2014年11月3日月曜日

あなたのみことばは真理です(上)

生憎の琵琶湖湖岸風景 2014.11.2朝

 このヨハネ伝17章はすばらしい祈りです(※)。毎日読んでもいいじゃないかなあーと思います。結局「あなたのみことばは真理です」。これはイエス様の確信であり、喜びの源でした。(※註 引用聖句はヨハネ17・1〜17)

 私の悩みの一つは何でしょうかね。まあ、悩んでいない人はいない。信仰があってもなくても人間は悩む者です。私の悩みの一つは、イエス様にとって、からだなる教会はいかに大切なものであるかと分かっていない人は多いということです。

 イエス様の教会とは仲良し会ではない。イエス様は、「わたしはわたしの教会を建てる」と約束してくださいました。どうせ人間はできないからです。けれどもイエス様はその約束を必ず守って下さいます。だからこそ、すべてをめちゃくちゃにする悪魔は、信ずる者がこのからだなる教会の大切さを知らないように昼夜攻撃し、めくらにしようと思っています。そして、ある程度まで成功したように見えますけれども、この勝利はもちろん本物ではない。偽物です。イエス様はご自分の教会を、自分のからだなる教会を建てる。このからだなる教会とは言うまでもなく、かしらはイエス様です。主のからだなる教会はイエス様にとってすべてです。

 コリント第一の手紙の中で次のような大切な箇所が書かれています。307頁です。コリント第一の手紙12章の27節です。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

と。そうなってもらいたいのでなく、そうなんです。事実(が)述べられています。上からの光に照らされて、すなわち、上からの啓示によって、この真理を心の目で見ていることのできる人は幸いです。それによって、すべての疑問、また疑いが飛んで行ってしまいます。今も歌いましたように、「いつまでも、いつまでも、主と生きる」(※)喜び。何があっても、もうちょっと、イエス様は近いうちに来られます。いろいろな問題がある。どうしたらいいかわかりません。けれども、確実なのはイエス様は近いうちに来る、それによって問題はいっぺんに解決されます。(※註 多分、日々の歌182番「よみがえりの朝に」をともに賛美したように記憶する)

 人間の祈りはたいせつです。もっとたいせつなのはイエス様の祈りでしょうね。イエス様は祈りの中で、今の読んでもらいました箇所を読むとわかります。ヨハネ伝17章の17節

(真理によって彼らを聖め別ってください。)あなたのみことばは真理です。

 聖書を学ぶ場合に一番たいせつなことは、次のようなことではないでしょうか。すなわち、聖書自身が自らを明らかにするということです。したがって、みことばを学ぼうとする時には、聖書全体が何を言っているかを正しく理解しなければなりません。たとえば新約聖書の中の福音書、あるいは手紙を学ぼうとする時には、絶えず新約聖書と旧約聖書の関係の中でそのところを読まなければなりません。それですから、聖書の中の一部分を読む場合などには、それが聖書全体の中でどのように位置づけられているかに注意し、そのところだけでなく、ある場合には前の方に遡り、ある場合には後の方を見なければなりません。

 また、みことばを読む目的はたいせつです。単なる知識を得るためではなく、心から真剣に真理を求めて行くという飢え渇きを持つことがたいせつです。聖書は神のみことばですから私たちはみことばを主なる神のみことばとして学び、主のみことばとして素直に受け入れることがたいせつです。

 私は聖書を読んでいる人の絵を四枚持っています。一枚目の絵を見ると、大きな人が小ちゃな聖書を読んでいます。二枚目の絵になると、その大きな人は前よりも少し小ちゃくなり、その代わりに聖書は前よりも少し大きくなりました。三枚目の絵を見ると、その人は前よりもさらに小さくなり、聖書はその人と同じくらいに大きくなっているのです。そして四枚目の絵を見ると、その人は非常に小さくなり、それとは反対に聖書は比較にならない程、大きなものとなりました。

 これからわかることは、始めは自分の考えによって聖書を解釈していた人は、聖書を読むうちに聖書が絶対的な権威を持つに至ったということです。つまりその人は聖書を主なる神のみことばとして真剣に読み、このみことばに耳を傾け注意してきましたからみことばがその人の血となり、肉となり、自分の思いが消えて行ってしまったのです。その結果、みことばがすべてとなり、主イエス様がますます大きくなったということです。

 今日、多くの人はみこころを軽く考えて、自分の考えで勝手に解釈したり、 みことばに対して耳を傾けることをしなくなってしまいました。けれども、正しくみことばを学ぶ時、聖書のみことばこそ絶対的な権威を持たなければなりません。聖書というものは決して研究のためのものではない、それをとおして主なる神ご自身がわれわれに語りかけてくださるみことばです。ですから私たちは注意深く聞かなければなりません。

(日曜日、ラフォーレ琵琶湖で開かれた喜びの集いでベック兄が語られたメッセージの聞き書きである。私は先週の月曜日、電車の中で一人の教会に集っておられる方と初対面だったが一緒になり、私が牧師のいない集会に出席していると言ったら、そのような集会では聖書がそれぞれ思い思いに解釈され、危険ではないかと言われた。私はもちろんその恐れはあるが、御霊なる神様のみことばは不動だから大丈夫だとその方にお話した。それから一週間もせずにこのメッセージに接するとは! 実にタイムリーな主の導きだと思う。主は確かに生きておられる!)

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