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| 『アンデルセンから イブとクリスティーネ』 吉岡賢一作 | 
最初お見舞いした時には、何でも自分の思いを神様、イエス様にぶっつけてください、神様は必ず聞いてくださいますから、とお話しし、神様がイエス様を信ずる者に永遠のいのちを約束していてくださることをお伝えして辞去してきた。それから二週間ほどして再びお見舞いに行った時には、明るく、「祈ってましたよ」と言われた。嬉しくなった。しかし、その後病状は一層悪くなられた。あとの二回のお見舞いの時は声をかけるのがやっとだった。何とか「永遠のいのち」を確信されて死の門を潜っていただきたいと思い、別にお手紙も書いたりしたが、自分の心のうちでは十分伝えきれなかったという悔いた思いが、重く支配し続けた。しかし、最近やっと自分を責めるのでなく、このことも主は聞いてくださって、不完全な私を通して主ご自身が直接、語りかけてくださっていたのだと思うようになった。そして、重い鉛に押しつぶされるように、心を鬱屈させる思いから少しずつ解放されるようになった。
このような理由の他、初旬には私も妻も大変な風邪にかかってしまった。それも長引いた。今では脱出したが、中々どうして大変だった。その間、政界の動きは急ピッチで展開し、出す出すと言っていた石破(前)首相の『戦後80年所感』は総辞職ギリギリの段階でやっと日の目を見た。そして、首相は高市早苗氏に代わり、連日のようにその様子が映像を通して茶の間に飛び込んでくる昨今になった。その上、大変な高支持率ぶりで、こちらとしては色々批判したいところもあるが、まずはお手並拝見とばかり、冷静に政治・経済の動きを見ているところで、意見を表すまでには至ってはいない。まあ、こんなわけでブログを休んでしまった。昨日だったか、ダニエル書の次の記事を読んだが、それに関してF.B.マイヤーが書いていた文章を通して考えさせられた。
私、ダニエルは、幾日かの間、病気になったままでいた。その後、起きて王の事務をとった。しかし、私はこの幻のことで、驚きすくんでいた。それを悟れなかったのである。(旧約聖書 ダニエル書8章27節)
ダニエルは、重大な幻(雄羊であるメド・ペルシヤが雄ヤギであるギリシヤに打ち倒される運命が預言されている)を朝に夕に与えられながら、なお平常どおり引き続いて、ペルシヤ王朝に仕える家臣として、「王の事務をとる」のでした。私たちも朝に夕に幻を与えられねばなりません。しかし、それとともに、この世の職務にも携わらなければなりません。窓を開いて祈ることなかるべからずであるとともに、机の前に執務することもなかるべからずなのです。たとえ、そのわざが、やがての日には過ぎ去っていくものであったとしても、その時まで忠実に行なうのです。(『きょうの力』F.B.マイヤー著559頁より)
このマイヤーの文章を読みながら、ルターの言った(?)とされる言葉を思い出した。
たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える。
それと同時に、今日10月31日は宗教改革記念日であることも端なくも思い出した。10月最後の日、かろうじてブログの穴を埋めた気分である。読者、諒とせられたし。 
(冒頭の絵は、作者が今年度の二紀展に出品された作品である)
 
 
 
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