2019年12月15日日曜日

2019.12.14 at Poco rit in Musashi Urawa
わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。(ローマ10:20)

 私は27歳の時、イエス様を信じました。今から17年前です。私は、そのときまで神の存在を否定していました。理由は簡単です。神は見えないからです。科学が全てだと思っていました。キリスト教というのは上品な宗教かもしれないが、世の中の矛盾には目をつむっていて、人々に社会に対する批判力をなくさせる害のある宗教だと思っていました。

 だから、むしろこのような宗教は無くなったほうが良いと積極的に考えていました。私の目は世の中の富の不平等、社会の不公平に向いていましたので、それを解決するためにはどうすれば良いかを考えていました。たまたまその当時読んだ本の中に、人間の欲望の肯定こそが人間らしい生き方であり、その生き方を妨害しているのが高等宗教であるキリスト教であり、結局その思想が金持ちをのさばらすのであり、そのことを知らないでいるのは、大変愚かであるという思想に共鳴を覚えたのです。

 だから、私にはクリスチャンのいわゆる「聖さ」というものが信じられませんでした。なぜなら、それは自然の傾向に反する大変無理をした生き方であり、クリスチャンという存在はたいへんな偽善者のあつまりであるとしか思えなかったからです。

 だから、その当時親しかったクリスチャンの友人に手紙で自分の醜さを洗いざらい告白した時、相手のクリスチャンに軽蔑されると思っていました。ところが、逆にそのようなあなたの醜い罪のために、キリストは十字架にかかられたのであり、その私の罪のためにその友人が泣いたと言う文面に接して、この不思議なキリストのことが書いてある、聖書を読んでみようという思いがわいてきたのでした。

 社会を批判したり、またクリスチャンを批判してばかりで、とかく自分以外の外側に向けられていた刃が自分の内側の矛盾に徐々に徐々に向けられるように変わっていったのです。ただ、どうしても神の存在は信じられませんでした。ちょうどそのような時、自転車で、走行中のマイクロバスに接触して交通事故に遭い、危うく命拾いするというできごとが起こりました。

 後遺症に悩むうちに弱い自分の肉体に不安になり、神がいないと豪語している自分は単に強がっている人間にすぎないことを知り、自分の生命の支え手であり、造り主である神様の存在をいつしか認め、この神様に祈る生活に変えられていきました。それとともに傲慢であった神様を否定した生き方や、過去に父を裏切った生き方がいかに間違っていたかを知りました。しかし、感謝なことに自分の罪を神様に言いあらわした時、神様からの罪の赦しを体験したのです。私を二重にも三重にも苦しめていた罪からやっと解き放たれ、まことの解放感を味わったのです。それ以来今日にいたるまで私のこの魂の平安を奪うものはなく、本当にクリスチャンになって良かったと思わない日はありません。

 最後につい最近あった出来事をご紹介して私の証を終わらせていただきます。ある日、家の窓ガラスが壊されて困ってしまいました。しかしその窓ガラスは教会の方が即座に修理してくださったのです。それだけではありません。同じ日、自転車が盗難にあってこれまた困りました。ところが、これも別の教会の方のお取り計らいにより、新しい自転車が与えられたのです。

 私はこれ以上何をつけくわえる必要があるでしょうか。かつての私が思ったように、このような行ないは偽善者のするわざだと答えるのが正しいのでしょうか。いいえ、愛のなせるわざなのです。

 私のような自己中心のどうしようもない者が、今このように神を愛する者に変えられて、その上、神を愛するクリスチャン同士の愛の交わりをいただいていることを感謝します。皆さんも、ぜひこのクリスマスの時、イエス様を信じ神様に祝福される生涯にお入りになるようにお祈りします。

(昨晩、クリスマス・コンサートに招待され、初めてお聞きするパイプオルガンの演奏を堪能させていただいた。同時に牧師さんのクリスマス・メッセージをお聞きしながら、ゆくりなくも三十年以上前に出席していた教会の燭火礼拝での自らの証を思い出し、帰宅して引っ張り出してみた。1987年12月24日のことだった。再録する。)

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