2012年8月17日金曜日

主に愛されているひとびとへの祈り(下)

彼女たちは主がラザロをいやすことがおできになることを知っていました。聖書のすこしあとの部分で、彼女たちはつぎのように言っています。

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11・21)

マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11・32)

マルタとマリヤは、まったくおなじことを祈ったのです。「主よ。あなたにはすべてがおできになります」。彼女たちは、イエス様がラザロを愛しておられることを確信していましたから、「主は、どんなまちがいもなさらない」ことをもよく知っていたのでした。私たちもまた、このような信頼をもっていなければなりません。

私たちは、私たちの祈りに対して「主がなにをなすべきか、どのように行動すべきか、また、どのようにこたえるべきか」を、主に命令する権利をもっていません。私たちの主は生きておられるおかたですから、主はかならず私たちの祈りにこたえてくださいます。これはうたがいのない事実です。

しかし私たちは、あまりにもちかくしか見えず、視野もせまく、頑迷で頑固です。ですから私たちは、主がなにを予定しておられるか、どのように働こうとなさっておられるか、まったくわからないのです。ですから私たちは、理解できようができまいが、すべてをみこころとして単純に受け入れなければなりません。主がなさることは、いつも私たちに最善のことであり、それをとおして主の御名があがめられます。ですから私たちは主にたいして「まったく服従しながら」祈るというたいどをとらなければなりません。

私の友人のひとりは、いつもつぎのように言っています。

「主は、私がほしいものではなく、私が必要とするものをくださいます」。

つまり私たちは、いつでも必要なものはかならずあたえられるのです。「たしかに私は、必要なものをあたえられている」ということを、しずかに考えてみてください。

私たちはみな多くの苦しみ、重荷を必要とします。さもなければ私たちは夢の世界に生きるようになり、決して「祈る」ことをしなくなるでしょう。そして私たちは、祈らなければ主との交わりをもつことができず、主のたすけも、救いも、解放も経験することができません。

マリヤとマルタは、ほんとうにこまっていました。彼女たちはどうしたらいいのかわかりませんでしたが、ただひとつただしいことをしました。彼女たちは、イエス様に使いをおくったのです。イエス様は彼女たちがこまっていることを聞かれました。そしてイエス様がそのことを聞いてくださった以上、それは解決されたのとおなじことでした。イエス様はそれを解決することがおできになるおかたです。あなたに苦しみや困難がせまりあなたを圧迫したとき、どうかイエス様のところへ行き、イエス様に祈ってください。

私たちは、どのように祈ればよいのでしょうか。
1 深い苦しみのなかから
2 こころをひとつにあわせて
3.主をあおぎ見ながら
4 極度に緊急で
5 こころから服従しながら

あなたの愛するひとびとを、主のところにつれて行ってください。
そのひとびとを主の御手にゆだねましょう。
主は最善をなしてくださいます。主はご栄光を現わしてくださいます。
(『絶えず祈れ(下)』ゴットホルド・ベック著76頁から抜粋引用。)

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