暗黒! 真夜中! 最後の別れが告げられ、最後の握手がかわされました。そして、あなたがいのちをかけて愛していたいとしい者が、あなたから去っていき、あなたはやるせない心細さの中に残されます。痛む心をいだき、呆然として、埋葬式という胸の張り裂けるような、恐ろしい経験をします。自分がこの地上ですべての愛情を傾けた者をその中に収め、冷たく黙している墓に背を向け、家路につく時、あなたは苦悩のあまり声をあげて泣き、これから先どうして生きていけばよいだろうかと途方にくれるのです。
日はきたり、そして過ぎ去っていきます。長い暗い夜、あたりが静まり返っている時、いとしい者のおもかげが数かぎりなく、あなたの疲れきった頭を去来します。けれども、それはただ苦しみを増すだけで、慰めにはなりません。友人たちも、あなたを助けることはできません。宗教にさえ、あなたは失望してしまいます。教会は慰めを与えることができず、神は自分から遠く離れておられるように思えます。「ああ、消え去った手の感触よ、黙してしまった声の響きよ!」—これが、あなたの苦悩の叫びです。
しかし、ついにある日—ああ、それはなんという日だったことでしょう—、あなたは助け主について聞きます。この助け主は、あなたのような経験をしている者のためにこそ、つかわされたのです。最初あなたは、どのように助け主を受け入れてよいかわからないで、暗やみの中で手探りしています。あなたはイエスのみことば—特に、イエスがつかわそうとしておられるもうひとりの方についての約束—を読みます。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)。ただちに、このみことばはあなたの注意を引きます。「これが、私に必要なものではないだろうか。ああ、どうしてこれを手に入れるかを知ることさえできたら!」どうしてそれを手に入れるか! あなたはもう一度読みます。やがて、光がもたらされます。それをではなくて、その方をなのです。
突然、神はあなたの霊的理解力に活力をお与えになります。そして間もなく、あなたは助け主である方にある喜びを味わうようになるのです。驚いたことには、あなたの悲しみは去り、心痛はやみます。あなたの思いは、もうひとりの方にだけ集中されます。ただちに、あなたは自分の失ったものを思い起こします。しかし、流れ出ている涙は、今では感謝と賛美の涙であり、聖霊にある喜びの涙なのです。あなたのいとしい者は帰ってはきません。しかし、もうひとりの方、助け主が、あなたの心を満たしておられ、あなたにとって何ものにも代えがたいものとなっておられるのです。放心状態はまだ存在しています。しかし、それは不思議に満たされており、すべては最善なのです。ああ、なんという助け主でしょう。
初代教会ではこのようでした。「聖霊に励まされて前進し続けた」(使徒9:31)。聖霊はその当時に助け主であられました。そして、今でもそうであられるのです。聖霊がおられないでは、任務を果たすことはなんと困難であることでしょう。しかし、聖霊がともにおられるならば、なんと容易であることでしょう。愛するみなさん。あなたはこの方を必要としています。実際、この方なしには、あなたはやっていけないのです。なぜ、あなたは神の最上の賜物—御霊—なしに、この人生を過ごすのですか。※
(『聖霊の満たし』オズワルド・スミス著松代幸太郎訳119頁〜121頁より引用※引用者註:ルカ11:9〜13参照のこと。)
2017年4月1日土曜日
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