2025年4月30日水曜日

『沢ぐるみ』という発語

沢ぐるみ 春の勢い 川に満つ
 いつもこの木に何故か、心惹かれる。初めてこの木が『さわグルミ』だと教えてくれたのは何年か前の妻の言葉である。どうして、そんな名前を知っているのか、私には不思議でならない。察するところ、妻の父から幼い時に、教えられたようだ。

 昨日も散歩のおり、しつこくこの木の名前をどうして知ったのか、聞いてみたが、あまり覚えていないらしい。しかし、「ひょっとして『さわ胡桃』でなく『鬼胡桃』かも知れない」とも言った。図鑑で調べてみると、どうも『鬼胡桃』が正解のようだ。

 義父は大正6(1917)年生まれの師範出身の教師だった。実地体験よろしく、子どもたちに教えたのだろう。その親子関係が羨ましくなる。私の父は明治44(1911)年生まれで師範は落ちたが、教員養成所上りの教師だった。義父は旧制中学、父は農学校を経由しての教師生活であった。義父は教師一本で晩年は郷土史に集中した。一方、私の父は同時に教練の先生として配属将校でもあった。戦後教師を辞め、食糧事務所に勤め、検査官として定年まで勤め上げた。

 父は戦争未亡人となった母が嫁いだ家に養子として入った。お家断絶の恐れを抱いていた母は凛々しい軍服姿の父を信頼しての再婚だったのだろう。一粒種の私は昭和18(1943)年に生まれた。父は後年私に一度も「戦争」の話はしなかった。ただ小学校低学年の時に、私の目の前で見せられたのはちゃぶ台をひっくり返しての夫婦喧嘩であった。その原因がどこにあったのかわからないが、大体において私の子育てをめぐっての意見の違いがあったようだ。しかし不如意な戦中、戦後の生活がもたらした互いの生活上の苦しみ悩みがあったのではないかと想像している。

 私が妻の「さわぐるみ」発語で羨ましく思うのは、父からそのように教わる機会を持たなかったことにある。残念ながら、家族三人で撮った写真は一枚もない。父はカメラ愛好家でドイツ製のカメラ「ライカ」を持っていたと聞いている。それなのになぜ?とも思う。詳しいことは語れないが、そこにはやはり戦争というものがもたらした傷跡がある。

 父は昭和56(1981)年痴呆症を患って、69歳で亡くなった。その父の無念を思うと一人息子として父を心から尊敬し愛さなかった己が無知を申し訳なく思う。できれば、母と一緒に伊吹山の麓で育った父の豊かな農学校上がりの知恵でもって、山々や野花の詳しい手解きを受けながら「さわぐるみ」の名前も覚えたかったと思う。

 しかし、今は妻の案内で豊かな植物の花々や自然界の春の息吹を味わうことができるのは望外の喜びである。その上、妻と私の結びつきは、義父が教師として歩む中で、私でなく、私のいとこが二人も義父に教わった偶然性から発展したことにあり、より一層義父の存在が私には眩しく見える。また我が父もそれに劣らない含蓄の持ち主であったことを今は思いたい。6歳違いの父と義父の年齢差は戦争に対する加担の思いは自ずと違うことだろう。義父の最初の子である昭和20(1945)年生まれの我が妻の名前はそれこそ平和への希求そのものである「和子」であることに改めて思い至る。

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(新約聖書 マタイ5章9節)

2025年4月26日土曜日

斯くて「この日」は去れり

 これはまた何と素晴らしい花であろうことよ。昨日、病院の玄関先で家内が指し示した花だ。調べてみると「ヒトツバタゴ」とあり、モクセイ科とあった。改めて今朝写真を取り出して眺めてみた。今日の日にふさわしいと思った。

 毎朝、食事のたびに私は「今日は何日、何曜日」と言うことにしている。そして『日々の光』という聖書のみことばを朗読し、お祈りする。今日はその言で行くと「4月26日」である。そう言った途端、家内が「26日?結婚記念日じゃない!」と言った。

 ここ数年家内の方からこの日に気づくことが少なくなっていた。ところが今朝はなぜかこのような会話になった。感謝なことだ。改めてこの花を見つめてみると、純白のウエディングドレスに身を包んでいた家内を思い出す。よくぞ55年の結婚生活に耐えて今日にまで至ったか感謝に堪えない。

 昨日は主にある友から『山路こえて』と題する歌集を贈っていただいた。千数百首から構成されていた。その歌を家内に読み聞かせた。四季折々の花々が巧みに詠み込まれている。その友とは10年近く親交があった。様々な事情があり、ここ数年交わりを閉ざしてしまった。

 そんな私に友は屈せず便りを寄越してくださっていた。この数日その友に一言私の気持ちをお伝えしたいと思っていた。以心伝心と言うべきか、昨日この400頁近い歌集が送られて来た。急いで読み出した。そのうちに、読み方が分からず、声に出して読まずにおれなくなった。不思議なことに声に出して読んでみるとリズミカルに文意をとらえることができた。何より友の肉声に接する思いがした。

 さらに驚いたのは家内が作者が詠み込んでおられる様々な花々に大変な関心を示して耳を傾けたことだった。いや、花に疎い私の方で家内にそれぞれの花の名前を挙げ、説明してもらう、そして再び歌に戻り、さらにその歌をしみじみと味わう余徳に預かることができた。

 まだ全部読んだわけでないので、その作歌の感想を述べられないが、折角だから、この日の記念に二、三彼の歌を紹介する。

卯月の晦日(つごもり)にして奥美濃は青葉に絡む藤の花房

竹叢(たかむら)の葉陰に咲ける山吹の花ひそやかに季(とき)は移らふ

「行く春の」芭蕉の句など思ひつつ美濃の山路を過ぎ行きにけり

 最後の歌は端なくも、前回の我がブログにそっと書き加えた芭蕉の句が引用の形で詠まれていた。不思議なことだ。

 一方、ここ2、3年お会いすることのなかった家内の50年来の親しい方が久しぶりに訪ねて来られた。85歳になられると言う。その方との屈託のない会話に終始している家内の自然な姿に接し、友の作歌を私の朗読に合わせてともに味わった姿と重ね合わせ、静かな喜びを味わうことができた。

 最後に今朝の『日々の光』の冒頭にあった聖句を紹介しておこう。これこそ主が気づかせてくださった、主が仲立ちとなって私たち夫婦を常に導いてくださる大きな愛の表出だ!

あの方(=主イエス・キリストのこと)の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださる。(旧約聖書 雅歌2章6節)

2025年4月24日木曜日

下戸の春

花の香に 酔って候 下戸の春
 私の宿痾は『鼻』である。それも『後鼻漏(こうびろう)』という始末に負えない病に毎日悩まされている。小学生・中学生の頃から、鼻が出る(垂れる)のが恥ずかしくって、授業中、絶えず下を向いており、一時も早く授業が終わらないかとそればかり思っていた(休み時間になれば鼻をかめるからである)。病昂じて、小学校高学年から京大附属病院に通う羽目になった。

 今から考えてみると、家から近江電車で彦根まで行き、彦根から京都まで東海道線で行くだけでも大変だったと思う。当時は電車じゃなく汽車であった。特に大津から山科に入るまでの逢坂山トンネル、山科から京都に入るまでのトンネルは、煙除けのため、夏の暑い最中など窓の開け閉めで苦労した覚えがある。京都に着いたは着いたで、市電に乗り換えて、最寄りの駅『熊野神社』まで出かけた。

 だから、この持病の所為(せい)で田舎者だが、市電の河原町線、東山線の車窓から見える神社仏閣をはじめとする京都の風物には馴染まされた。大学卒業前に再び大学病院で鼻の手術をした。それ以来それほど気にしなくなった。ところが、10年ほど前から『後鼻漏』に悩まされるようになった。お医者さんによると加齢に伴う『血管性鼻炎』だと言われる。

 長々と「鼻」につきあっていただいたが、そんな私は意外と敏感な「鼻」の持ち主でないかと思った。今日の写真、俳句がその証拠である。いつも通り、自転車で古利根川に向かったが、道路脇に植っているツツジが発する「芳香」を胸一杯(鼻いっぱい?)感ずることができたからである。

 古利根川に着いたは着いたで、桜並木の袂に写真のようにツツジが街路樹よりさらに伸び伸びと花を咲かせていた。桜が散ってすっかり人通りの絶えたかに見える川縁だが、ゴールデンウイークを間近に控え、ゆっくりと落ち着いた春を過ごしたい。

「行く春を 近江の人と 惜しみける」(芭蕉)

主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、野のすべての獣に飲ませられます。野ろばも渇きをいやします。そのかたわらには空の鳥が住み、枝の間でさえずっています。主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために。また、人の心をささえる食物をも。の木々は満ち足りでいます。(旧約聖書 詩篇104篇10〜12、14〜16節)

2025年4月23日水曜日

二三人我が名により集まる所、我も在り


 毎週月曜日は長男と私たち夫婦とで祈り会を持っている。もちろん長男は現役の働き人である。様々な用事がある中で、時間を工面するのは中々大変だと思う。案の定、今週は会社の会食があり、昨日22日(火曜日)に延期してくれと、21日(月曜日)に連絡があった。

 ところが昨日九時過ぎに待機していたが、電話はかかって来なかった。多分疲れて眠ってしまったのだろうと思っていた。ところが二、三十分経って携帯でなく、家の電話にかけてきた。どうしたのだと聞くと、いつも通り携帯に電話するが通じなかったのだと言う。

 このような携帯電話を通して三人で祈り会を持つのはいつからか覚えていないが、10年くらいは続いているのじゃないだろうか。その中で通じないという経験は今回初めてだった。原因は私のiphone設定にあることがわかった。

 普段、子どもたちから、5年前に『金婚記念』にといただいたApple Watchに励まされて散歩を欠かさず行っているが、1日の終わりにはその充電量が残り10%を切り、毎日困っていた。それを改善すべく操作をしたが、その際、外部からかかって来る電話が繋がらないようにしてしまった(ようだ)。『集中モード』と言うシステムだ。

 結局昨日はこのためあたふたとし、祈り会は行なえなかった。予定通りであれば、昨日は『ローマ人への手紙』2章の輪読と互いの祈りで終わるはずだった。何となく、泡の抜けたビールのような感じがしないでもなかったが、そのまま二人とも休んだ(普段、ビールは全然飲まないので、この表現は間違っているかもしれないが・・・)。

 さて、2000年前のキリスト者の書翰を通しての交わりについて、今せっせとパソコンに打ち込むという書写に勤しんでいる。『聖パウロの生涯とその書翰』がその本の題名だが、その本に次のような記載があった。以下にコピペする。

書翰の提携者テモテ
 当時にあって書翰の送達は容易の業ではなかった。ペルシヤのangariaを見本としてローマ皇帝が創設した帝国郵便があったけれども、それは国家の施設で、個人の急信は個人の使者が運搬した。普通に富豪は飛脚の人数を具えていたが、それほど余裕のない者は臨時に使者を雇傭した。さらに貧困なるものは友人かまたはその方へ向かう旅人に託した。これがこの使徒の手紙の送られた方法であった。今日の例をもって見ればテモテが逓送夫となった訳である。これは重大な職分であった。蓋しパウロの逓送夫は単純な郵便夫でなかったからである。彼らは人間による音信の書状として信頼せられたのみならず、記された書信を布衍(ふえん)し、また補助する責任を負うていた(ローマ15:12、エペソ6:21〜22)。

 この文章は1926年に日高善一さんが1907年イギリスのスコットランドの片田舎で牧会していたDavid Smithが表題の作品を物すべく13年かかって発表したものを日本人向けに翻訳して総ページ700ページを越える大冊にまとめ出版にこぎつけられたもので、私は今、無謀にもその大冊を書写している。「ちりも積もれば山となる」のたとえ通り、やっと今日の個所はその187ページにあたるところにまで到達した。テサロニケのキリスト者に宛てた第一の書翰について述べている個所である。2000年後、100年後、iphoneを通して家族・友人の救いのために祈る私たちの祈り会は敢えなくも中止された。しかし、そこには彼我の通信手段(2000年前の書翰とiphone)、また日本語表現の違いはある(100年前の日高氏の漢字表現の豊かさ!)ものの、2000年、100年をものともしない主なる神様の御憐れみ、ご支配があることを思わずにはおれない。

 それにしても引用文の最後の文章は中々味わい深い文章である。著者・訳者の真意を表わすための聖句は何だろうと考え喘いで、思い至った聖句を今日の聖句として記しておく。

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。(新約聖書 2コリント3章2〜3節)

2025年4月21日月曜日

懐旧談(1960年前後の高校時代)


 今朝は新聞休刊日だった。こんな時、私の唯一の頼りはTBSの『森本毅郎スタンバイ!』である。八時台の話題では、名だたる「短大」が次々姿を消し、短大生の数が現在は最盛期の六分の1程度に減って来ていることを扱っていた。一昔前の時勢と今日では人々の価値観も変わって来たことを感じないわけには行かなかった。

 そのことがきっかけで、久しぶりに家内と高校時代の話をした。私たちは三学年違うが、同じ高校なのでお互いに共通の教師を知っている。しかも大抵、教師のあだ名で話が通ずるのだ。そんな私にとって、高校時代はまさに『春爛漫』の時代だった。

 元々、その高校には、中学2年生の時の担任は、進学は無理だと宣った。保護者懇談会を終えて帰ってきた母はその担任の言にぷりぷり怒って帰って来た。母としては息子の学力がそのような判定をいただいたことが不満だったのだろう。それは私に対するぼやきでもあった。

 そんな私がその高校に進学できたのだから、それだけでももって名誉とすべきだろう。だから、英語の時間、私の前の席に座っていた同級生は同じ姓なのだが、隣町から通って来た人だったが、恐ろしくその英語の発音が流暢で滑らかであった。私は嫌が上にもとんでもないところに迷い込んできたものだわいと思った。しかし、中間テストの折り、成績発表があったら、何と私がその人より好成績で、しかもクラスでトップだった記憶がある。

 それは英語だけに留まらず、化学でも好成績であり、苦手の数学も高評価をいただいた。途端に自信を持ち、あくなき好奇心に任せ、様々な本を読んでいった。高校の図書館だけで満足せず、市立の図書館、町の公会所などの図書など手当たり次第手にした。その頃ポーリングというアメリカ人だと思うが、ノーベル化学賞を受賞したと記憶するが、その彼の化学書があった。湯川秀樹の『理論物理学講話』という本も見つけた。

 高校は『東高』でなく『短付(たんぷ)』がふさわしいと中学の担任が宣ったにしてはエライ飛躍ぶりであった。とうとう一年の担任から、私の大学進学の相談のおり、彼の口から、京大理学部は、現役では無理だが、まあ、一年浪人すれば受かるだろうと、望外のお墨付きをいただいた。

 その教師の口調、態度を思い浮かべながら、この話をしたら、それ『コロンブス』でしょう、と家内は言った。私は、目を剥き出すようにして喋るその先生の姿を思い出しながら、どうしてコロンブスと言うのか、と聞いたら、「だって、顔が似ているもの」と言った。そう言えば、英語リーダーの教師は『暁月の君』だと、結婚してから家内を通して知った。「垢つきの君」と言って、いつも同じワイシャツを着ていらっしゃったからだと言った。さすが女生徒は観察が鋭いと思った。

 もう一人の英文法の教師は『てんこち』と在学当時から互いの間で呼び合っていた。口の両側に髭がピンと伸びていて、ヘアースタイルも斬新そのものであった。この先生はユーモアある教師でbuyの過去分詞を言わせ、生徒が答えられないと、「ボーっとしているな!」と喝をつけられた。今から考えると私のレベルにあった授業を各先生から受けたと思う。

 藤倉巌先生は『巌(がん)』と言うあだ名で呼ばれ、『徒然草』を読まされたが、その講義はまさに徒然草を通して語られる、人生訓で古文の学びを超えた真実の世界を垣間見させられた思いがした。一方、東大のインド哲学出身だと言われた先生からも英語の授業を受けたが、大変な博識で英語の授業より、三十三間堂の弓矢の射掛け話など余談ばかり聞いていた記憶がする。

 こうして中学時代に私に『短付(短大附属工業高校)』を勧めてくださった担任は、『東高』に進んだ私をどのように見ておられたのだろうか。ひょっとして、私に発奮を促す意図があったのかも知れない。そのお灸が功を奏したからこそ、私はこのような『春爛漫』の高校生活を手にしたのだ。一方、高校一年の担任の先生の言にもかかわらず、私は2年浪人をして、しかも当初の希望大学に入れず、その後の『疾風怒濤』の生活を経験する。こちらの方は恐らく担任の先生が私を励ますために言われたに過ぎないのに、私はこの時はそれ以上努力せずとも合格できると高を食ってしまったのだった。人生ってわからないものだ。

 なお、中学の担任の先生にはその後、私たちの結婚の際に、仲人をお願いした。その時、母は亡くなっていた。ぷりぷり怒って帰って来た母がそのことを知ったら、どんな表情をしたであろうか。今となっては全て懐かしい思い出である。

主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いはによる。(旧約聖書 箴言21:30〜31)

2025年4月11日金曜日

のどかなり、春の日

桜散り 戸惑いつつ 踏み歩む
 今日は、いつもの散歩コースと違い、久しぶりに古利根川の下流に歩を定めた。上流に比べると人通りは絶えており、野鳥(主に椋鳥だと思うが)の囀りのみが夥しかった。堤には桜花が路面を散り染めていた。一歩一歩踏み歩くのが思い慮られたが、何も言わない桜花に免じて歩かせていただいた。ふと見上げると今まで気づかなかった水原秋桜子の俳句があった。

 垣の梅 古利根川に 倒れゐる

とあった。流石に動的だ。私もそれを真似て、下の句を「歩みゐる」としたかったが、上のように詠んだ。

 一方、上流の河辺に見かけなくなった鴨や亀が下流にはそれなりに生息していることに気づかされた。左画面はその一つだが、上流と異なり、こうして丘の上に上がって日向ぼっこ(?)をしているのだ。一月ほど前に、「雉」をみつけたのも下流だったから、古利根川の包容力はなかなかどうして大したものだ。

 今朝は3月中旬以来、書写を試みている『聖パウロの生涯とその書簡』(David Smith著日高善一訳1927年刊行)も全700数ページのうち100ページまで辿り着けた。いよいよ本格的なパウロの伝道旅行の記述が始まるところだが、特に『使徒の働き』の13章の叙述が心に響いた。さわりの部分を紹介しよう。

占星家宣教師たちを妬む
 これぞまた得難き好機会であった。彼らは喜んでそれを捉えた。彼らは総督に福音を解説したが、彼は興趣を傾けてこれを聴いた。バルイエスはその傍に佇んでいたが、その主君が感激しているのを知って、警戒を与えた。彼は彼らが総督の信任を得て彼を排斥し、その営利事業を奪うことを虞れた。故に彼らを妨害しようと決心したが、パウロは遂に堪忍の緒を切った。彼はこの法螺吹きを尻目にかけて『ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。』(使徒13:10)と叱咤した。この使徒の心は憤りに燃えたが、同時にまた羞恥の情があった。福音に対するこの詐欺漢の反抗は宛然彼が寸分違わぬ同様の精神によってかつて行うたところであることを認めたからであった。彼は自らかつて陥ったと等しき宣告をバルイエスに下した。『見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる。』(同13:11)と。その語は忽ち実現した。霊は占星家の眼を蔽うと、ダマスコ途上の迫害者と等しく『手を引いてくれる人を捜し回っ』て退かねばならなかった。
総督の回心
 これは一時的の現象で、恩恵深き計画であった。パウロは彼の罪とその刑罰と同様バルイエスがその悔い改めにおいても彼と等しからんことを望んだ。『これによりて彼が自ら受けたる休徴により』と聖クリソストムは言う『彼を捕えんことを望めるのみならず、なお「暫く」とは罰を与うる人の語ではない、回心せしめんとする人の語である。蓋し若しパウロにして罰せんとしたのならば、彼を永久の盲目たらしめたに相違はないからである』と。その結果は記録が残っていないけれども、奇蹟は無益ではなかった。占星家はともかくとして総督は捕らえられたからである。

この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った。(新約聖書 使徒の働き13:12)

2025年4月8日火曜日

桜花爛漫の古利根川

桜花愛(め)づ 足音軽く 引きも切らぬ  
 今日も古利根川縁では、人々が行き交っていた。画面中央の御仁はキャンバスに向かって絵筆を走らせていらした。その左側の人は上を仰いで桜の木にカメラを向けていらっしゃる。自転車を走らせておられる方、前屈みがちになって歩を早めている方も、すでに心は豊かにされての帰り支度に違いない。

 川中には亀と鴨がお互いに仲良く共存しあっていた。亀は十匹近く縦一列に隊を組んでいる。その近くを鴨の数羽がこれも一団となって、回遊している。画面では捉えられていないが、親鴨は画面右の方に行ってしまったが、親子家族の鴨のようだ。百数十羽いた鴨もここ数日の間にすっかり姿を消しつつあるのだが・・・

 一方、魚は水量たっぷりの河中から浅瀬に入り込んでは、産卵するのだろうか、雌雄互いにのたうち回っての勢いは激しい。波飛沫をあげ、その音がバシャバシャと聞こえる。毎年のように、魚はここに上がってくる。いやが上にも生命の躍動を感ずる。一度その様を撮りたいのだが、中々iphoneでは撮れない。川中の波渦が辛うじてその様を映している。それで了としたい。

  かと思えば、今日じゃなく昨日の写真だが、相変わらず青鷺が虎視眈々と獲物を狙って王者の如く川央を飛んで行く。水辺に少し止まったところを撮影したが、すぐ気づかれて飛び去られてしまい、至近距離では撮影できなかった。それでも嘴の黄色が撮れたので良しとしたい。



 先週は寒く、春だと言うのに、全く冷え切ってしまった。しかしそんな時も川は流れている。暖かくなって桜の開花が進み、私たちの心も陽気になった。もし水なくばどうなるのだろう。樹木、植物は川の水を吸い上げ、実を結び花を咲かせる。一方川には魚が住み、鳥が近寄り餌を求め囀る。私はこの囀りを聴いているだけで心豊かな思いにされる。まさに春爛漫である。最後に今日の古利根川を紹介しておこう。


イエスは立って大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(新約聖書 ヨハネの福音書7章37〜38節)

2025年4月7日月曜日

春眠、夢を覚え


 四月も早や一週間が過ぎた。このところ連日のように古利根川縁は桜を愛でる老若男女の人々で賑わっている。溢れかえるほどではないのが、良い。皆それぞれじっくり桜を鑑賞できる。素晴らしいことだ。

 大抵、ほとんどノルマと化している、一冊の本(※)の書写に倦み疲れた頃を見計らって家内を誘い出し古利根川まで出かける。ある時は自転車で、ある時は徒歩で。徒歩だとかれこれ四キロになる。少し負担がかかるので、自転車で出かけ、古利根川の一周で我慢する時もある。まあ、半々である。82歳と79歳のコンビだから、果たしてこの先何年くらいこのような生活を続けられるのだろうか。

 漱石は確か、「午前の創作は午後の愉悦をもたらす」とかどこかで言っていたように思うが、私にとっては午前中の書写と散歩が、彼の「創作」にあたる。午後はゆっくり寛ぐ、それは彼の「愉悦」にあたる。

 さて今朝は不思議な夢を見た。ある集まりで音楽会が催された。指揮者として「山田耕筰」氏がタクトを振るから、という前宣伝であった。果たせるかな、彼がやってきて、演奏会は始まった。曲目はヘンデルであった。その音色は何とも言えない音色で、その音を聞きながら、ヘンデルにはこんな作品があったのだと独り感動しているのだ。感動していると言ったが、私はと言えば、演奏会の隣室の大きな部屋で寝そべって聞いているのだ。だから当然、指揮者である山田耕筰氏の顔はわからない。演奏される音楽だけが聞こえてくる。

 一体、これは夢と言っていいのだろうか。音が聞こえるなんて。しかも振り返ってみるとその音楽はサンサーンスの交響曲第三番の曲中、オルガンの全奏の前後(?)に奏でられる曲に似ているが、それよりもはるかに落ち着いていて、深みのある、えも言われぬ曲想だった。そんな夢の話を家内に話したら、「随分と高尚な話ね」と言った。私もこんな夢を見るのは初めてだ。まして音楽の素養がなく、むしろ音楽には劣等意識さえ持っている私がそんな夢を見たのだ。

 フロイトは夢判断をしたのだろうが、私の夢判断はどう出るのだろうか。春眠暁を覚えずという言葉もあるが、春の夢を語ってみた。

※『聖パウロの生涯とその書簡』(デーヴィツド・スミス著日高善一訳1927年刊行)

を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(旧約聖書 イザヤ書55章6節)