2017年5月1日月曜日

それほどまでにして戦争をしたいのか


 三谷太一郎氏の『戦後民主主義をどう生きるか』(東京大学出版会2016年9月刊行)を読んだ。その中にご自身の「記憶としての戦争」が次のように記されていた。衝撃を感じた。忘れないために以下書き写した。(同書246頁から引用)

 戦火が直接に私の身辺に及んだのは、私が在住していた岡山市に対する昭和20(1945)年6月29日未明の米軍機B29約70機による数時間に及んだ空爆である。それに先立って、当時国民学校三年生だった私に戦局の最終局面(私はそれを明確に認識するのを恐れていた)が近づいているのを感じさせたのは、沖縄の失陥だった 。

 私は米軍が沖縄本島に上陸した日のことを鮮明に記憶している。昭和20年4月1日の夕方近く、家の玄関前の中庭で近所の子供の一人と遊んでいた時、家の中のラジオから流れるニュースが何事かを伝えた。その時一瞬にして一緒に遊んでいた子供の顔色が変わった。「お父ちゃんの居るところじゃ。お母ちゃんに知らせにゃ」といって、風のように去った。

 60年経った今も、あの日の光景を忘れることができない。私は、それまで日本に「沖縄」という県が存在することを知らなかった。したがって米軍の沖縄上陸を伝えたニュースの重大性も、そのこと自体によってではなく、そこに駐屯していた兵士を父に持つ子供の全身を震わせるような反応によって、初めて知ったのである。その子の父が沖縄で戦死したのを知ったのは、戦後であった。

 岡山市が焼夷弾による空襲にさらされたのは、沖縄の日本軍守備隊が壊滅した六日後である。六月に入って、米軍の本土上陸作戦の開始が近いとの観測が明らかにされ、これに対応する体制の準備が進んだ。国家総動員法を強化した戦時緊急措置法の成立によって、空前の委任立法権が内閣や全国九ブロックに設置された地方総監府に付与され、さらに義勇兵役法成立によって、性別・年齢を超えた国民義勇戦闘隊の編成が進んだ。

 国民学校も軍隊化された。いくつかの学校群が「大隊」を構成し、各校は「中隊」と位置づけられ、各学級は「小隊」と名づけられた。私の所属は、「第一大隊第二中隊木山(担任の女性教諭の性)小隊」であった。私はもう一人の児童と共に「副小隊長」を命じられた。岡山市の上空にB29の大編隊が飛来した日の6月29日付けの『朝日新聞』には、安倍源基内相の「本土はもう戦場化しているといってもいい」との談話が載せられている。

 空襲は、防空演習の予想や予測をはるかに超えるものであった。未明に異変を知った一家七人は、市街の中心にあった家を脱し、寸土も見逃さない絨毯爆撃によって燃えさかる街路を潜り抜け、辛うじて郊外の農村に逃れた。東京での二度の空襲を経て、この日岡山で三度目の空襲に遭遇した永井荷風は、その日記に「九死に一生を得たり」と記しているが、それは当日の私の実感にそのまま合致する。民家に襲いかかるB29の黒い機影は、民家の屋根をすれすれに飛び、爆撃目標を誤ることはないように感じられた。この空襲で、「木山小隊」の児童の約半数が亡くなった。もう一人の「副小隊長」とは再び会うことはなかった。(中略)

 空爆によって家を失った私の一家は、父の出身の農村に移り住み、そこで敗戦を迎えた。八月十五日の記憶はもちろん鮮明であるが、とくに忘れることができないのは、その日の新聞に載った大日本政治会総裁南次郎大将の敗戦を語った談話である。当時の私にはもちろん南次郎についての知識はほとんどなかったが、「南次郎」という名前ははっきり覚えている。南談話の中で、私を刺激したのは、敗戦の原因として、「国民の戦争努力の不足」を挙げた点であった。自分自身でも意外であったのは、当時の私はこの談話に心の底から憤激した。私は生まれて初めて、日本のリーダーの責任感の欠如に対して根本的な不信感を持った。振り返ってみると、これが戦後への私の態度を決定する最初の要因であったと思う。そしてそれが記憶としての戦争を歴史としての戦争に結びつける媒介契機になったと思う。

 長々と引用させていただいたが、考えさせられる三谷氏の文章である。人の痛みを痛みとして感ずる政治の不在が相も変わらず続いている。それは一言で言えば日本の要路の人たちは今日「それほどまでにして戦争をしたいのか」の一語に尽きる。だからこそ、二千年前に生身のからだをもって和解をなして下さった主イエスのみわざを我が記憶として今日も覚えたい。

神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:18、21)

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