2011年10月18日火曜日

袖振り合うも多生の縁

信州・白駒池
昨年は10月の初めにスコットランド、ドイツへと出かけた。今年はほぼ同じ時期、信州で過ごした。信州はなぜか学生時代から憧れの土地だった。 それは友人のうちに信州人がいたからである。もちろんそれだけでない、ものの本を読む時に信州の教育の自由闊達ぶりを散見したことがあったからである。結婚する時、二人とも新婚旅行は信州と決めた。どことなく地味な感じがしないでもなかったが、私たちはそれで満足していた。

ところがなぜか、この20年弱のうちに浅間山麓の御代田に滞在することが多くなった。西軽井沢国際福音センターが町に建設され、「喜びの集い」のたびに出かけるからである。そしてむしろ景色よりも、そこでの様々な人々との交わりを与えられて喜んでいた。ところが今秋は初めて10月の信州を体験した。紅葉の信州である。心行くまで紅葉を楽しませていただいた。その上に熱い人々との交わりを体験させていただいた。わずか10日間ほどいただけだが、一年間分の人々との濃密な交わりを経験させていただいた思いがする。

その中でゆくりなくも一つの新たな事実が判明した。昭和39年(1964年)東京オリンピックの年、私は小諸近郊の学生村に滞在したことがあった。7年ほど前、確かこの辺りだと見当をつけ、娘の車で出かけたことがあった。でもはっきり場所が確定出来ずそのままになっていた。ところが今回霧ヶ峰高原・車山高原などにバス3台に分乗して出かけた折のことだ。家の近くにいる親しい方も参加しておられた。日頃は顔なじみだが、ご主人とはそんなに会話を交わす機会がなかった。

そんなおり、一緒に昼食のサンドを頬張っている時、何気なくご主人に「良司さんの里は東御市ですか」と聞いたら、そうだと言われる。小学校はどこなのと聞くと 「滋野小学校」と答えが返って来た。それと同時に私に47年前の記憶が再びよみがえってきた。そのハイキングには良司さんのお姉さんも参加しておられた。 彼女はほぼ私と同年輩であった。快い疲れの後、ハイキングから帰り、センターで再び良司さんの奥さんとお姉さんと一緒に食事をした。話題は再び滋野に戻した。ところが何と私がお世話になった民宿のお家はお姉さんの同級生の家だった。

信州の憧れの一つの出発点は恐らくこの小諸近郊での学生村での体験もあると記憶する。その現地が後年知人となった方々の故郷であった。もちろん47年前お互いに知らずに過ごしていた。ところがこうして福音の取り持つ摂理のゆえに一堂に会しているのである。まことに不思議な思いがした。それをきっかけに、大学の後輩の和臣君の家を川中島に訪ねることにした。この彼が信州人の原型であると私に記憶があったからである。14日の金曜日であった。私たちは卒業名簿で辛うじて知るだけで互いの顔も覚えていず、どういう関係であったかもわからず、再会した。私が電車を駆り立てて押し掛けて行ったからである。和臣君には有り難迷惑であったことだろう。

ところが会って話してみるとお互いに随分共通点があることに気づいた。不本意な大学入学のことや、京都のお寺にこもり二晩ほど学生運動の渦のなかに身を投じたときの同士であったことが彼の話から明らかになり、わずか1時間半ほどのお交わりであったが、久しぶりに旧交を暖めることができた。忘れている友がいる。 忘れているご恩がある。人は生まれて、どのようにして召されて行くのか。わずかの人生の出会いだが、主なる神様は日本人に「袖振り合うも多生の縁」という素晴らしい言葉を与えてくださっている。11月は今度は再び信州に出かけ、和臣君とも続きの話をし、学生村の方々(良司さんのお姉さんの同級生の方々)とも再会したいと今祈っている。

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。 (旧約聖書 詩篇139:1〜6)

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