2017年6月14日水曜日

あそこば拝め

 昨日は石牟礼道子氏のことばを紹介しながら民数記21章に触れた。ところが、同氏の代表作『苦海浄土』を読んでいたら今朝次の箇所にさしかかった。(石牟礼道子全集不知火第二巻168頁)

 杢よい。おまやこの世に母(かか)さんちゅうもんを持たんとぞ。かか女の写真な神棚にあげたろが。あそこば拝め。あの石ば拝め。
 拝めば神さまとひとつ人じゃけん、お前と一緒にいつもおらす。杢よい、爺やんば、かんにんしてくれい。
 五体のかなわぬ体にちなって生まれてきたおまいば残して、爺やんな、まだまだわれひとり、極楽にゆく気はせんとじゃ。爺やんな生きとる今も、あの世に行たてからも、迷われてならん。
 杢よい、おまや耳と魂は人一倍にほげとる人間に生まれてきたくせ、なんでひとくちもわが胸のうちを、爺やんに語ることがでけんかい。
 あねさん、わしゃこの杢めが、魂の深か子とおもうばかりに、この世に通らんムリもグチもこの子にむけて打ちこぼしていうが、五体のかなわぬ毎日しとって、かか女の恋しゅうなかこたあるめえが、こいつめは、じじとばばの、心のうちを見わけて、かか女のことは気ぶりにも、出さんとでござす。
 しかし杢よい、おまや母女に頼る気の出れば、この先はまあだ地獄ぞ。

 作者(石牟礼道子)が水俣市八ノ窪の江津野杢太郎少年(9歳ー昭和30年11月生)の家を訪ね、杢太郎少年のお爺さんと話をするくだりの最後に出て来る場面である。原田正純氏がこの全集の月報に寄せた文によると医者として自らが書き留めたカルテとこの石牟礼氏の叙述を比較して次のように言っている。「薄っぺらな一枚の診断書用紙でその人間の苦悩を表現できるものではない。私は地域や家庭の中でどのような生活障害があるか具体的に診断書に記載するように努力したつもりだった。しかし、石牟礼さんの記述には到底及ばなかった。」

 この第四章「天の魚」と題する章で、天草から水俣に出てきた顛末が、70歳に達する爺さんの語りを通して明らかにされる。光ある生活を求めたにもかかわらず、一家から一人息子、孫を水俣病にとられ、嫁は去り、もはや漁に出ることもままならず、ジリ貧に終わるだけでなく、どのように彼らを介護して行けばよいのか途方に暮れる日々が描かれる。

 しかし、そこに「暗さ」よりも、そうして生きなければならない人間存在に上から光が当てられ、つつがなく人生を送っているかに見える者までも照射してやまない「大いなる光」を見る思いがした。

 そして、紹介した石牟礼氏の叙述に私は胸中で又しても民数記21章を思わざるを得なかった。(もちろん、「拝め」と爺さまが指し示しているのは『偶像』であり、主なる神様が指し示している『青銅の蛇』とは異なることは百も承知しているが)今日はその箇所を引用されたイエス様のことばを紹介しておきたい。

だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子〈イエスのこと〉です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ3・13〜15)

0 件のコメント:

コメントを投稿