2010年9月30日木曜日

説教者に問われるもの(中)

人は説教者を造ります。しかし神はその人を造る必要があります。ある意味では、言づてよりもそれを伝える人の方が大切です。説教者は説教以上の価値を持っています。説教者は説教を作ります。母の乳房から出て生命を与えるあの乳は、母の生命そのものであるように、すべて説教者の口から出る言葉も、その人のあり方いかんによって味をつけられ、また満たされるのです。宝は土の器の中にありますが、その器がどういうものであるかによって、その宝は変質し、あるいはその色はあせるかもしれません。説教の背後には、その人の全人格がかくれています。説教とはある一定時間における一つの演出ではなくて、これは実に生命のあふれ出たものなのです。

説教を作るには二十年かかります。それは人を造るのに二十年はかかるからです。真の説教は生命に関するものであります。その人の成長の度合いにつれて説教もすぐれたものになります。説教に力があるのは、とりもなおさずその人に能力があるからなのです。また説教者が潔められているからその説教も聖なるものとなり、説教者が豊かに天から膏(あぶら)を注がれているから、その説教も天からの膏で満たされます。パウロは「わが福音」と申しました。しかしこれは、何もパウロが自分一個の偏見で福音の価値を下げたのではなく、またかってにそれは自分の占有だと決めてしまったのでもありません。これはただこの福音がパウロという人の心情と血の中に浸透していたので、パウロはみずからそれを自己流にこなして、燃えるような、彼の中からほとばしり出る強烈な力によってそれを燃やし、さらに強めていくのはみずからの個人的責任であると思ったからです。

パウロの説教、一体これは何でありましょうか。今それはどこにありますか。彼の説教は聖霊によって感動されたみことばの海の上に、破片となって漂っております。しかし、パウロという人物は、その説教よりもいっそう偉大な存在であります。彼は依然として同じ形、同じ姿、同じ型をもって生き続け、教会にその影響を及ぼしていくことでしょう。

説教は声だけのものであります。沈黙すれば声は消え、題句は忘れられ、説教は記憶から薄らいでしまいます。しかしながら説教者は決して死ぬことがありません。

人に生命を与える説教の力は、その説教者の能力以上には発揮されません。死んだ人から出る説教は死んでいます。死んだ説教は人を殺します。万事はすべて説教者の霊的容量によって定まるのです。ユダヤ人の時代には、祭司の長は宝玉で造った「エホバに聖し」という文字を前板に彫りつけました。すべてキリストの職務を帯びている説教者もまた、同じくこの聖い標語を彫りつけられてこれによって支配されなければなりません。キリスト教の聖職にあるのに、品性の聖さにおいて、あるいは聖さを目的とすることにおいて、もしユダヤの祭司に劣るようなことがあれば、それこそ大きな恥辱です。

ジョナサン・エドワーズは「私はいよいよ潔くせられ、またキリストに合一されることを熱心に追及した。私が望んだ天国は聖潔の天国であった」と言いました。キリストの福音は、普通の波によって動くものではありません。この福音はみずから繁殖する力を持っておりません。ただこれを動かす力を持っている人に従って動くのです。説教者は福音を擬人化しなければなりません。福音の神聖にして最も著しい特色は、説教者の中に構成されなければなりません。迫りくるキリストの愛の力は、外部に発散します。それは異常な力を持ったものとして説教者の生活に絶対的権限をもち、彼の存在を全く忘れさせる力とならなければなりません。克己力は説教者の神髄であって、また心であり、血であり、骨でなければなりません。

説教者は身にけんそんをまとい、柔和にあふれ、へびのようにさとく、鳩のように温和であって、人の中に進むべきです。また高位にある威厳に満ちた、何人にもたよらない強い態度をもつ王者の精神とともに、幼児のような単純と愛すべき精神をもって、しかも奴隷のつなぎの中にあって進んで行かなければなりません。説教者は自分を全く卑下する信仰と、自分を焼きつくす熱心とをもって、その救霊の働きに身を投じなければなりません。誠実、勇敢、また大胆であり同情深い殉教者とは、この時代の人をとらえて、神のために形づくるものでなければなりません。もし、説教者であっておくびょうにもこの世の風潮に従うとか、人の歓心をかうとか、人を恐れるとか、信仰の弱いために神とそのみことばをとらえることができないとか、またはその克己力を、自己または世における何らかの面によって破られるようでは、その人は教会をも、この世をも、神のために獲得することができないのです。

(昨日に引き続き、『祈りの力』からの引用です。読めば読むほど、誰か説教者たらんとするかという思いがします。しかし、よくよく読んでみると、これらはE・M・バウンズの言葉である以上に聖書そのものが今日に至るまでに私たちに伝えている真理そのものであります。「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」とパウロはそのガラテヤ人へ宛てた手紙1:10で言っています。写真は8月末、石川県小松市で見かけた川岸に停泊する船。画面奥は日本海であり、弁慶勧進帳でお馴染みの安宅の関は右手奥の方にある。「弁慶の 勧進帳 牛若に イエスの救い 罪人に向く」)

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