冬間近 青緑朱 天地人(※) |
けれども、思い切ってどんな本を読んだのか、思い出すままに書き留めてみる。先ずは、田中ひかるさんの『「毒婦」和歌山カレー事件20年目の真実』(ビジネス社)だった。田中ひかるさんの目を信じているだけに、私の偏見を改めて糾された思いがした。
そのうちに袴田巌さんを巡る本を数冊読んだ。特に感銘を受けたのは『裁かれるのは我なり(袴田事件主任裁判官の39年目の真実)』(山平重樹著双葉社)と『袴田事件を裁いた男(無罪を確信しながらも死刑判決文を書いた元判事の転落と再生の43年)』(尾形誠規著朝日新聞出版)という二著だった。ある意味で対照的とも言えるこの二著はものごとを知ることのむつかしさ、人の姿の多面性を味わわされた。
そして、とどのつまり『主よいつまでですか』(袴田巌著新教出版社)という獄中で書かれた文章を主体とする本に辿り着いた。袴田さんがどのようにして主イエス・キリストの救いを受け入れられているのかが知りたかったからである。(昨日の東京新聞朝刊にも、無罪へ「どこまでも勝つ戦い」と題する記事が掲載されていた。それにしても、どうしてこんなに冤罪が多いのか気になる。)
一方、私は末盛千枝子さんの書かれた『「私」を受け容れて生きる(父と母の娘として)』(新潮社)を読む機会が与えられていた。不思議なことに、袴田さんも末盛さんもカトリック信仰の持ち主であった。その真実な生き方に共鳴し、共感するところがあったが、やはり私には今一歩両手をあげて喜べないところがあった。
そうかと思うと、『嬉遊曲、鳴りやまず』(中丸美絵著 新潮社)という実に華麗な個性的な生き方を身につけて生涯を歩んだ斎藤秀雄も知ることになった。この方のバックボーンの一つにはやはりキリスト者の大きな影響があった。しかし、私にはこの方の歩みにもそのまま同調するわけにはいかなかった。
それぞれ私たちは個々の人生を歩むのだから、私がこのように考えるのも当然と言えば当然と言えるのでないかと思う。そうした読書経験に、水をさすかのように起こっているのが、ウクライナとロシアの戦争を凌駕するかの勢いで、流れ込んで来て固唾を飲んで今も見守るしかないイスラエルとハマスの戦闘であった。
こうとなってはもはや猶予はない。私は手当たり次第、以下の本などを渉猟せざるを得なくなった。『イスラエル』(臼杵陽著 岩波新書)『ライフ世界の大都市(3)』(タイムライフブックス)『物語 エルサレムの歴史(旧約聖書以前からパレスチナ和平まで)』(笈川博一著 中公新書)『地図で見るイスラエルハンドブック』(フレデリック・アンセル著鳥取絹子訳 原書房)『パレスチナを知るための60章』(臼杵陽・鈴木啓之編著 明石書店)。
しかし、今もってイスラエルとハマスの戦闘の行く末を理解できないでいる。そんな私だが、今の世界、今の自分の姿を照射する確かなことばは以下に掲げる聖書のことば、これしかないと思っている。どのようにしてこのことばと現実に折り合いをつけるのか、多読の読書経験とともにこれからも考えていきたいと思っている。
※昨日、古利根川を散策していたら、鉄橋近くに、数人の方がそれぞれカメラを背に待ち構えておられた。そのうちに列車が右方向からあらわれた。東武野田線としては、いつも見慣れない朱色の車体であった。思わず私もiphoneで遠巻きながら仲間に加わった。「さて」と、その思いを俳句にと思ったが、絵心もなく意味のない駄句である。諒とせられたい。その後、迫田さんから「冬ぬくし」の季語を教えていただいた。したがって、「冬ぬくし 青緑朱 天地人」なら、少し「我が心」に近づいた?)
兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうしてイスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。(新約聖書 ローマ人への手紙11章25節〜29節)