再建に打込みし古預言者の姿にうたる
                     (旧約をよみて)

現代の我らは心を神の宮となるまでいそしみせちに祈るも
                     (同 前)

梅見れば大倉山の梅園に妻と遊びし昔おもほゆ
                 (マンションの三階からのながめ)

老いぬれば教の親も教子も友垣となりかたるは楽し
                     (教子と語る)

洋和をつれて義雄とたき子とは箱根めざして朝戸出にして
                     (義雄一家旅立つ)

あしの湖の遊覧船にのらんとて驚きの声す洋和の電話
                     (同 前)

尺にあまるへちま七つはぶらさがり竹架もつるも重げに支ふ
                     (へちまの花)

ものみなの価あがるをわが庭のへちまはゆたにぶらさがりをり
                     (同 前)

君迎へし米のよはひのことほぎに信仰に生きし神の加護かも
                     (喜代子の君米寿を祝ふ)

九十年歩みし地上の旅をわりねむらせ給ふ再臨の日まで


あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。(新約聖書 ヘブル人への手紙10章37〜38節) 

2023年8月29日火曜日

初代田藤清風氏の歌集(上)

スイスイと 船に寄り来る 白鳥

  歌とは不思議なものだ。歌は魂に安らぎを与える。昨日述べた通り、霊肉とも疲れおる、帰りの電車内で、一冊の歌集は我が心を占領した。どんな短歌が記されていたか、延べ数百句に及ぶ作歌から適宜に選んでみた。

1915年(大正4年)36歳
暑き日を母はゆきます一すじに悲しかりけりたゞ一すじに
              (母没す)

しみじみと言ひ残しましし言の葉の思い出でられ胸せまりくる
              (同 前)

1918年(大正7年)39歳
生まれきてたちまちゆきぬみ使いのかはりの玉となれやみどり児
              (匡彦2月生れ3月没す)

1923年(大正12年)44歳
だしねけに降るは瓦よ大なみよたつは砂塵よ人の叫びよ
              (震災)

ありやなしや心にかかる雲わけて青山のはに月は出にけり
              (同 前 父の安否を気遣う)

肩をはり巨人いかるにさも似たり入道雲に炎うつりて
              (同 前)

夢かともかつは思へど耳にきき目に見るものはうつつ世にして
              (同 前)

石の柱まれに残りて人のわざ嘲る如し大なみのあと
              (同 前)

1946年(昭和21年)57歳
師は病むと降るさみだれにおとなへば庭のダリヤは咲きてかつ散る
              (三浦直正師 逝去)

とひくれば庭の草木はそれながらむなしきやどり君はいまさず
              (同 前)

なれのたまいづくにあるも尋ねあひわびごといはん我世果てなば
              (とき子死去)

あわれみの神きこしめして登喜のためいのるせつなる父の願ひを
              (同 前)

ああ神よみし給へさきはへませ世を早よふせし登喜子のたまを
              (同 前)

1950年(昭和25年)61歳
深さをば尋ね尋ねて神の道たえず歩みし君はゆきます
              (野口幽香刀自永眠)

かぐわしき香り残りてゆきし君のみ足のあとをいざやたどらん
              (同 前)

君の霊に供えし花の香もたかくきさきの宮もみ名をあふがるる
              (同 前)

(引用者注釈 野口幽香は著者が出席した教会の創設に深く関わった人物である。くわしくは次のサイトを参照せられたし。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E5%B9%BD%E9%A6%99 

なお、『野口幽香の生涯』という本があり、絶版だが、国立国会図書館のデジタルライブラリーで読むことができる。サイトは以下である。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001219892-00 )

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(新約聖書 ヘブル人への手紙11章13節)

2023年8月28日月曜日

画竜点睛を欠く?

日差し背に 我が妹ともに 歩みたり
 いつまで、この暑さは続くのだろう。昨日は三月に一回行く、伊勢崎へと出かけた。暑さボケなのだろうか、絶対忘れることのない、「携帯」を忘れてしまった。その上、「聖書」も忘れてしまった。家を出る時は、二時間弱の電車内で、新約聖書のヘブル人への手紙をはじめからおわりまで通して読もうと、意気込んでいたのに・・・。その二つを欠くとは、私にとって「画竜点睛を欠く」思いであった。

 それはそうと、伊勢崎は今や日本の中でも高温を記録する有名地になっている。伊勢崎駅前の様子は時々、TVが放映する。駅に着いたが、いつも迎えに来てくださる車が見当たらない。「携帯」がないのでこれは大変だと思わされた。ジタバタしても今更どうなるものではない。その駅頭で五分ばかり待った。ところが、駅頭には冷水のシャワーが何箇所もあり、煙のようにして涼を与えてくれた。なかなか粋な計らいである。

 程なく車で迎えに来てくださった方に、その旨を話すと、「(駅頭にそのような仕掛けがあることを)知らなかった。いつも車を利用するので・・・」と言われた。みなさんと合流するなり、「聖書がない」と訴え、早速聖書を貸していただいた。礼拝・福音集会と滞りなく終わった。報告の時、一人の方が、ご両親の納骨とそこにいたった恵みを証してくださった。その後、司会をなさった、伊勢崎の集会に自身のかつての医院を提供してくださっているご主人が、台(メッセンジャーが話す)の上に活けてある花について、「(花を準備してくださった方が)話をしてくださるのでお聞きください」と言われた。

 花は三、四種類あっただろうか、黄色の花や、ピンクの花や色は同じでも花の形も違う、見るだけでもすばらしかったが、それぞれの花について、その方は花の名前、花言葉など話してくださった(※)。残念ながら、私は携帯は持っていず、写真も撮れない、一方、耳が補聴器つけていても十分聞き取れないので、せっかくの話もわからなかった。けれども先の伊勢崎駅の粋な計らいにまさるとも劣らない至福の時であった。総勢十三名の礼拝者であった。小さな集会である。しかし、そこにはお互いに心からなる交わりがある。これこそ主が私たちにくださる恵みだと思わされた。

 それだけでなく、帰る際には、花を活け、説明してくださった方から、ご親族の出版された一冊の歌集『音のたえま』という御本を託された。「読んでください、(返すのは)今度来られた時でいいですから」と言われた。帰りには、集会のご主人ご夫妻に駅まで送っていただいた(朝迎えに来てくださったのはそのご夫妻の長女の方だったが・・・)。

 いよいよ帰りである。二時前になったであろうか。前夜、メッセージの内容や、身辺に起こされているさまざまなことを考えて寝つかれなかった疲労を回復すべく、ここは眠るに限ると思っていた。ところがどうしたことか、『歌集 音のたえま』(初代田藤清風作 非売品)を手にし、結局、春日部までの車中で読み耽った。行きに「聖書」を忘れた私に、帰りには「歌集」が託されたのだ。その方の愛を思い、感謝した。そして、その夜であったか、駅に迎えに来てくださったお嬢さんからもLINEをとおしてであったが、「遠くからメッセージにきてくださって、ありがとうございます」と優しい心をいただいた。

 主は、この暑さの中でも、十分こうして互いに愛する交わり、友を与えてくださっているのだと思わされた。伊勢崎のメッセージの題名は「神の霊感」にさせていただいた。引用させていただいたみことばを書き記しておく。

※その後、その方から教えていただいた。ミニひまわり、藍、昼咲月見草の三種類であった。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(新約聖書 2テモテ3章16節)

2023年8月18日金曜日

彦根大手門橋から東京大手町へ

夏盛ん 涼求めて 屋形船
 故郷訪問を企画して訪れた、子どもたちの家族と初めて、屋形船(やかたぶね)なるものに乗った。この屋形船は彦根城の内堀をほぼ一周するもので、黒御門の橋が撤去され、土盛りされて道路になっているので、その手前でUターンし、出発点に戻ってくる全長40数分の行程であった。

 彦根城は高校・大学をとおして最低でも七年間、内堀を眺めては通っていたが、それがまさかこの歳になって堀中から石垣を間近に眺めることができるとは思ってもいなかった。江戸城と彦根城しか見られないと言う、「腰巻石垣」「鉢巻石垣」※についてガイドさんから説明があった。高校時代、中村直勝さんからお聞きしたお話をまたも思い出した。(※土塁と石垣を組み合わせた風景のうちに見られる。堀の水で土塁が崩れないように基礎部分を石垣で覆ったものを腰巻石垣、土塁の上にさらに石垣を積んだものを、鉢巻石垣という、鉢巻石垣の上には、土塁上には建てられない櫓なども建てることができた。

上部が鉢巻石垣、下部が腰巻き石垣

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/04/blog-post_16.html

黒御門前のUターンする屋形船に近づいてくる白鳥

 船を降りて、京橋口を出て、キャッスルロードをかすめたに過ぎない限られた時間の中での、彦根城の観光は終わり、午後は遠く甲賀流忍者の里を訪れた。50数年前、その近くで養護施設の保母として独身時代の家内が働いていた場所だった。子どもたち家族に車で連れて行ってもらったが、ちょっとした「ポツンと一軒家」に近づく心境だった。見渡す限り、田園風景豊かで、屏風のように取り巻く鈴鹿山系の山並みを見ながら、しばし昔のことなどを思い出していた。

 甲賀流忍者の里は、子ども連れが多く、元気盛りの年少の孫娘にとってエキサイティングなところであったような気がする。しばしの楽しみも、次の訪問地家内の実家挨拶・表敬訪問が控えていて、切り上げざるを得なかった。そして、その後、我が故郷に帰ったその足で、再び東京に向けての長躯の車の旅となった。折あしく、台風接近のニュースがおびただしく、私たち夫婦もこの際同乗しての家帰りとなった。そして朝の四時過ぎには東京に着いた。

 皇居のお堀のそばを車で帰ってきたが、10歳の孫娘が「東京にもいなかのようなところがあるのね」と言った。普段、東京都内に生活している孫娘にとっては、前日の「河内の風穴」見学をふくめ、この二日間は「田舎経験」であったのだ。その時、ポッと口から自然に出てきたのがこの言葉だった。おそらく脳裏に刻まれている彦根城のお堀と皇居のお堀が二重写しになっているのだろう。今回の旅行中に孫娘に、将来何になりたいのと聞いたら、「建築家」と答えていた。なぜと聞くと「工作が好きだから」と答えた。

 午前中、彦根城の大手門橋を屋形船に乗ってくぐっていたが、二十時間ほどのちには地下鉄の「大手町」駅まで送ってもらい、子どもたち家族とは別れた。二週連続で、長女家族と三男家族がわがふるさとを相次いで訪れてくれたが、やっと最終章を迎えることができた。五時半近くの半蔵門線の始発で春日部にまで無事に帰れた。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。(新約聖書 ピリピ人への手紙2章13節、14節)

2023年8月15日火曜日

冷たい水のようだ

友人からいただいたハガキ

 もう呆れ却ってものも言えない。ひさしく家を留守にして、滋賀の生家で日を過ごしたが、冷房の設備も一間だけで、こどもや孫たちと一緒に滞在するには、昔ながらの旧宅ではこの暑さはやりきれなかった(以前なら、たとえそうであっても十分涼しく過ごせたはずなのに)。そして、家に戻って手にしたのが、この暑中見舞い状であった。文面はさらに次のように記されてあった。

 「昨日の夜は突然のドシャブリの雨がふりました。夜に雨戸を閉める時、ミンミン蝉が家に入りました。油蝉はよくみかけますが、ミンミンはその美声をきくのみで姿はみた事はありませんでした。はじめて身近でみました。美しい蝉ですが、よくかけませんでした。堂々とした姿でした。今外にはなしました。空高くとんでいきました。匝瑳(そうさ)にて」

 いっぺんに、涼しさが戻ってきた。そして、同じ頃、私は滋賀の忍術屋敷(甲賀市)でたまたま見かけたトンボを追いかけるのに夢中であったことを思い出した。

 蝉と言い、トンボと言い、実に見事な羽根ぶりだなと思わずにはおれない。そしてその胴体のすばらしさ。「何をくよくよ川端柳」と不平を鳴らす愚か者よ、と主の叱責を身に覚える思いだった。そう言えば、彦根城を孫たち一行と散策中に城山高くトンビが獲物をみつけて交差するかのように飛び交っていた。いち早くそれに気づいた都会育ちの10歳の孫娘は嬉々として飛び跳ねるかのようだった。

 今は辛うじて生態系が秩序を保っている最後かも知れぬ。何とか、脱「沸騰化」の道はないものだろうか。

遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。(旧約聖書 箴言25章25節)

2023年7月31日月曜日

主に私は身を避ける

紺碧に 白の入道 輝けり
 ここは浅間山麓である。週末、知人の納骨の立ち会いを兼ねて、再び御代田のバイブルキャンプに出かけた。これで5月、6月、7月と出かけたことになるが、今回ばかりは、その涼しさに日頃の暑さに辟易している身に取り、大変な清涼剤であった。まさに「避暑地」である。

 もっとも避暑のためだけに、わざわざ時間をかけ、エネルギーを使い、山に登って行ったわけではない。避けどころを、主に求めて人々は全国各地から集われる。私もその中の一人であった。1990年から毎夏出かけている。30年余りの間に世代は着実に変わりつつある。

 今回、日曜の礼拝の後の福音集会でメッセージを取り次いでくださった方は、多分そのころはまだ十代に差し掛かろうとしておられらたのではなかろうか。その方は詩篇11篇を引用し、ヨブ記のみことばなどを次々紹介してくださった。ところで詩篇11篇は私にとり馴染みのある詩篇だった(と、思っていた)。その詩篇は以下のとおりである。

主に私は身を避ける。
どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。
「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
それ、見よ。悪者どもが弓を張り、
弦に矢をつがえ、暗やみで、
心の直ぐな人を射ぬこうとしている。
拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」

主は、その聖座が宮にあり、
主は、その王座が天にある。

 1990年、教会を退会するさい、私たち夫婦に示されたのは、この聖句の中の「拠り所がこわされた」という感覚であった。だから教会を出た。そのことに偽りはない。しかし、この詩篇の文面からすると、詩篇を書いているダビデが四面楚歌にあるような形で、まわりの人から非難されたことばが「拠り所がこわされたら正しい者に何かできようか」というもっともらしい語りかけであった。それに正しく答えたダビデの信仰が、冒頭の「主に私は身を避ける。」であり、そのあとの「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。」であることに気付かされた。

 もし、7月30日の礼拝でその方のメッセージを聞かなかったら、私の半可通の聖書理解(この場合は詩篇11篇がそれにあたるが)はそのままで終わったかもしれない。

 今回のキャンプを通して、また多くの人々とのお交わりをいただいた。それぞれ、メッセージとはまた違った照射の仕方で、そのお交わりを通して、自らの「自己中心」のあり方があぶりだされた。キャンプの良さは結局そこに尽きる。詩篇11篇4節のみことばを写す。

主は、その聖座が宮にあり、
主は、その王座が天にある。
その目は見通し、
そのまぶたは、人の子らを調べる。(旧約聖書 詩篇11篇)

2023年7月27日木曜日

セミに学びたい

育ち行き 抜け殻残し セミ鳴きぬ
 夕方、散歩中、セミの殻を四個も見つけた。いずれもしっかりと葉末に落ちることなく、つかまっている。土を這い出したセミは、脱皮し飛び立つためにこの草をよじ登って行ったのだろう。そして、時至り、羽化し、今度は木の梢へと飛んでいったのだろうか。幼き頃、何度か羽化するセミを観察した。梅雨も開け、いよいよセミ時雨の季節とはなった。

 相変わらず、世相は悲惨な事件が続出している。人の罪のなせるわざとは言え、悲嘆この上もない。セミはせっせと己が人生をまっしぐらに歩み、生を終えている。人間だけがどうしてこんなに互いが憎しみあって生きねばならないのだろうか。聖さを求めて、愛し合って生きる道を神様は準備していてくださるのに。

神はそのひとり子(イエス・キリスト)を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(新約聖書 ヨハネ第一の手紙4章9節〜10節、19節)

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。(新約聖書 コロサイ人への手紙3章13節〜14節)

 そして、この愛は、セミが脱皮して新しい世界に飛び立ったように、私たちの人生には確かなゴールがあることを教えてくださっている。

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態にはなることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。(新約聖書 コリント人への手紙第二5章1節〜5節)

2023年7月22日土曜日

「紫御殿」という草花

夏草の 紫御殿 珍しや
 いつも自転車で通る線路際の道、様々な花が次々と出迎えてくれる。一頃盛んだった葵の花は、ややすたれ、今や紅葉葵(もみじあおい)が目を惹く。白粉花(おしろいばな)もあちらこちらに、ヤマユリに混じって咲き、朝顔やひまわりの好季節に入っている。

 ところが先ごろ、紫色の葉っぱが、青草の中にあるのに気がついた。以来、何とかその花の名前をと探していたが、やっと見つかった。何と「むらさきごてん」だと言う。紫には高貴な印象がつきまとうから宜(むべ)なるかなと思った。

 ツユクサの一種だと言う。ツユクサと言うと、あの可憐な水色と黄色のコントラストも鮮やかな花弁を思い出す。この「むらさきごてん」も先端にほんの小さなピンク色の花弁をのぞかせる(この写真ではとらえきれていないが・・・)。ほとんどNHKの朝ドラ「らんまん」を視聴していないが、牧野博士ならずとも目を見開けば、植物の世界は無限で、造物主のみわざをあらためて思わされる。

 それにしても名前とはありがたいものだ。名前、名辞をとおして私たちは思考もし、人々と認識をともにすることができるからだ。そしてそれを通してより未知の世界に分け入ることができる。ましてや、人一人を知ることはそれ以上の重味、意味があるのではないだろうか。

 最近、私は「柏木義円(1860〜1938)」「朝河貫一(1873〜1948)」「東郷茂徳(1882〜1950)」という三人の人物の歩みを時代の流れの中で追っているが、私にとっては平々凡々と過ごしてきた今日までの歩みを、もう一度一つずつ尋ね直す良き思索の時となっている。まさに一面青草の中に忽然と現れた紫の花、「紫御殿」のような思いがしてならないのだ。

神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。・・・彼は三千の箴言を語り、彼の歌は一千五百首もあった。彼はレバノンの杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣や鳥やはうものや魚について語った。(旧約聖書 1列王記4章29節、32節〜33節)

2023年7月19日水曜日

東郷茂徳の生涯

凛と咲く 槿の花の 夏だより
 いったい梅雨はどうなったのだろうか。梅雨前と言う自覚もなきまま、夏本番に突入している感じである。その中でも目立つのはあちらこちらで開花せる槿の花でないだろうか。いや槿の花だけではない。花々はこの暑い最中、私たちに涼風を投げかけてくれている貴重な存在である。と言っても、秋田の内水氾濫と思われる悲惨な被害状況、はたまた降水量過多の九州各県の土砂崩れの惨状など各地で被害に直面しておられる方々を思うと、こんな呑気なことを言ってもいられない。速やかな復旧をと願う。

 さて、過日より読み進めていた総頁数500頁に及ぶ『祖父東郷茂徳の生涯』(東郷茂彦著)をやっと斜め読みではあるが、全編目を通すことができた。その生涯に圧倒されて一言で紹介できない自分が今いる。せいぜい、この槿の花に代弁してもらうしかない。槿は韓国の国花だが、東郷茂徳は始め朴重徳と称した。祖先は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、強制的に連行されて来た優秀な陶工であったと言う。(ちなみに以下のトーゴーさんの日本記者クラブで語られた講演がある。題して「朝鮮半島の今を知る」と言う三年前の記録があるが、そこでも触れておられる。 https://www.youtube.com/watch?v=Nby_3UmsU_w&t=605 )

 その彼が長ずるに及んで、東西文明の和を講じんとして外交官を志し、戦前日本の太平洋戦争開戦と終戦の二度にわたって外務大臣を務めた。それもあくまでも戦を止めようとして必死の努力をした結果であった。そして最後は心ならずも、極東国際軍事裁判で、勝者であるアメリカを中心とする連合軍に裁かれた。私ならずとも言いようのない無念さが残るのではないだろうか。

 以下は東郷茂徳が獄中で遺した長詩と和歌を、『時代の一面(大戦外交の手記)』(東郷茂徳著中公文庫)所収の冒頭に掲げてあった、娘のいせさん推薦のものを転写した。

憂きことを 二とせ余り 牢屋にて 過し来りぬ 朝夕に 心を紊す 束縛の とみに多ければ 内わなる 魂こそは 大鳥の 大空の辺に 羽搏きて のぼり行くごと 勢ひの たけくあれど 旅人の 高き山根に 故郷を かえり見するごと 過ぎ行きし くさぐさのこと 且又は 来るべき世の すがたをも 思ひ浮べつ 春雨の 大地に入りて 諸草を 霑ほすがごと 我胸に 思ひの花を とりどりに 育て上げたり

夜な夜なに 眠れぬ時し ありとても 書きしるすべき 鉛筆も 物見るめがねも 夕な夕なに 持ち去られ 我辺になくに 夜の明けて後 そこはかに しるしたるぞこれ

殊にわれ 稚き時ゆ 東西の 文明のすがた 較べ見て そが調整の すべもがと 心ひろめつ これこそは わが生涯の 業なりと 思ひ来ぬれば とりわけて 此方面に つき多く 思ひを馳せぬ

人の子の 育てる時と 所とは いみじくもまた 運命を さししめすかな わが育ちしは 黒潮の めぐる薩摩潟 朝夕に 煙りたへざる 高千穂に 神代を偲びぬ 秋去れば 遠なる海ゆ 台風の 天地を動かし 春来れば 霞棚引く 海門に 海面を按ず 風物の 雄々しき中に 大目球 天を敬ひ 人を愛す てふ世の道を 示したる 大南洲の 威風こそ 身にはしみたり

天地の なりにし始め 人類の 起源に付て くさぐさの 議論はあるも とことわに 空に輝く 月や星 いみじくも 花や草木に さやかなる 進化の跡 誰れとてか 自然の奥に いと貴き ものを感ぜぬ 人とてやある

さればこそ 有史以来の 四千年 人類の 進歩のいとど 早くして 絢爛として 輝ける 機械文明 飛行機は 火星に迄も 飛びぬべく 原子弾こそ 人類を 地獄に迄も 苦しめむ 科学の進みは 人類の 心の進歩を 上へ走り 世に禍ひを 齎せし 基とはなれるも いまははや 止むなきやこれ

などか世の 人の運命の 奇しくして 其為す業の はかなしや 戦に勝てる 為ならで 戦をなくする 為の公事 なりと声高く のらせしに 暇もあらせず 第三次 世界戦争 不可避とぞ 叫びちらして お互に 相手の罪を 数へあげ 今度の戦こそ ボタン一つ 押してただちに 始まること と公言しつ 且つは又原子爆弾 黴きんと 使用禁止の 約束に かかはることなく 公然と 使用すべしと 説き立てて 戦さの瀬戸に 押て来し ものとぞ見ゆる

これもよし 時の動きと 且つは又 諸大国の 不可避的 状勢と 見るべきなれど 裁判の 目あてと呼びし 戦さの廃棄は これはそも 如何なりたる 又かかる 動きのさまに 司直者は 耳を掩ひてか 判決に いそしみ居るや たわごとの さても空しき 業なれや 時に折りに不図 われはなど ここにありやと いぶかしみ 世のしれごとを あざ笑ふ ことのあればこそ ああこれ 勝ちし国の 己らに 都合よかれの 業にして 神の目よりせる 正義のしるし 今はまた 何処にぞありや 思へ人々

世の人の 尊敬と信頼を 裏切りて 本務にいそしまず 敵国の 能力を無視し 古びたる 日露戦争の 惰性にて 進歩せる 戦術を 考ふる愚かさ 政治上の 欲望のみ 強く働き 民衆を 眩惑するに 巧みなり 戦さに敗けはせずと 公言せし 其無智と無責任は いみじくも 緒戦に酔ふて 自己の権勢を 固めんと 反抗する者は 府中宮中団結して 排除す すめらぎも 遂には 軍の云ふ所信じ難し とさえ仰せらる かかる軍部の 空疎な頭 自衛的権勢欲に、国の運命を 託せしことの 如何に不幸なりしよ

あな静か死生一如の坂越えて 春の野原に暫したたずむ

鉄窓に磨硝子あり家人の しのばむ月も見えがてにして

梅雨の日に為すこともなく暮らしつつ 思い出すことのさも多いかな

獄庭のヒマラヤ杉の下に生ふる あぢさいの花に梅雨ふりそそぐ

人の世は風に動ける波のごと 其わだつみの底は動かじ

 まさに、この通りの人生であった。そして、この本書『時代の一面』なる手記は、昭和二十五年七月十八日、巣鴨拘置所に拘禁され、病重く米陸軍病院で入院加療中であった重徳を娘さんである伊勢さんがお見舞いしたおり、読んでおくように手渡されたノートブック二冊と数十枚の用紙に鉛筆でぎっしり書かれていたものであったと言う。そしてその五日後、七月二十三日に67歳7ヶ月で亡くなった。先ごろ日野原重明さんのお話をNHKの『声でつづる昭和人物史』で拝聴したが、日野原さんは『祖父東郷茂徳の生涯』251頁、341頁によると、東郷茂徳を往診した心臓医で、心電図で冠状動脈の異常を発見、何度か注射を打たれたということだ。その最後もみとられたのではないかと想像する。https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=1890_01_3873865

 聖書には亡国の民が流す涙が諸所方々に記されている。ましてや獄中で神のみぞ知る思いで手記を記された東郷茂徳さんは、やはり主なる神様がみそなわしていてくださるお一人でないだろうか(その葬儀が神式で行われたものであったとしても)。奥様のエディーはオーソドックスなキリストを信ずる一人のドイツ人キリスト者であり、ご主人の重徳さんが伝統的な日本神道に帰依していることの上に父なる神様の御憐みを確信しておられたのではないだろうか。重徳さんがたびたび夫人に「あなたの宗教的信念を尊敬する」と書き、エディーさんはエディーさんで「主人は決してうそをつかない、天地神明に誓って仕事をなしている」と如何なる時にでも夫に信頼していたことが、お孫さんである東郷茂彦さんの著書の端々に描かれているからだ(なお、エディさんは若くしてドイツ人の建築家と死に分かれたが、その間には長女ウルズラと末娘ハイデをふくむ四人の女の子と一人の男子に恵まれていた)。

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(新約聖書 マタイの福音書5章9節) 

2023年7月15日土曜日

歴史の歯車

金糸梅 希望の光 元気得る
 連日の暑さに閉口して歩いていた。その時、何となく、この花に目が入った。空き家になっているブロック塀に咲き乱れる黄色い花だった。何かを語りかけるようで、立ち止まってじっと見つめた。途端に元気が出てきた。

 このところ、トーゴーさん関係の本を毎日読んでいる。そのためにブログも足踏み状態を続けている。そして、本来は柏木義円、朝河貫一という二人の人物を追うことが目的であり、それぞれ三冊の本を精読した。現に今もキリスト者柏木義円さんの生き様を追うにふさわしい、膨大な『日記』『書簡』(県立図書館所蔵)を借りている。

 ところが、既述の通り、たまたまお見かけした中軽井沢でのトーゴーさんが、機縁になって、東郷茂徳という人物にも関心を持ってしまった。全く予期しなかった人物の登場である。しかも、私の思索の中では大いに三者の間に共通点があるのではないかと思い始めた。それはひとえに彼らのうちに燃える祖国日本を愛する思いであり、そのために三者それぞれ立場は違うが、戦前の軍国主義、総動員体制、翼賛体制に抵抗していった点ではないかと思ったからだ。歴史の流れに翻弄されることなく、毅然として歩むために彼らが何を基軸にして生きたかは、「新しい戦前」(タモリ)と言われる今を生きる私たちにとっても必要とされていることではないかと思う。

 試みにその三者のキリスト・イエスに対する思いをそれぞれにたぐってみた。先ずはもっとも遠いと思われる東郷茂徳に関する叙述である。これは重徳の孫に当たる茂彦さんが書かれた『祖父東郷茂徳の生涯』(文藝春秋1993年)からの引用(同書86頁)である。(なお、ついでながら書き足しておくと、私が見かけたと「思い込んでいる」トーゴーさんは双子であった。茂彦さんが兄で和彦さんが弟であり、私がテレビでお顔を知っていたのは和彦さんの方だったが・・・)

 それから(引用者注:結婚以来)二十年余り、巣鴨の獄中でエディ宛に綴られた重徳の手紙に、二人の間に築かれた精神世界を垣間見ることが出来る。そこには、裁判や社会的な出来事だけではなく、キリスト教や愛、あるいは、文学に関する様々な記述が含まれていた。

ーー昨日あなたに書いたように、私の心の平安について心配をする必要はありません。なぜなら、私は、既に、キリスト教の愛を正確に理解しているからです。神と共に在って、神を通じてお互いに愛しあう!(日付不明 独文)
ーー近頃では、聖書も私にとてもいい影響を与えています。この愛の宗教を私は、すばらしいと感じています(同)。
 シェークスピア、モリエール、ラシーヌ、ヴォルテール、ゲーテ、シラーなどの作品の一部を最近読んだこと、こうした古典は、「always tasteful, interesting, and stimulating(常に、趣きがあり、面白く、刺激的だ)」とも書いている(昭和二十四年四月二十四日付 英文)
 とくにエディの差し入れたゲーテの本をうれしく読んだこと、できれば詩集もほしいのだが、と頼んでいる。
ーーゲーテは、あなたが差し入れてくれた本の中で、こう言っています。「人間にとって必要なものは何と僅かしかないのだろう。そして、その僅かなものを自分がどれほど必要としているかを感じることは、人間にとってどんなに嬉しいことであろうか」。どうか、いつまでも、健康で元気であって下さい。 愛するあなたのシゲ(二十四年四月十一日付 独文)

 この一年余りのちに、東郷茂徳はA級戦犯として禁錮二十年の刑を受け、獄舎に囚われのまま病を得て、妻であるエディの看病を得ぬまま亡くなった。昭和二十五年七月二十三日のことであった。その悲しみぶりはすでに以下に記載した通りである。http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/07/blog-post_7.html

 数奇な運命の下、未亡人であったドイツ人エディと結ばれたベルリンの日本大使館書記官であった東郷茂徳が、その後、開戦時と終戦時に外務大臣であったため、極東国際軍事裁判の対象者になり、挙げ句の果て、二人は私宅と獄舎とに引き離されてしまった。その五年間の獄中生活の間に、エディ夫人は夫である東郷重徳に何を伝えようとしたのだろう。また東郷茂徳はエディに何を語ろうとしていたのだろうか。短いながらも、上述の東郷茂徳のお孫さんの茂彦さんが記する叙述をとおしてしか知ることができないが、そこには互いが互いに生かされている摂理の神様に対する感謝があったのではないか。

 一片の「金糸梅」の花びらでさえ、私に希望を与えてくれた。ましてや、みことばのもたらす「平安」はいかなる状況にあっても人に生きる希望を与えてくれたに違いない。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(新約聖書 ピリピ人への手紙4章6節〜7節)

2023年7月10日月曜日

今盛んなり、各家の葡萄棚

葡萄棚 道行く人の 笑みこぼる
 連日、九州地方の災害が報道される。関東地方も明日は我が身と待ち構える日々である。細長い日本列島、様々な気象現象は西から東、南から北へ移行する。その先陣となるのが九州地方である。何らかの行政上の対策が立てられないものか。打って変わって、こちら関東地方も海に面する千葉県、茨城県ではやはり災害が発生しやすい。その上、地震は圧倒的にこの両県が関東地方では震源となっている。昔、富山和子が災害列島の土地対策に森林を保護するために貴重な提言を繰り返していたことを思い出す。そのような提言を無視するかのように世界的な温暖化は全世界にさまざまな環境異変をもたらしている。私たちは息を殺してその行く末を案ずるばかりである。

 今年もあちらこちらで葡萄棚が軒をはみ出しては、すでにはるか先の秋の収穫の季の到来を予告せんかのようである。たわわに実ったぶどうは、盛夏の時を過ごし、さらに熟していくことだろう。そして、その挙げ句には隣近所にもふるまわれる。自然の幸はこうして毎年葡萄棚を持たない我が家もお相伴にあずからせていただく。持ちつ持たれつの隣近所の方々との親しいお付き合いである。土曜日、共に集まる小さな集いで聖書(ローマ人への手紙13章)の輪読を行ったが、その時、一人の方が、次のみことばを読んでくださった。

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(10節)

 まことにその通りだと思った。そして、今しも、「ピン ポーン」と来客の知らせが鳴った。隣家の方だった。「桃を田舎(甲府)から送ってきましたから(お食べください)」とお裾分けをいただいた。ありがたいことだ。

 さて、先ほどのみことばの前には律法とは何か、ローマ人への手紙の著者であるパウロの以下の文章がある。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。(8節〜9節)

 今まで13章は私にとって難解な章の一つであった。しかし、ちいさな交わりの中で一人の方が感銘を受けられた10節のみことばが、私の心の内にもストンと落ちてきた。昨日は市川に礼拝に出かけ、福音集会のメッセージを担当させていただいたが、最後の最後、土壇場で示されたのが「愛ですネ」という題名であった。私にとってローマ13章10節は導きになり、早速引用させていただいた。

 それだけでなく、私の隣人、妻についつらく当たってしまう度量のなさに、今更ながら、このみことばを噛み締めさせられている。私の愛の実は自分では結べない。しかし、主なる神様を信じ従う時、結ばせていただけると確信している。主に頼っていきたい。秋の到来とともに熟するぶどうの実のようになれたらいいなあ。

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(新約聖書 ローマ人への手紙13章10節)

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(新約聖書 ヨハネの福音書15章5節)

2023年7月7日金曜日

汝、誰の使節か

夏涼み 名も知らぬ花 新世界
 前回は「信濃追分」の駅頭の写真をご披露した。そのおり、その写真に不満足であると書いた。人為が勝っている、と。それは自然そのもの〈浅間山〉をとらえたいのに、私にはなぜか画面にあらわれた左の立板の文字、追分宿のちょうちんが気になった。

 この信濃追分には過去一度だけ降り立ち、一、二日過ごした記憶がある。おそらくそれは1980年代であろうと思う。こどもがたくさんいて、旅行などは贅沢で、ふるさと滋賀に帰る以外はとても無理だと決めてかかっていたころだ。しかし、いつまでもそういうわけにはいかないと、家族で泊まりがけで出かけた。その旅行先に選んだのが、信濃追分であった。堀辰雄の描く世界をこの目で確かめたいという思いが私にはあったが、果たしてこどもにはどうだったのだろう。

 駅から宿まで歩くのにすでに子どもたちが喘いでいたように思う。もう歩けないという子供を叱りながら、それでも宿に着いたときのさわやかさは今も感ずることができる。その翌日であろう、サイクリングに身を任せ、子どもたち各自もそれぞれ楽しんでくれたように記憶している。

 さて、中軽井沢駅で乗車されたトーゴーご夫妻との乗り合わせが私にとってどんな意味合いがあったか、少し触れてみたい。以下はこちらに帰ってから図書館でお借りして目にした文章である。

 それは美しい夏の朝だった。
 涼やかな微風が窓のカーテンを揺らし、近くの林から鳥たちが鳴き交わす声が聞こえていた。ひんやりした空気は甘い香りに満ち、その日の上天気を予感させた。輝かしい夏の日の始まり、今日も草原では、蜂や蝶たちが花々の蜜を求めて、忙しく飛び交うことだろう。
 七月二十三日、私たちは軽井沢の鹿島の森の小さな夏の家にいた。高原の夏は始まったばかりだった。
 蝶々や蜂たちに劣らず、私にとっても忙しい日になるはずだった。ちょっと目を離したらたちまち、帽子もかぶらずに外に飛び出してしまう双子の男の子を、麦わら帽子をひらひらさせながら追いかけなくてはならないのだから。
 子どもたちは五歳と半年。愛らしいワンパク盛りだった。仕事の都合をつけて東京からやってきた夫ともゆっくり話をしたかったし、二階の寝室で目をさました私は、まださめきらない頭の中で、一日のあれやこれやをぼんやりと考えていた。
 電話のベルの音が聞こえた。こんな朝早くどこからの電話だろう・・・。やがて階下で受話器がとられる。二言三言の話し声がしたあと、家の中がしんと静まったように感じられた。
 取りつがれた電話に出た私の耳に、なんともいいようのない、重くくぐもった母の声が聞こえた。生まれてはじめて聞くような母の声だった。
 「パパガ死ンダ」
 その瞬間、輝くばかりの夏の朝はひかりを失った。
 小鳥のさえずりも聞こえず、こぼれるほどに咲いていた花々ももう目に入らなかった。
 二階から下りてきた夫に、電話で聞いた言葉をそのまま繰り返して、私は棒のように立っていた。
 子どもたちの留守中の世話を頼み、いちばん早い汽車に乗った。戦争が終わって五年、列車事情の悪い時代だったが、その日は不思議に空いていて座席に座れたのをおぼえている。
 「いせ、大丈夫か?」
 窓際に腰掛けた私の顔を覗きこんで夫がそういい、私はこくんとうなずいて、「ダイジョウブ」とかすれたような声でやっと答えた。その言葉が、その日私が話したただ一言だったような気がする。
 昭和二十五年の夏、父の死の知らせが届いた日だった。
 その日の未明、太平洋戦争の開戦時の東条内閣と、終戦時の鈴木内閣の二度の外務大臣を務めた父、東郷茂徳は、A級戦犯として巣鴨プリズンに囚われの身のまま、だれに看取られることなく六十七歳の生涯を閉じていた。
        (『色無き花火』東郷いせ著 六興出版 1991年刊行)

 この文章は、東郷茂徳とドイツ人のエディータ(※)との間にひとり娘として生まれた「いせ」さんが「昭和の記憶」と題して語る冒頭の文章である。夏の軽井沢の姿が巧みに描かれており、それだけでなく、時空を越えて、たいせつな人を亡くした悲しみが私たちに伝わってくる。七十三年前の出来事だ。私が先日、中軽井沢駅でお見かけしたトーゴーさんは、文中に登場する「双子の男の子」「五歳」と書かれている人にちがいない。

 トーゴーさんが外交官であることはテレビなどで知っていた。しかし、三代続く外交官の家系で、国の要路にあって、それぞれに苦労を重ねて来られた方だとは、つゆ知らなかった。ただ目の前に現れたトーゴーご夫妻をお見かけして、その品格にひきつけられた。それは長い大使生活から自然と備えられた品格ではないだろうか。私は御代田に出かける前、『柏木義円』の関係で、新たな文献『最後の「日本人」朝河貫一の生涯』(阿部善雄著岩波現代文庫)を紐解いていたが、なかなか文意をつかむのに苦労していた。そのこともあって、実のところ、一日も早く春日部に戻りたいと考えていたのだ。

 ところが、家に帰って、読了していないその難解な新文献を読み進めるうちに、日米開戦前夜のアメリカ大使グルーと外相東郷茂徳の交渉・宮中への参内の話が出てきた(同書253頁以下)。まさかあのトーゴーさんのお祖父さんのことだとは、そう思って読み進めるうちに、それまで難解と思っていたこの文献もずいぶんと身近なものに変えられただから不思議だ。それと同時に、一連の御代田行きもこのような導きがあってのことだったのかと改めて思わされた。

 それにしても一人の人間の存在は大きい。ましてや神の子であり人の子であったイエス・キリストの存在は大きい。その光を反射するキリスト者は神の国の大使としてあだやおろそかにこの人生を歩んではならないと思わされた。

※エディータは最初ドイツ人建築家ゲオルク・ド・ラランドと結婚し、五人の子供をさずかったが、ゲオルクが急死し、そののち東郷茂徳とベルリンで知り合い結婚に導かれた。ゲオルクの作品としては神戸オリエンタル・ホテルはじめいくつかの名建築が明治の初めから大正にかけて存在する。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。(新約聖書 2コリント5章17節〜20節)

2023年7月5日水曜日

蝶々二羽、何を語る

ひらひらと 蝶々二羽 ランデブー
 御代田は浅間山のふもとに展開する町並みである。したがって、駅からの行き来は、行きは上り坂、帰りは下り坂になり、下りは徒歩でも、重力に身をゆだねながら降りることができ快適だ。そんな私たちの前を二羽の黄蝶と白蝶が楽しく舞っていた。その色のコントラストと動きに何度かカメラを向けるのだが、中々思うようには撮れなかった。的が小さすぎるのだ。

 かと言って、今度は的を大きくして、浅間山の勇姿を、何とか画面に納めたいと思うのだが、これまたむつかしい。あれやこれやで道草を食ってしまい、御代田駅に着いた時には、信濃鉄道軽井沢行き10:22分発はすでに発車してしまっていた。春日部にまでスムーズに帰る計画はおじゃんになってしまった。ために、さらに駅頭で小半時待たねばならなかった。それはいいとしても、バス、信越線、高崎線を使っての帰りの予定は大幅に狂ってしまった。

 あれこれ言っても始まらない。昨日の件は妻に原因があるとしても、今日の件は私に原因がある。景色などを撮ろうとせず、そのままひたすら歩いていれば間に合ったのだから、自らの落ち度だけにそこはぐうの音も出ない。半ば捨て鉢で信濃鉄道に身を任せる。

 御代田から次の駅信濃追分までの区間の車窓の風景は一品だ。何しろ浅間山が眼前に広がるからだ。その間、5、6分だが絶好のシャッターチャンスだ。そう思いながらこれまで何度もそれを逃している。いや、カメラを向ける所作そのものが憚れるのだ。結局体勢を立て直してカメラに向かうのは決まって信濃追分駅に着いてからだ。以下の写真にはいつも不満がたまる(人為がじゃまになるのだ!)。でも参考までに載せる。

 列車は信濃追分駅を離れ、次の中軽井沢駅に入って行った。すると乗車口から、(テレビなどで)見覚えのある老夫妻が乗り込んで来られた。ご夫妻とも長身で、いかにも物腰に品があった。私は隣席の妻に思わず、「トーゴーさんだよ」と囁いた。妻は知るはずがないが、お二人ともマスク姿ではあったが、見紛うことない、トーゴーさんだと断案した。そして様々な行き違いで不愉快になっていたのも忘れて、その列車に乗り合わせたにすぎないことであるのに心はなぜか弾んだ。

 一昔前、高校二年か一年の時、亀井勝一郎氏を彦根駅頭でプラットホーム越しに拝見した時は畏敬の思いで、ひとり遠くから礼をした(※)。次に、浪人生活で京都駅に何か用事で夜出かけた時であったか、列車を降りる巨人軍の選手一行に出会った。まだ高三で入団したばかりの柴田勲選手、長嶋こそ遭遇しなかったが、国松選手を見かけた。二十数年前には中央線で吉祥寺から中野方面にまで乗っていた時だろうか、おはなはん、樫山文枝さんが乗り込んできた時にはびっくりした。車内は混雑もしていず、空席の目立つ車内であったが、特にどうということもなく、樫山さんも一人の行きずりの乗客にすぎなかったことを思い出す。

 ところでこのトーゴーさんについては春日部に帰ってから、その偶然な乗り合わせが決して無意味でなかったことを思い知らされている。そのことは後ほど稿を改めて触れたい。ただこうした乗り合わせは今に始まったことでなく、私は何度も経験している。さしずめ次の出来事もその一つだ。 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/08/blog-post.html

 蝶々二羽はそれこそ軽やかに野原を思い思いに飛翔していた。でもやけに気になった。黄蝶のあとを白蝶はひたすら追っていたからだ。昆虫の生態を知らない私にはそれ以上のことがわからない。私たち夫婦とトーゴーさん夫婦が乗り合わせて、会話を交わしたわけではない。ただ行きずりの間柄に過ぎない。片や有名人、片やこちら無名人。「袖擦り合うのも他生の縁」とはよく言ったものだ。しかし、神のみことばはそれ以上の確かなみことばを今に伝えている。

※追記 記憶っていい加減だなと思った。私はすでに亀井勝一郎氏について下記のような記事を残していた。遅まきながら追加する。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/12/blog-post.html

隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。(旧約聖書 申命記29章29節)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネの福音書3章16節)

2023年7月3日月曜日

思い立ったが吉日

棚雲の 見え隠れする 浅間山 2023.6.28 
 久しくブログから遠ざかった。もちろん理由はある。先週の月曜日はコロナの第六回目のワクチン接種をした。その晩、熱があり一睡もできなかった。しかし、朝起きるなり、二、三日前に思い立っていた御代田行きを決行した。前日のワクチン接種の予後が気になったので、一日ずらして、水曜日に行くことにしようとも思ったが、雨の心配もあり。火曜日の日帰りを目論んだ。

 果たせるかな、高崎線車中ずっと全く気分がすぐれなかった。妻は心配して座席に横になるように勧めるのだが、できなかった。高崎から横川まで信越線に乗り換えてから、乗客も少なく、これ幸いとはじめて横になることができた。すると随分楽になった。しかも高崎駅から北高崎、群馬八幡とこちらが思っているより駅区間は長いのに気づいた。だから次駅である「安中」にさしかかるころはすっかり気分が良くなり、起き上がって「安中教会」はどのあたりにあるのだろうと窓越しに眺めることさえできた。

 もちろん、今回の御代田行きは「安中訪問」が目的でなく、あくまでも5月以来、放置してある部屋の管理が目的であった。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_5.html
 だから、信越線の終点の横川駅で下車し、そこから碓氷峠を(バスで乗り)越え、軽井沢に入る。次に信濃鉄道で軽井沢から御代田まで乗り継ぐコースである。総乗車時間は延べ二時間半ほどであり、そこから現地へはさらに徒歩で一時間弱かかる。

 こうして朝9時半ごろ春日部の自宅を出て、念願の場所には午後2時過ぎには着けた。さっそく、下仁田から来てくださった既知の大工さんに見ていただき、用事も終わった。私はすぐにでもとんぼがえりするつもりであり、妻には前もって十分言い聞かせておいた。ところが、妻はそのことはすっかり亡失しており、泊まるつもりでいた。そして、隣の奥さんに誘われたこともあって、夕食・朝食とたっぷりとお惣菜を買い込んできた。私は自らの目論見(計画)とまったく違うので、怒り心頭に発する思いで不愉快であった。

 もちろん客観的に見るなら、折角の信州行きなのだから、ゆっくり美味しい空気でも吸って散策でもして、過ごすのが当然だと思う。だから妻のその思いは是であり、私が我意を通して機嫌が悪くなっていたに過ぎない。考えてみると、五十五年前、新婚旅行は信州だったが、その二日目だったか美ヶ原で早くも「けんか」になった。内容は覚えていないが、精々私のわがままのせいであったろう。残念ながら、五十五年経っても、私のわがままは健在だ。

 結局、不承不承一日延期したが、それはそれで導きがあった。その件については明日記したい。さて今日は遠路長女が再び長躯、車でやって来て、ベニカナメの消毒、クーラーの掃除などを手早く手掛けて帰って行った。彼女も「思い立ったが吉日」を実行したのだろう? 昨日メールで「明日月曜日か、木曜日かそちらに行きたいのだがいいか」と突然報せて来ていたのだ。

 未来は何があるかわからない。その未来に向かって人間は自ら良しとする道を選ぶ。「思い立つ」のだ。しかし、その行動の奥には言わずと知れた神様の無限の愛がある。

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(旧約聖書 詩篇37篇5節)

2023年6月22日木曜日

近江八幡行きから教えられたこと(下)

 見事なり えのころぐさの 群れるさま(※1) 
 毎日曜日礼拝に出席する生活は、主の救いを受け入れてから、ずっと今日まで続いている。初めは、何で日曜日に礼拝しなければならないのだ、そんな不自由な生活は真っ平御免だと思っていたはずなのに、今ではそれを何とも思わない。むしろ当たり前の生活になっているから、不思議だ。

 しかし、礼拝の中身は、二十年間の「教会」生活のそれと、それ以後導かれた三十余年の「集会」生活の礼拝とでは大いに異なっている(※2)。

 教会時代は、あらかじめ決められた礼拝の「式次第」があり、それに則った礼拝であった。そして、礼拝の中心は牧師さんのメッセージであった。集う一人一人は牧師さんが解き明かしてくださる聖書の個所を通して、神様を礼拝する。だから牧師さんにとって一つも気が抜けない、真剣勝負のひとときだった。一週間に一度とは言え、大変な激務だと思わされた。それだけに牧師さんを尊敬し仕えていた。信徒は口を開けて牧師さんが解き明かしてくださる聖書のことばを、ありがたくいただく生活、受け身であれば良かったからである。

 ところが「集会」では、異なった。あらかじめ決められたプログラム(式次第)が一切なく、集った男性陣は主を信ずる「兄弟」と呼ばれ、それぞれの兄弟が(御霊なる神様から)示されたまま自由に、聖書の朗読と祈りがなされる。賛美もその場でリクエストされる。それらをとおして主を礼拝する。だから信徒一人一人が自ら聖書をしっかり日頃から進んで読み、生活の中で味わっていなければならぬ。牧師任せの生活でなく、信徒一人一人の自主性・積極性が求められるのだ。

 その上、教会の牧師さんのメッセージに当たるものは、「礼拝」とは別に、礼拝後持たれる「福音集会」の中でなされる。これは一人でなく、様々な兄弟が毎聖日担当することになっている。確かに牧師さんが語られるような神学に裏づけられたメッセージではないかもしれないが、それぞれのメッセンジャーがそれこそ神様から直接導かれたみことばを土台に話をされる。だから「礼拝」ですでに十分満たされるのだが、さらに「福音集会」をとおしても、互いに主のご臨在を覚えさせられる貴重な時となっている。

 そのような「福音集会」は、それぞれの地域から人々が遣わされる場合が多い。そうして、ひとつの集会が独善的になることなく、自然と他の集会の様子に触れ、集会同士の交わりをもつことが期待されている。私の近江八幡行きも、そもそも故郷が滋賀県だということで始まった。三ヶ月に一回参加させていただくようになってから、もうかれこれ何年になるのであろう。20年は優に越すのではないかと思う。今回は21名の参加者に、ZOOMで15名の方が参加されていた。その皆さんが心からなされる賛美の歌声には、それまで萎(な)えていた私の魂は、毎回決まって、その都度覚醒される。

 果たせるかな、当日私が用意したみことばは、出エジプト25章21〜22節で「その『贖いのふた』を箱の上に載せる。・・・わたしはそこであなたと会見しよう」であり、題名は「神に会う道」とさせていただいた。司会をお願いした兄弟は、今はやめておられるが、京都の名うての理髪師さんだった方であるが、びっくりされた。それは私の引用聖句が礼拝の折り、ZOOMで奈良から参加された兄弟が読んで祈られた個所とぴったり同じだったからである。それもそのはず、その奈良の兄弟も私も、その日(6/18)の『日々の光』に掲載してあったみことばに感銘を受けたからにちがいなかった。

 私の場合、その朝、『日々の光』を読み、その日お話ししようとしていた、ルカの福音書15章とこのブログでも紹介して来た『柏木義円』を結びつけるのにふさわしいみことばと考えたからであった。柏木義円は「倫理的宗教を談ずるの学者必ずしも贖罪的宗教を信ずる匹夫匹婦に先立たざるなり」と言っていた。イエス様は、律法学者とパリサイ人が、取税人や罪人を指弾してやまない姿をとらえ、三つのたとえを語られているが、最後の放蕩息子のたとえでははっきりとその32節で「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」と語られた。まさに主なる神が会われる個所はこのような贖いの場所でしかないことを示されたからである。

 しかし、福音集会後、私の心は晴れなかった。もちろん、毎回そのように落ち込むことが多い。今回は帰省したはいいが、連日留守宅にしておく雑草の処理に心底エネルギーを奪われ、メッセージの推敲のための準備が不足していて、自分でもその欠陥を自覚していたからである。しかし、一方で、たとえ自分のお話ししたいことが十分伝えられなかったとしても、主イエス様がそれぞれ聞いて下さっている皆さんに直接語っていてくださるのだから、くよくよしないでいいよと、自分の心に語りかけることができた。

 その上、来られなかったご婦人に代わり、送り迎えしてくださった兄弟はご婦人の中学の同級生である。その方を通してこれまた車中で十分な交わりをいただいた。13年前に、事業が失敗し、すべての生活が破壊され、絶望のどん底に突き落とされ、道を悄然として歩いている時に、同級生のご婦人とばったり会われた。するとその場でその同級生であるご婦人から福音を伝えられたそうだ。彼は藁をもすがる思いで、イエス・キリストの贖いを受け入れられて、今日に至っている。まさにわたしはそこであなたと会見しよう」のぴったりの経験のもと十三年間守られたのである。それだけでなく、今も続いている、集会内のさまざまな兄弟姉妹間の助け合いの実際を、兄弟の口を通して、教えていただいた(近江八幡集会では以前から、集われた方が、それぞれ昼食をともにし、互いに交わることを喜びとされていることは知っていたのだが)。

 こちらに戻って来て、昨日(6/21)は印旛の兄弟が来られて春日部の家庭集会という場でメッセージして下さった。お聞きしながら、近江八幡の自らのメッセージでは等閑(なおざり)にしてしまった信仰者に及ぶ御霊なる神様の働きについて教えられた。いずこにあろうともこうしてみことばを通して互いに励まし合う生活が主にあって保証されていることを思う。

 来月の春日部の家庭集会(7/12)では図らずも、近江八幡集会の責任を負っておられる兄弟、日曜日お会いできなかった方からメッセージをいただくことになっている。このことも主が導いて下さっている目に見えない証ではないだろうか。

※1 こちらに帰って来て、近くの「えのころぐさ」の美しさに思わず、目を見張ったが、私の故郷の留守宅での畑は芒塚(すすき)が伸び放題になっており、その根っこから引き抜くのにたいそう苦労させられたのをすっかり忘れさせるほどであった。

※2 「教会」と称しようと「集会」と称しようと志向するところは同じだが、あまりにもキリスト教会が、「教え」の集まりになっていることを危惧して、敢えて、そうならないようにと、私たちは「集会」と名乗っている。「教え」でない、「贖い」をもとに集められているという自覚のもと、「集会」(エクレシア)ということばを使っている。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/10/blog-post_13.html

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(新約聖書 ローマ人への手紙3章23節24節)

2023年6月20日火曜日

近江八幡行きから教えられたこと(上)

高宮町字鳥居上(※)を貫流する太田川水路
 日曜日は近江八幡で、礼拝をささげた。あいにく、責任を負っておられる方は地区のお仕事があって、お会いできなかった。またいつも、彦根の拙宅から近江八幡まで車で送り迎えしてくださる彦根城のお膝元にお住まいの方もやはり地区のお仕事でお見えにならなかった。珍しいことではあった。地域の共同体(いわゆる「自治会」)はこうしてさまざまな人々の協力のもと支えられているのだなと思わされた。お二人にとっては「礼拝」という何ものにも変えがたいものを差し置いて、出向かれてのことだと思うからである。

 私の故郷は滋賀県彦根市高宮町である。中仙道の宿場町で中仙道の宿(じゅく)の中では埼玉県の本城宿についで第二番目に大きい宿場町であった。昭和30年代に町村合併で彦根市に編入された。その時の様子は以前にも書いたことがあるが、今回、私はその高宮町にさまざまな字名(あざめい)があったことを思い出し、その字名を必死に思い出してみた。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/search?q=%E7%94%BA%E6%9D%91%E5%90%88%E4%BD%B5

 北から、「大北」「中北」「宮町」「高橋」「七軒(しちけん)」「前浦(まえら)」「鳥居上」「五社(ごしゃ)」「仲町」「本町」「西浦」「竹之越(たけのこし)」「東出(ひがしで)」「西出」「門口(もんぐち)」「御旅(おたび)」などである。そして、それぞれの字がどこからどこまでを指すのか、今も大体見当がつく。私の字は「宮町」であった。隣の字が「高橋」であったので、「高宮町」はこの二つの字の名前から来ているのだろうと勝手に想像していた。

 字はお祭りの時や、町内運動会で、互いに対抗意識を丸出しにすることもあった。宮町(みやまち)は高宮神社のお膝元、「太鼓」は出さないが、代わりに高い「幟(のぼり)」を立て上げなければならなかった。高宮神社の鳥居を越す高さであった。それは祭りの準備に欠かせない祭事であった。それもあって、「太鼓」を担ぎ出す代わり、台車に乗せた「鐘」を出していた。子供が台の上の前後ろに乗り、鐘を叩く、あとの者は、その台車を引っ張って歩く。町を縦貫する中仙道を練り歩く主役は「太鼓」であった。それは大きな字が受け持っていた。祭りのメインはやはり太鼓である。その点、鐘は引き立て役であり、それほどエネルギーはいらなかったが、何となくパッとしなかった記憶がある。

 このような「町」、「字」は確固とした「若衆組織」を基盤に建て上げられていたのではないだろうか。小学校から中学校に進む時、お酒を一升持って、若衆に入れていただくのである。送り出す家の方でも、受け入れる若衆側でも、それぞれのうちに身が引き締まる「社会儀礼」であった。私も成人として公的に祝われるはるか先、13歳で、地域の仲間に正式に入れていただく時として、緊張を覚えさせられた。このような習慣は日本の津々浦々で用いられていたのでないだろうか。

 そのようなコミュニティーをもとに、さらに学校があり、地域社会は構成されていった。そのような社会にも様々な「事件」は起こされていたに違いない。しかし、今日ほどセンセーショナルな事件は少なかったのではないかと思う。このところ立て続けに銃を使っての犯行が明らかになった。明らかに日本社会は病んでいると言える。あの牧歌的と思えた昭和30年代の社会にも報道されなかっただけで、様々に事件はあったのであろうが、これほどひどくはなかったと思う。

 荒廃著しい社会がはやく落ち着きを取り戻してほしいと願うのは私だけではないだろう。一方、1843年(天保元年)生まれの新島襄は、鎖国下の日本の国禁を破ってまで、アメリカに行き、人間が人間として大切にされる世界、神を信ずる生きた世界があることを知った。そして日本社会をそのように変えたいと、私学による教育と福音伝達に精を出したのでないか。このこともまだ何も知らない。でも、今まで無知であった私の「新島襄」観は少しずつ改善されつつある。「自治」こそたいせつであり、その根底には「人権」を父なる神様に対するありかただとする新島襄がいたにちがいないと思う。そして、お二人が礼拝を犠牲にして行かれた先はおそらく「自治会」であろう。自治会が、単なる上意下達の機関でなく、ほんとうの「自治」会になってほしいと思う。神を恐れ、人間を大切にする社会こそ、悲惨な犠牲者をこれ以上出さない秘訣ではないかと思うからである。

※「鳥居上(とりいかみ)」とは、この字には多賀大社に通ずる大鳥居があることから名付けられているのだろう。この多賀大社は俗謡で、「お伊勢、多賀の子でござる」と言い、この付近では信心深い人が行く。それだけでなく、何を隠そう、私の高校合格への祈願はこの多賀大社であった。高宮神社が、すでに字である宮町にあるにもかかわらず、多賀大社にまで行った。初詣自身が多賀大社であった。それは誰も不思議としない行為であった。大社であるだけに神社より格が上で、高宮神社では合格はおぼつかないと思っていたのであろう。考えてみると、高宮には高宮神社の鳥居があるのに、ここからは真東に一里(四キロ)ほど離れた多賀大社の参道よろしく宿場町である高宮のこの場所に建てられていたのだから、顧みると、町内には二基もの鳥居があったのだ。このような高宮は宿場町であるだけでなく、その多賀への玄関口の役割も果たしていた。もちろん今もそうである。

初めに、神が天と地を創造した。神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(旧約聖書 創世記1章1節、2章7節)