2017年4月27日木曜日

何々生まれ 何々育ち

老漁夫の詩 山村暮鳥 (大洗にて)

 中学校のころか、小学校のころだったか、新聞の社会面に、生まれ育った町の乱闘議会の様子が紙面を賑わせたことがある。その時、その「乱闘議会」の文字に大変恥ずかしい思いをした。事を決めるのに話し合いで終わらず、乱闘、腕力で事を決しようとした町の議員たちの姿が少年時代の自分にとっては、新聞を通して全国に知れ渡ったことを恥ずる思いがあったからである。それは今から60年前の1950年代のことである。

 今日大臣の失言や、審議不十分の共謀罪法案の行く末など、少年少女を取り囲む政治の状況は彼らにとってどのように映っているのであろうか。大変気がかりである。いや政治の行く末そのものに大変危惧を覚える。

 ところで、この乱闘議会は町村合併に賛成か反対かをめぐる対立がもたらしたものである。爾来、私たちの町は、市に編入されて誇りある町名を町民が名乗る機会が減ってきたのでないか。こんなことを書く気になったのも、田原総一朗氏の以下の文章に触発されたからである。同氏は『井伊家の教え』(2016年11月刊行)の冒頭で次のように書いている。

私は「彦根」生まれである。決して、「滋賀県」生まれとは言わない。あくまで、彦根なのである。この意識は、滋賀県内でも、彦根人だけが持っている熱烈ある郷土愛の証しだ。

 何を隠そう。私の生まれ育った町が町村合併の結果編入されたのはこの彦根市だった。私は「高宮」生まれである。ために高校以来今日まで町は彦根市になり、まして高校も大学も彦根で過ごしたので、出身地はどこですかと問われると、一瞬心の中ではためらいながらも、説明が面倒くさいのと知名度が高いので「彦根」出身と答えている。しかし内心では「高宮」生まれだと自負している。

 だから、田原氏が「彦根」生まれだと胸を張られるのは理解できるが、どっこいこのような「彦根人」もいることを田原氏に知って欲しいと思う。しかし、このような郷土意識は人類につきまとう一つの大切な意識かもしれない。聖書に次のような話が出て来る。

彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」(ヨハネの福音書1:45〜47)

 ナザレについて大変な偏見を持っていたナタナエルが、「ナザレの人でまことの救い主イエスに会った」と喜んで伝えた友人ピリポの言を一度は拒みながら、二度目は「来て、そして、見なさい」ということばにしたがってイエスのところに近づく場面である。その時、イエスはこの真っ正直な男を賞賛された。

 偏見は人間につきものである。しかし彼は心底神を求めていた。その思いは神の子イエスに通じていたのでないか。そのような偏見の対象たる町ナザレに神の子は住まれたのである。「偏見」、「誇り」、「過誤」一切を見そなはして、なおご自身がもっとも低きところにあってそこから絶望している者に絶えず声をかけて下さる主イエスに感謝する。

2017年4月1日土曜日

死別 オズワルド・スミス

 暗黒! 真夜中! 最後の別れが告げられ、最後の握手がかわされました。そして、あなたがいのちをかけて愛していたいとしい者が、あなたから去っていき、あなたはやるせない心細さの中に残されます。痛む心をいだき、呆然として、埋葬式という胸の張り裂けるような、恐ろしい経験をします。自分がこの地上ですべての愛情を傾けた者をその中に収め、冷たく黙している墓に背を向け、家路につく時、あなたは苦悩のあまり声をあげて泣き、これから先どうして生きていけばよいだろうかと途方にくれるのです。

 日はきたり、そして過ぎ去っていきます。長い暗い夜、あたりが静まり返っている時、いとしい者のおもかげが数かぎりなく、あなたの疲れきった頭を去来します。けれども、それはただ苦しみを増すだけで、慰めにはなりません。友人たちも、あなたを助けることはできません。宗教にさえ、あなたは失望してしまいます。教会は慰めを与えることができず、神は自分から遠く離れておられるように思えます。「ああ、消え去った手の感触よ、黙してしまった声の響きよ!」—これが、あなたの苦悩の叫びです。

 しかし、ついにある日—ああ、それはなんという日だったことでしょう—、あなたは助け主について聞きます。この助け主は、あなたのような経験をしている者のためにこそ、つかわされたのです。最初あなたは、どのように助け主を受け入れてよいかわからないで、暗やみの中で手探りしています。あなたはイエスのみことば—特に、イエスがつかわそうとしておられるもうひとりの方についての約束—を読みます。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)。ただちに、このみことばはあなたの注意を引きます。「これが、私に必要なものではないだろうか。ああ、どうしてこれを手に入れるかを知ることさえできたら!」どうしてそれを手に入れるか! あなたはもう一度読みます。やがて、光がもたらされます。それをではなくて、その方をなのです。

 突然、神はあなたの霊的理解力に活力をお与えになります。そして間もなく、あなたは助け主である方にある喜びを味わうようになるのです。驚いたことには、あなたの悲しみは去り、心痛はやみます。あなたの思いは、もうひとりの方にだけ集中されます。ただちに、あなたは自分の失ったものを思い起こします。しかし、流れ出ている涙は、今では感謝と賛美の涙であり、聖霊にある喜びの涙なのです。あなたのいとしい者は帰ってはきません。しかし、もうひとりの方、助け主が、あなたの心を満たしておられ、あなたにとって何ものにも代えがたいものとなっておられるのです。放心状態はまだ存在しています。しかし、それは不思議に満たされており、すべては最善なのです。ああ、なんという助け主でしょう。

 初代教会ではこのようでした。「聖霊に励まされて前進し続けた」(使徒9:31)。聖霊はその当時に助け主であられました。そして、今でもそうであられるのです。聖霊がおられないでは、任務を果たすことはなんと困難であることでしょう。しかし、聖霊がともにおられるならば、なんと容易であることでしょう。愛するみなさん。あなたはこの方を必要としています。実際、この方なしには、あなたはやっていけないのです。なぜ、あなたは神の最上の賜物—御霊—なしに、この人生を過ごすのですか。※

(『聖霊の満たし』オズワルド・スミス著松代幸太郎訳119頁〜121頁より引用※引用者註:ルカ11:9〜13参照のこと。)